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第59話:揺らぐ信念

 リリスが去った後も、レオの心は激しい波に揉まれ続けていた。


 昨日、彼女が語った「この世界は単純ではない」「真実がある」という言葉が、まるで呪文のように頭の中を反響し、彼の内側に深く刻み込まれていた固定観念を、さらに深く抉っていた。


 彼の心は、かつて信じていた絶対的な「正義」と、目の前にある「真実」との間で、激しく引き裂かれようとしていた。


 その数日間のリリスとの交流は、レオにとって、まるで別世界への扉が開かれたかのようだった。リリスは、食事を運んでくるたびに、魔族たちの日常について、より具体的な話をするようになった。


「魔族の子供たちは、星が一番輝く夜に、古い歌を歌いながら、家族と手を取り合って踊るんだ」


 ある日、リリスはそう語った。

彼女の声は、その光景を慈しむかのように優しかった。


「春には、森の奥深くで、皆で力を合わせて、豊かな実りをもたらす精霊に感謝を捧げる」

また別の日は、そんな話を聞かされた。


 それは、レオが勇者育成学校で教えられた「邪悪な儀式」とは、あまりにもかけ離れた、温かく、豊かな文化の営みだった。


 リリスが語る魔族の物語には、喜びがあった。悲しみがあった。

家族を慈しむ心があり、仲間との絆を大切にする思いがあった。


 彼らの生活には、人間と何ら変わらない、いや、もしかしたら人間以上に純粋で、深く根ざした「愛情」が存在していることを、レオは言葉の端々から感じ取らざるを得なかった。


「魔族にも……

家族が、愛情が……文化が……」


 レオは、リリスが去った後、何度もその言葉を繰り返した。


 それは、彼にとってあまりにも衝撃的な事実だった。

これまで、彼は魔族を、人間を脅かす単なる「悪」としてしか認識していなかった。顔のない敵、感情を持たない存在。しかし、リリスが語る彼らは、生身の、感情豊かな存在だった。


 その衝撃は、彼の心を深く突き刺した。同時に、頭の奥底で、まるで硬い殻が砕け散るような激しい音が響き渡った。


「ぐっ……!」


 突然、激しい頭痛がレオを襲った。

それは、昨日までの痛みとは比較にならないほど、鋭く、そして持続的なものだった。


 頭蓋骨が内側から膨張するような、あるいは脳そのものが締め付けられるような激しい痛みに、レオは思わず膝から崩れ落ちた。

視界は点滅し、全身から冷や汗が噴き出した。胃の底からは、強烈な吐き気が込み上げ、口の中には苦い味が広がった。


 彼の脳裏には、過去の光景が錯綜して現れた。


 勇者育成学校の教官の声。

「魔族は残忍だ。奴らに情けをかけるな」。


 国王の演説。

「魔王はすべての平和を脅かす存在」。


 故郷を襲った魔物の影。家族を失った悲しみ。


 それらの「記憶」が、リリスが語る魔族の温かい日常と激しく衝突し、彼の心を内側から引き裂こうとする。まるで、脳が二つの異なる現実を受け入れようと拒絶し、悲鳴を上げているかのようだった。


「嘘だ……

俺が信じてきたもの、全てが……」


 彼の脳裏では、勇者としての誇り、家族への復讐心、そして何よりも「魔族は悪」という信念が、必死に自己を保とうと足掻いていた。


 しかし、その抵抗も虚しく、リリスが彼に注いでくれた無償の愛情、そして彼女が語る真実の温もりが、彼の内側の壁を容赦なく崩していく。


 その混乱の渦中で、レオの心に浮かび上がるのは、いつもリリスの顔だった。

彼女の澄んだ青い瞳。優しい声。そして、彼を真っ直ぐに信じる姿勢。彼女への深い愛情が、この苦痛をさらに増幅させていた。


 もし、リリスに会っていなければ、彼はこの真実と向き合うこともなく、偽りの安寧の中で生きていけたかもしれない。

しかし、彼女と出会い、恋をしたことで、レオは真実を知る痛みを選ばざるを得なかったのだ。


「リリス……」


 レオは、痛みに喘ぎながら、心の中で愛しい人の名を呼んだ。

彼女への想いが募るほど、彼の信念はもろくも崩れ去り、心の葛藤は深まっていった。


 彼の心は、まるで激流に逆らうかのように、過去の自分と現在の自分との間で激しく揺れ動いた。


 その時、レオの胸元で眠っていたリルが、彼の異常な震えと唸り声に気づいた。

リルは、小さな身体を起こし、レオの顔を見上げた。そのつぶらな瞳は、心配と不安に揺れていた。リルは、レオの頬にそっと顔を擦りつけ、まるで彼の痛みを吸い取ろうとするかのように、小さな舌で彼の頬を舐めた。その小さな慰めが、レオの意識をかろうじて現実へと繋ぎ止めた。


 過去の教えと、現在の現実。その二つの激しい潮流の間に立たされ、レオの心はまさに引き裂かれそうだった。


 彼が守るべきもの、戦うべき敵。

その全てが、今、不確かなものとして彼の前に立ちはだかっていた。


 頭痛は一向に収まる気配を見せず、まるでレオの脳が、新たな真実を強制的に受け入れさせようとしているかのようだった。

それは、苦痛であったが、同時に、彼が真実へと一歩ずつ近づいている証でもあった。


 レオは、牢獄の冷たい床に横たわり、意識が朦朧とする中で、リリスの言葉を思い出す。


「私は……あなたを信じる」


 その言葉だけが、この激しい混乱の中で、彼を支える唯一の光だった。

彼がどんな真実に直面しようとも、リリスが彼を信じてくれるなら。


 その思いが、彼の心に、わずかながらも希望の光を灯した。


 揺らぐ信念の先に、何があるのか。レオにはまだ分からない。

しかし、リリスへの愛情、そして彼女が示した真実への道が、彼を突き動かす原動力となっていた。


 彼の心は、痛みを伴いながらも、新たな視点を受け入れ始めていた。

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