第44話:偽りの慟哭
広間に響き渡っていた激しい戦闘の音が一瞬、凍り付いたように感じられた。
アルスは、背中に深く突き刺さった毒矢の激痛に、顔を歪ませていた。全身を駆け巡る猛毒が、彼の体を内側から焼くような熱を伴い、視界は急速に暗転していく。膝から崩れ落ち、熱い砂埃を巻き上げながら、彼は地面に片手をついた。
「ぐ……ぁ……っ……!」
言葉にならない苦悶の声が、彼の喉から絞り出される。毒に侵された呼吸器が、ヒューヒューと不規則な音を立て、胸が締め付けられるような痛みが走った。
その異変に、真っ先に気づいたのはエリックだった。彼は素早く振り返り、アルスの異様な姿を視界に捉えた。
「アルス!?
どうしたんだ、一体!?」
エリックの声に、レオとセレーネもようやく気づいた。彼らは、目の前の魔族の攻撃を半ば反射的にかわしながら、アルスの元へと駆け寄った。
「アルス!
お前、まさか毒を……!?」
レオが叫んだ。彼の目には、魔族が放つ強力な毒に苦しむアルスの姿が映っていた。
彼が対峙していた魔族の毒と同じく、アルスの皮膚もみるみるうちに蒼白になり、血管が浮き出ている。彼らは、それが魔族の毒によるものだと疑わなかった。
セレーネも、アルスの変わり果てた姿に顔色を失った。
「アルス様!
しっかりしてください!
回復魔法を……!」
セレーネはすぐに詠唱を始めようとするが、彼女自身も先ほどから続く毒の攻撃と魔力の消耗で、体が限界に近かった。詠唱に集中しようとするが、意識が朦朧とする。
アルスは、薄れゆく意識の中で、必死に伝えようとした。この毒は、あの魔族たちのものとは違う。そして、この矢は――。
彼の震える手が、わずかに持ち上がる。
指先が、広間の隅、闇に隠れた場所を指し示そうとする。
そこには、毒矢を放った「誰か」が潜んでいた可能性があった。
「アレは……っ、
グ……ッ!」
途切れ途切れに、何かを伝えようと口を開く。
彼の瞳は、かすかに、しかし確かに、その「誰か」を捕らえようとしていた。
しかし、彼の指は震え、言葉は喉の奥で音にならなかった。
毒の回りが、あまりにも早すぎた。
アルスの指が、力なく地面に落ちる。彼の体から、急速に生気が失われていくのが、見て取れた。
「アルス……!
アルス、おい!
返事をしろ!」
レオが、その体を揺り起こそうと手を伸ばす。しかし、彼の意識が戻ることはなかった。
アルスの顔から、苦悶の表情が消え、まるで深い眠りに落ちたかのように、静かに息を引き取った。
その場に、重い沈黙が訪れた。激しい戦闘の喧騒も、彼らの耳には届いていなかった。
「う……そ……だろ……」
レオの声が、震えた。
彼の視線は、虚ろに天井を見つめるアルスの目に固定されている。その瞳には、もはや光は宿っていなかった。
「アルス……
アルス様ぁぁぁ!」
セレーネの悲痛な叫びが、広間に響き渡った。
彼女はアルスの亡骸にすがりつき、幼い子供のように声を上げて泣いた。賢者として、常に冷静で、彼らの命を支え続けてきたアルス。彼がいなければ、どれだけパーティーが窮地に陥ったか、数えきれない。
エリックもまた、言葉を失っていた。彼の顔は蒼白になり、握りしめた剣の柄が、ミシミシと音を立てるほどだった。冷静沈着な彼でさえ、親友のあまりにも突然の死を受け入れられずにいた。
アルスの死は、パーティーにとって計り知れない喪失だった。彼は単なる回復役ではなく、知識と知恵で彼らを導く、まさに「賢者」だったのだ。
彼らは、アルスが魔族の放った強力な毒によって殺されたと、確信していた。
広間に満ちる有毒な空気、そしてアルスの体に現れた毒の症状。彼らにとって、これ以外の可能性は存在しなかった。あの毒矢は、魔族の使う毒魔法の一つに過ぎない、そう思い込んでいたのだ。
アルスが最期に伝えようとしたこと、毒矢が魔族の攻撃に見せかけた「偽り」であることには、誰一人として気づかなかった。
深い悲しみが、彼らの胸を締め付けた。しかし、その悲しみはすぐに、激しい怒りへと変わっていった。
「許さない……
絶対に許さないぞ、魔族共ォォォ!」
レオの叫びが、広間にこだまする。彼の瞳は、怒りと憎悪に燃え、その剣を握る手には、尋常ではない力が漲っていた。エリックもセレーネも、同様だった。彼らの親友を奪った魔族への憎悪が、今、彼らの心に深く刻み込まれた。
彼らは知る由もなかった。
自分たちの憎悪の矛先が、実は、真の敵とは異なる方向へと向けられていることを。
アルスの死は、彼らの心に拭い去れない傷跡を残し、同時に、彼らの運命を大きく狂わせる、偽りの慟哭の始まりとなるのだった。




