第57話:記憶の波紋
リリスへの愛情が深まるにつれて、レオの心には、これまで経験したことのない奇妙な感覚が生じ始めていた。
それは、まるで彼の内側で、長年にわたって凝り固まっていた巨大な氷塊が、ゆっくりと、しかし確実に溶け崩れていくような感覚だった。
その氷塊とは、勇者育成学校で、そして国王をはじめとする人間社会全体によって、彼の心に植え付けられてきた「魔族は悪である」という、絶対的な固定観念だ。
リリスが語る魔族の文化や、彼女自身の優しさに触れるたび、その氷はひび割れ、溶け出していく。
魔族の歌声、彼らの生活の知恵、自然との共生。それらはすべて、レオが教えられてきた「邪悪な存在」というイメージとはかけ離れたものだった。
特に、リリスが時折見せる、はにかむような微笑みや、彼を心配そうに見つめる青い瞳の温もりは、その氷塊を根本から解体していく、強力な熱源となっていた。
「魔族が……悪だと?」
レオは、リリスが去った後の静寂の中で、何度も自問した。彼女の言葉、彼女の存在そのものが、彼の心の奥底に染み込んだ「真実」と、人間社会が作り上げた「虚構」との間に、激しい衝突を引き起こしていた。
その衝突は、やがて彼の肉体にも影響を及ぼし始めた。
ある日、リリスが、いつものように食事を運び、魔族が子供たちに教えるという星の物語を語り終えた後、突然、レオの頭を鋭い痛みが襲った。まるで、脳の奥深くに楔を打ち込まれるような、激しい頭痛。同時に、胃の底からせり上がってくるような、抑えきれない吐き気。
「うっ……!」
レオは思わずうずくまり、頭を抱えた。視界が歪み、牢獄の壁が不気味に揺れ動く。
リリスは、レオの異変にすぐに気づいた。
その無表情に近い顔に、はっきりと動揺と心配の色が浮かんだ。彼女は、鉄格子越しに、伸ばしかけた手をためらい、ただレオをじっと見つめることしかできない。
彼女の青い瞳は、いつも以上に大きく見開かれ、レオの苦痛を真正面から受け止めているようだった。
その痛みの波の中で、レオの脳裏には、過去の記憶が走馬灯のように駆け巡った。
勇者育成学校での訓練。師の厳しい声。「魔族は人間を滅ぼす存在」「奴らは容赦のない悪鬼だ」。そして、国王が国民に向けて行った演説。「魔王はすべての元凶、世界に混乱をもたらす者」。それらの言葉は、まるで呪文のように、レオの心に深く刷り込まれてきたはずだった。
しかし、今はどうだ。
目の前にいるリリス。
彼女の優しさ、悲しみ、そして人間との間に生まれた故なき孤独。彼女の存在そのものが、過去の「記憶」と激しく衝突し、矛盾を突きつけてくる。
「嘘だ……
嘘だったのか……?」
痛みに喘ぎながら、レオは呻いた。
これまで信じてきた「正義」が、虚構であった可能性。彼が命をかけて戦ってきた「悪」が、実はただ自分たちの故郷を守ろうとしていただけの存在だった可能性。
彼の家族を奪った「魔物」の存在は?
それすらも、もしかしたら、人間が作った偽りの情報だったのではないか?
その思考が、レオの脳を焼き尽くすかのような熱を生み出し、さらなる頭痛と吐き気を引き起こした。彼の身体は、偽りの記憶と真実が激しく綱引きをしているかのように、震え続けた。
かつて自分が抱いていた「使命感」が、今や、空虚な響きにしか聞こえない。
自分は、一体何のために戦ってきたのか。
何のために、故郷を失った悲劇を乗り越え、勇者になろうと誓ったのか。
すべてが、欺瞞の上に成り立っていたとしたら。
「……レオ?」
リリスが、心配そうに、しかし小さな声でレオの名前を呼んだ。
彼女の声は、レオの激しい苦痛の中に、一筋の清涼剤のように響いた。
その時、レオの足元で、リルが小さく鳴いた。リルは、普段はレオの胸元や肩に乗っていることが多いが、この時ばかりはレオの足元に降り、彼の震える足にそっと身体を寄せていた。
その小さな瞳は、レオを見上げ、明らかに心配の色を浮かべている。レオの体調の異変を敏感に察知しているようだった。リルは、レオの苦しみを少しでも和らげようとするかのように、小さな頭をレオの足に擦りつけた。その柔らかな毛の感触が、レオの意識を現実に引き戻す。
レオは、深く呼吸をしようと努めた。
体内の混乱は収まらないが、リリスとリルの存在が、彼を支えていた。
彼が信じてきた「正義」は、果たして本当に「正義」だったのか。この問いは、レオの心の奥底に、深い傷跡を残した。
それは、これまで築き上げてきた自己が、音を立てて崩れていくような感覚。しかし、その崩壊の先には、これまで見えなかった真実の光が、かすかに、しかし確実に輝き始めているような予感があった。
リリスは、レオが落ち着きを取り戻すのを、辛抱強く見守っていた。
彼女は何も言わず、ただそこにいた。その沈黙は、レオにとって何よりも心強いものだった。彼女が自分を、この混乱の渦中にある自分を、見捨てずにいてくれる。その事実が、レオの心を支えた。
しばらくして、頭痛と吐き気は、波が引くように少しずつ和らいでいった。レオはゆっくりと顔を上げ、リリスを見つめた。彼女の瞳には、まだ心配の色が残っていたが、その奥には、彼への深い理解と、変わらぬ愛情が宿っているように見えた。
「大丈夫だ……」
レオは、掠れた声で言った。その声は、自分自身に言い聞かせているかのようだった。
この苦痛は、真実へと至る道程で、避けて通れない試練なのだ。レオはそう確信した。
リリスへの愛情が深まれば深まるほど、彼の中に植え付けられた偽りの記憶は、その存在意義を失っていく。そして、その過程で生じる激しい衝突こそが、今の彼の苦悩の正体なのだ。
リリスは、何も言わずに頷いた。
そして、いつものように静かに立ち上がり、牢獄を後にした。
彼女が去った後も、牢獄には、レオの頭痛の余韻と、心に残る激しい疑問の波紋が広がっていた。
リルは、レオの膝に飛び乗ると、小さな身体をレオに押しつけ、彼を慰めるように喉を鳴らした。
レオは、リルの柔らかな毛を撫でながら、改めて自身の心に問いかけた。
「正義とは何か? 悪とは何か?」
これまで明確だったはずの境界線が、今、完全に曖昧になっていた。
彼は、今、この牢獄の中で、真実の片鱗を掴み始めていた。
そして、その真実へと導いてくれるのは、彼の心を深く愛するようになった、リリスなのだと、強く感じていた。




