第33話:森の異変
リベリオン村を出発して数日、レオたちが進む街道の風景は、日に日にその様相を変えていった。
どこまでも続いていた穏やかな平原は影を潜め、道の両脇には天を突くような巨木が壁のようにそびえ立つようになる。空は木々の葉に覆われ、昼間でも薄暗く、湿り気を帯びた空気が肌にまとわりついた。
「ここがエルトリア地方か……
空気が違うな」
先頭を歩くレオが、辺りを見回しながら呟いた。これまでの旅で得た名声と自信は、彼の表情を明るくしていたが、目の前に広がる深淵な森は、無意識のうちに警戒心を呼び起こさせる。
「ウッドランドは、この森の中にある町なのよね。なんだか、少し不気味だわ」
セレーネも、周囲を漂う濃密な自然の気に、わずかな不安を感じ取っていた。道中、あれほど頻繁に出会った旅の商人や村人の姿が、この森に入ってからぷっつりと途絶えている。まるで、この先の領域が人間を拒んでいるかのようだった。
「静かすぎるな。
鳥の声すらあまり聞こえない」
エリックは、剣の柄に手をかけたまま、鋭い視線を森の奥へと向ける。彼の研ぎ澄まされた感覚が、この静寂の裏に潜む異質な何かを捉えていた。
「気を引き締めていこう。
ウッドランドはもうすぐのはずだ」
アルスの冷静な声が、パーティーの気を引き締める。
やがて、鬱蒼とした木々の合間に、ようやく人工的な建造物が見えてきた。高い木の柵で囲まれた、小さな町。それが彼らの目的地、ウッドランドだった。
しかし、町に近づくにつれて、彼らが感じていた違和感は確信へと変わった。町の入り口に立つ見張り台には、武装した衛兵が厳しい表情で周囲を睨んでいる。彼らの鎧は使い古され、その顔には深い疲労の色が刻まれていた。
歓迎の雰囲気はどこにもない。あるのは、張り詰めた緊張感と、目に見えない脅威への怯えだけだった。
「止まれ!
何者だ!」
衛兵の一人が、レオたちを認めるなり、鋭い声で制止した。その手は、腰に下げた剣の柄を固く握りしめている。
アルスが一歩前に出て、穏やかに名乗った。
「我々は旅の者です。勇者育成学校を卒業し、魔王討伐の旅をしております。リベリオン村での一件を聞き及んでおられませんか?」
「リベリオン村……?」
衛兵は怪訝な顔をしたが、隣にいた年配の衛兵が、はっとした表情でアルスの顔を見た。
「まさか……
リベリオン村を悩ませていた魔獣の群れを討伐したという、あの勇者パーティー様では……?」
その言葉に、レオがにやりと笑って胸を張る。
噂は、こんな森の奥の町まで届いていたらしい。衛兵たちの険しい表情は瞬く間に驚きと、そして微かな希望の色へと変わった。
「これは失礼いたしました!
どうか中へ!
