第37話:凍える洞窟
雪に覆われたモルグ・アイン山脈の懐は、死んだような静寂に包まれていた。
レオたちは、失踪者が最後に目撃されたという場所から、さらに奥深くへと足跡を追っていた。降り積もった雪は彼らの膝まで達し、一歩進むごとにおびただしい体力を奪っていく。
「おかしい……。
足跡が、一つの方向へ向かって続いている」
最後尾で慎重に痕跡を調査していたアルスが、眉をひそめて呟いた。その声は、張り詰めた空気の中、やけに明瞭に響いた。
「どういうことだ、アルス?
魔獣に襲われたんじゃないのか?」
レオが、荒い息を整えながら振り返る。
「襲われたにしては、争った形跡が一切ない。まるで……
何かに誘われるように、あるいは、運ばれるように、皆が同じ場所へ向かっているように見える」
アルスの言葉に、パーティーの間に緊張が走る。
それは、単なる魔獣の襲撃よりも、さらに不気味で計画的な何かを示唆していた。
彼らは、アルスが指し示す足跡の先を追った。やがて、巨大な岩壁に行き着く。
その岩壁の中腹に、まるで巨大な獣が口を開けているかのように、ぽっかりと洞窟が口を開けていた。
洞窟の入り口からは、周囲の空気とは比較にならないほどの、異常な冷気が絶えず吹き出している。
「ここか……。
嫌な感じがするわね」
セレーネが、杖を握りしめながら身震いした。
洞窟の闇の奥から、得体の知れない邪悪な気配が漏れ出しているのを、彼女の魔術師としての鋭敏な感覚が捉えていた。
「失踪した村人たちは、この中に入っていったと?」
エリックが、剣に手をかけ、洞窟の入り口を睨む。
「その可能性が高い。
行くぞ。何が待ち構えていようと、村人たちを見捨てるわけにはいかない」
レオが決意を固め、先頭に立って洞窟の中へと足を踏み入れた。
洞窟の内部は、想像を絶する氷の世界だった。壁も、床も、天井までもが、分厚く、そして滑らかな氷で覆われている。レオたちの吐く息は、瞬時に白く凍りつき、地面に落ちてはかなく砕けた。
「うわっ……!」
レオが、滑りやすい足元に体勢を崩しかける。
一歩一歩が、まるで薄氷の上を歩くかのように慎重さを要求された。
「セレーネ、明かりを」
アルスの指示で、セレーネが杖の先に小さな光球を灯す。しかし、その魔法の光は、洞窟の氷壁に無数に乱反射し、かえって彼らの視界を惑わせ、距離感を狂わせた。
洞窟の奥からは、時折、氷が軋むような甲高い音と、地の底から響くような低い唸り声が聞こえてくる。
彼らは警戒を最大限に高めながら、洞窟の奥へと進んでいった。道は徐々に広くなり、やがて巨大な氷の広間のような場所へと辿り着く。
広間の中心には、天を突くほどの巨大な氷柱が何本もそびえ立ち、荘厳でありながらも、どこか墓標のようにも見えた。
その時だった。
グォォオオオオオオッ!
広間全体を揺るがすほどの、凄まじい咆哮が響き渡った。巨大な氷柱の影から、ゆっくりと巨大な影が姿を現す。
それは、白熊を思わせる巨体に、猛々しい牙と、剃刀のように鋭い氷の爪を持つ魔獣だった。
その体躯は優に五メートルを超え、全身を覆う白い毛皮の所々が、まるで鎧のように青白く輝くエーテル結晶に覆われている。
その瞳は、凍てつく憎悪の光を宿し、紛れもない殺意をレオたちに向けていた。
「な、なんだ、あいつは……!?」
レオが、その圧倒的な威圧感に思わず後ずさる。これまでの魔獣とは、格が違う。
「エーテル結晶を直接体内に取り込み、巨大化した雪獣……!
まさか、こんな魔獣が存在したなんて……!」
アルスが、驚愕の声を上げた。彼の知識をもってしても、文献でしか見たことのない、伝説級の魔獣だった。
雪獣は、再び咆哮すると、その巨大な口から、絶対零度の吹雪を吐き出した。
「危ない!」
レオが叫び、とっさに仲間を庇うように前に出る。吹雪は、レオが構えた剣を瞬時に凍りつかせ、彼の腕の感覚を麻痺させた。
「くそっ……! 冷てぇ!」
「下がって、レオ!
フレイムウォール!」
セレーネが咄嗟に炎の壁を展開し、追撃の吹雪を防ぐ。
しかし、雪獣の冷気はあまりに強力で、炎の壁はみるみるうちに勢いを失い、相殺されてしまう。
「こいつの冷気、私の魔法と相性が最悪だわ……!」
セレーネの顔に、焦りの色が浮かぶ。狭い洞窟内では、雪獣の攻撃範囲から逃れることは困難だった。さらに、凍てつく寒さが、彼らの体力を容赦なく奪っていく。手足がかじかみ、思考が鈍り、魔法の詠唱すら満足にできなくなりつつあった。
「回り込んで、足を狙う!」
エリックが、滑る足元に苦労しながらも、雪獣の側面へと回り込もうとする。しかし、雪獣は見た目に反して動きが素早く、巨大な前足の一薙ぎで、エリックを氷の壁へと叩きつけた。
「ぐはっ……!」
「エリック!」
アルスが即座に回復魔法をかけるが、エリックは強打によって呼吸が乱れ、すぐには立ち上がれない。
戦況は、圧倒的に不利だった。
レオの剣も、セレーネの魔法も、決定的なダメージを与えられない。狭く、滑りやすく、そして極寒の環境。その全てが、雪獣に味方していた。
レオは、仲間たちが次々と傷つき、消耗していくのを見て、奥歯を噛み締めた。
(このままじゃ、全滅する……!)
彼は、凍りつく腕に力を込め、再び雪獣へと斬りかかる。しかし、その剣は、雪獣の体表を覆うエーテル結晶の鎧に阻まれ、甲高い音を立てて弾かれた。
その間も、アルスだけは、戦況から一歩引いた場所で、冷静に雪獣の動きを観察し続けていた。
彼の目は、雪獣の巨体ではなく、その行動パターンと、体から発せられる魔力の流れ、すなわち「エーテルの流れ」に集中していた。




