第25話:氷解する心
国王歴1009年6月。
あれから、およそ一ヶ月が経過していた。セレーネは、図書館の隅にある、人目につきにくい場所で、いつものように魔法書を広げていた。しかし、その視線は、書物に集中していなかった。彼女の脳裏には、いまだあの日の光景が鮮明に焼き付いていた。
グレート・ベヒモスの猛攻、崖の縁で宙吊りになった自分。そして、目の前で迫る死。
その絶望的な状況で、誰よりも見下していた、魔法の使えないはずのレオが、稲妻のように現れ、自分を救い出したのだ。彼の、迷いのない剣さばき。頑丈な魔獣を、たった一人で退ける圧倒的な身体能力。そして、自分を無事に引き上げてくれた、あの力強い手。
セレーネの胸には、これまで感じたことのない感情が渦巻いていた。それは、屈辱と、そして、感謝の気持ちだった。
「セレーネ」
不意に、背後から声がかけられた。
セレーネは、びくりと肩を震わせ、振り返る。そこに立っていたのは、レオだった。彼は、いつものように、どこか不器用な、しかし真っ直ぐな眼差しで、セレーネを見つめていた。
セレーネの心臓が、ドクンと音を立てた。逃げ出したい衝動に駆られる。しかし、あの時、自分の命を救ってくれたのは、目の前のレオだ。このまま、何事もなかったかのように振る舞うことなど、彼女のプライドが許さなかった。
「……レオ」
セレーネは、絞り出すような声で、彼の名を呼んだ。
沈黙が、二人の間に流れる。静寂の中で、セレーネは、自分が抱いていたレオへの偏見が、いかに浅はかで、根拠のないものだったかを痛感した。彼女は、魔法こそが全てだと思い込み、それを持たない者を蔑んできた。しかし、あの時、自分は、魔法が使えなかった。そして、レオは、魔法なしで、自分を救ったのだ。
「……ありがとう」
セレーネは、震える声で、ついに感謝の言葉を口にした。
その言葉は、彼女にとって、あまりにも重いものだった。これまで、誰かに助けを求めたり、感謝を伝えたりすることなど、ほとんどなかったからだ。
レオは、わずかに目を見開いた。意外だったのだろう。
セレーネは、深く息を吸い込んだ。
「あの時、私は……本当に、どうすることもできなかった。私の魔法は、役に立たなかった」
言葉にすることで、自身の弱点が、明確になる。傲慢な仮面の下に隠されていた、魔法への絶対的な依存と、それゆえの脆弱性が、露わになった。
「そして、あなたは……魔法を使わずに、私を救ってくれた。あなたの身体能力と、あの剣技は、私がこれまで知っていたどんな勇者よりも、優れていた」
セレーネは、初めて、レオの強みを真に理解した。それは、彼女の魔法とは異なる、しかし、同じくらい、いや、それ以上に、命を救う力を持つものだった。
そして、セレーネは、意を決して頭を下げた。
「これまで、私があなたに対してしてきたこと……
いじめや、心ない言葉の数々……
本当に、申し訳なかった」
彼女の目から、大粒の涙が、ポロポロとこぼれ落ちた。それは、悔恨の涙であり、自身の愚かさを認める涙であり、そして、長年張り巡らせてきたプライドという殻が、音を立てて砕け散る音だった。
レオは、セレーネの涙を見て、一瞬戸惑った。しかし、彼はすぐに、彼女の涙の奥に隠された、本当の感情を読み取った。
「俺も……
君に、酷い言葉を言ったことがあった。
俺こそ、悪かった」
レオの表情は、どこか優しかった。彼は、セレーネが、卓越した魔法の才能とは裏腹に、常に周囲から特別な存在として見られ、その完璧さを求められるゆえに、孤独や、時には人知れぬ劣等感を抱えていたことに、気づいていた。魔法が使えない自分と、完璧を求められるセレーネ。異なるようで、二人は、どこか似たような孤独を抱えて生きてきたのだ。
セレーネは、顔を上げた。
涙で滲んだ視界の先に、レオの、困ったような、しかし優しい顔があった。
「私……
私は、ずっと、怖かったの。
魔法が、私の全てだから。
もし、魔法が使えなくなったら、私には何も残らないって……」
セレーネの口から、本音がこぼれ落ちた。その声は、震えていた。彼女は、完璧な魔法使いという仮面を被ることで、自身の内なる不安を隠してきたのだ。
「俺も、同じだ。
魔法が使えないから、ずっと見下されてきた。
だから、誰にも負けないくらい、強くなろうと……
そう思って、必死だった」
レオもまた、自身の本音を打ち明けた。彼の言葉は、セレーネの心に、じんわりと温かいものを広げた。完璧な魔法使いと、魔法の使えない異端児。互いに異なる場所で、同じような孤独と、それゆえの焦燥感を抱えていたのだ。
二人の間に長年続いていた確執が、まるで氷が解けるように、ゆっくりと、しかし確実に消え去っていく。互いの弱さと強さを理解し、そして、何よりも、互いの心の奥底に抱えていた孤独を分かち合った瞬間だった。
この和解は、アルスが、まさにこの瞬間のために長い間待ち望んでいたものだった。
パーティー結成への、決定的な一歩が、今、確かに踏み出されたのだ。彼らの未来を照らす、希望の光が、この場所で確かに芽生えた。