今すぐ町長にお知らせします!」
衛兵に案内されて町の中へ足を踏み入れたレオたちは、その深刻な状況を目の当たりにした。通りに人影はまばらで、すれ違う人々は皆、不安げな表情で足早に家の中へと消えていく。多くの家の窓は板で打ち付けられ、まるで町全体が巨大な要塞のように外部からの侵入を拒んでいた。
案内されたのは、町で一番大きな建物である集会所だった。中では、町の責任者らしき初老の男性――ウッドランドの町長が、険しい顔で彼らを待っていた。
「お待ちしておりました、勇者様方。わしがこの町の町長、ドルガンと申します」
ドルガン町長は、安堵と疲労が入り混じった複雑な表情で頭を下げた。
「早速で申し訳ないが、単刀直入に伺います。この町のただならぬ雰囲気……
やはり、魔獣の被害が出ているのですか?」
アルスの問いに、町長は重々しく頷いた。
「はい。
しかし、リベリオン村を襲ったような低級の魔獣ではございません。
我々を脅かしているのは……
森のオークです」
「オークだと?」
エリックが眉をひそめた。
オークは、豚のような醜い顔と強靭な肉体を持つ、知性のある魔族の一種だ。低級の魔獣とは比較にならないほどの戦闘能力を持つ。
「しかし、オークは本来、森の奥深くで独自の縄張りを持ち、人間と積極的に関わることはないと学園で習いましたが……」
セレーネの疑問に、町長は深くため息をついた。
「その通りです。
これまでの数十年、我々と森のオークは、互いに干渉することなく、静かに共存してきました。
それが……
ここひと月ほど前から、何の前触れもなく、彼らは凶暴化し、森から出てきては我々の町を襲うようになったのです」
町長の話は、衝撃的な内容だった。オークたちは、夜な夜な町の周辺に現れ、畑を荒らし、家畜を奪い、時には町の防壁を破壊しようとさえするという。その行動は、これまでのオークの生態からは考えられないほど、攻撃的で理性を失っているように見えた。
「理由がわからないのです。
森で何か異変が起きたのか、それとも……。
我々町の者も、ただ怯えることしかできず、困り果てておりました。そこに、勇者様方の噂が届いたのです。
どうか、この町を……
いえ、あの森を、元の静かな姿に戻していただけないでしょうか」
ドルガン町長の言葉は、懇願であり、悲鳴にも似ていた。
「また魔族の仕業か……。
人間を苦しめることしか能がないのか、あいつらは!」
レオは、拳を握りしめ、怒りを露わにした。彼の心の中では、「魔族は全て悪である」という学園の教えが、疑いようのない真実として固まっていく。
しかし、アルスは冷静だった。彼の知的好奇心は、オークの「異常な行動」そのものに向けられていた。
「妙ですね。
知性のあるオークが、理由もなく縄張りを捨てて人間を襲うとは考えにくい。
食料不足というだけでは、説明がつかないほどの執拗さです。
何か……
彼らをそうさせている、別の要因があるのかもしれません」
アルスの指摘に、レオたちも考え込む。確かに、ただ凶暴化したというだけでは、腑に落ちない点が多い。
「何が原因だろうと、やることは一つだ。
困っている人たちを助ける。それが俺たち英雄の役目だろ!」
レオが、迷いを振り払うように言った。その単純明快な正義感が、このパーティーの原動力だった。
「そうね。
原因の究明も大切だけど、まずは町の人々の安全を確保するのが先決よ」
セレーネもレオに同意する。
「よし、決まりだな。
依頼、引き受けさせてもらいます、町長。
俺たちが、そのオークどもをなんとかしてみせます」
エリックが、自信に満ちた声で請け負った。
彼らの決意に、ドルガン町長の顔にようやく安堵の色が浮かんだ。
依頼を受けたレオたちは、早速、オークが出現するという森へと向かった。町の人々の、期待と不安が入り混じった視線を背に受けながら、彼らは再び、あの深淵な森へと足を踏み入れる。
森の入り口付近には、オークが残した生々しい痕跡が残されていた。巨大な足跡が泥濘に深く刻まれ、大人が両腕で抱えるほどの太さの木が、まるで小枝のようにへし折られている。
その圧倒的な破壊の痕跡は、牙狼のような低級魔獣とは比較にならない、強大な力の存在を物語っていた。
森の奥へ進むにつれて、空気はさらに重く、そして冷たくなっていく。不気味なほどの静寂が、彼らの神経をじりじりと苛んだ。
不意に、森の奥から、地を揺るがすような低い咆哮が響き渡った。
「来たか……!」
レオが剣を抜き放ち、低く身構える。
その咆哮は一つではなかった。次々と、呼応するように雄叫びが上がり、木々を揺らし、大地を震わせる。それは、間違いなく統率された、オークの群れの鬨の声だった。
初陣の勝利で得た自信と名声。しかし、今、彼らの目の前に立ちはだかろうとしている脅威は、これまでとは明らかに次元が違う。
レオたちの顔から、旅の道中で見せていた明るさが消え、学園の訓練以来の、極度の緊張感が走った。
英雄たちの旅は、早くも次なる試練の時を迎えようとしていた。




