第190話:希望の光
絶望には、形も音もない。
それはただ、魂が凍てつくような絶対的な静寂と、全ての光が失われた完全な闇としてそこに在る。
王都エルトリアを覆っていたのは、まさにその絶望そのものだった。
リリスは意識のないリオと倒れたレオを守るように、たった一人で絶望的な数の異星人たちの前に立ちはだかった。
彼女の瞳にはもはや涙はなかった。
あるのはただ、愛する者を守るための母として、そして妻としての最後の、そしてあまりにも儚い覚悟だけだった。
異星人の一人が、その腕の刃をきらめかせ、リリスへと無慈悲に振り下ろした。
白銀の刃が、彼女の黒髪をかすめる。
死。
誰もが、本当の終わりを覚悟した。
その、永遠にも思える一瞬の静寂。
その静寂を切り裂いたのは、刃が肉を断つ生々しい音ではなかった。
キィィィィィィィィィィィィィィィィィンッ!!!!
空が、再び、裂けた。
しかし、それは異星人たちが開いたあの禍々しい「黒い円」ではない。
どこまでも気高く、そしてどこまでも力強い、白銀の光を放つ巨大な空間の亀裂だった。
その光は闇を祓い、絶望を浄化するかのように、廃墟と化した王都の郊外を神々しく照らし出した。
そして、その光の中から。
聞き覚えのある、しかし決してここにいるはずのない威厳に満ちた一つの雄叫びが、この絶望の星に響き渡ったのだ。
「――グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!」
その雄叫びは、ただの音ではなかった。
それはこの星の、生命そのものの怒りの叫び。
偽りの神々に対する真の王者の帰還を告げる、審判のラッパだった。
リリスに刃を振り下ろそうとしていた異星人兵士の動きが、ぴたりと止まった。
広場で暴れまわっていた全ての異形の兵士たちが、まるで金縛りにあったかのようにその動きを止め、一斉に空を見上げる。
彼らの感情を映さない赤いレンズの奥で、初めて明確な「混乱」と「警戒」の色が揺らめいた。
白銀の亀裂から最初に姿を現したのは、一体の巨大な竜だった。
その全身は磨き上げられた純白の鱗に覆われ、その背には水晶のように透き通った翼を持つ。
その顔は人の形に近く、その瞳は悠久の時を見つめてきたかのように深く、そして全てを見透かすような輝きを放っていた。
レオたちが遠い新大陸で出会った、あの老練にして最強の魔王。
「……竜王……!」
リリスの唇から、信じられないという響きと共にその名が漏れた。
竜王は、リリスに襲い掛かろうとしていた異星人兵士を、その天空の玉座から見下ろした。
その瞳に宿ったのは、絶対的な王者の威圧。
次の瞬間、異星人兵士の体は内側から凄まじい圧力に苦しめられたかのように、悲鳴一つ上げることなく音もなく砕け散った。
しかし、奇跡はそれだけでは終わらなかった。
竜王が切り開いた白銀の亀裂から、次々と新たな援軍がその姿を現したのだ。
南の大陸からは、巨大な亀の甲羅のような要塞をその身に宿した海の魔王が、津波のような水流と共に。
西の大陸からは、灼熱の砂漠の炎そのものを纏った獅子の姿を持つ炎の魔王が、灼熱の息吹と共に。
東の大陸からは、数百の目を持つと言われる巨大な昆虫の姿をした蟲の魔王が、その眷属たちと共に。
四つの大陸でそれぞれの民を治めていたはずの、伝説の魔王たち。
彼らが、傷つき疲れ果てた、しかしその瞳に決して消えることのない闘志の炎を宿した最強の戦士たちを率いて、今この場所に集結したのだ。
そして、その光景以上にアースガルドの人間と魔族たちを驚愕させたのは、その魔族たちの軍勢の中に、明らかに人間の兵士たちの姿が確かに混じっていたという事実だった。
彼らの鎧はボロボロで、その数はあまりにも少ない。
しかし彼らは魔族の戦士たちと背中を合わせ、その手に持つ剣と槍を空に浮かぶ異星人たちへと真っ直ぐに向けていたのだ。
その瞳にはもはや憎悪も恐怖もなかった。
あるのはただ、自分たちの故郷とこの星の未来を、かつての敵であったはずの魔族と共に守り抜くという、揺るぎない覚悟の光だけだった。
「――遅くなったな、若き魔王よ。
そして、旧き友の忘れ形見よ」
竜王の威厳に満ちた声が、レオとリリスの魂に直接響き渡った。
「な……なぜ……貴方が、ここに……」
朦朧とする意識の中で、レオはかろうじてその言葉を口にした。
「フ……。
お主が、あの『共鳴の角笛』を吹かずとも、この星そのものが発する悲鳴が我らをここに呼んだわ」
竜王は静かにそう言うと、眼下に広がる異星人の軍勢へとその視線を向けた。
「そして……旧き友との約束を、果たすためにな」
その言葉を合図に、四大陸の魔王たちが一斉に行動を開始した。
海の魔王が巨大な津波を呼び寄せ、市街地で暴れまわっていた多脚戦車をいともたやすく飲み込み、押し流す。
炎の魔王が天に向かって灼熱のブレスを吐き出し、空を覆っていた無数の小型ドローンをまるで羽虫のように焼き払っていく。
生き残った人間たちもまた、魔族の戦士たちと完璧な連携を見せた。
人間の騎士が、その重厚な盾で魔族の戦士を庇う。
その盾を足場にして魔族の戦士が高く跳躍し、異星人の頭上からその巨大な斧を叩きつける。
それは、エリックとゴウキがこのアースガルド大陸で、血と汗の果てにようやく築き上げたあの共闘の姿そのものだった。
その奇跡的な来援の光景は、絶望の淵に沈んでいたアースガルドの連合軍に雷のような衝撃を与えた。
「……竜……王……?」
市街地の瓦礫の中で血の海に沈んでいたエリックが、その懐かしい、そして圧倒的な魔力の波動に、薄れゆく意識の中でかろうじて顔を上げた。
彼の目に映ったのは、もはや悪夢ではない。
信じがたい、しかし確かな希望の光景だった。
「な……なんだ、あいつらは……味方、なのか……?」
城壁の上で武器を捨てかけていたゴウキや騎士団長たちが、その信じがたい光景に目を見開いていた。
自分たちと同じように、いやそれ以上に絶望的な状況にあったはずの他の大陸の者たちが、今、自分たちを救うために戦っている。
その事実は、彼らの疲れ果てた心に再び熱い、熱い闘志の炎を灯した。
「うおおおおおおおおおおっ!!!!」
ゴウキが最初に叫んだ。
「まだだ! まだ終わってねぇぞ!
俺たちの王は、まだここにいるんだ!」
彼は血まみれの体で再びその巨大な戦斧を手に取ると、近くにいた異星人兵士へと猛然と襲い掛かった。
その雄叫びは伝染した。
「そうだ! 英雄エリック様は、まだ戦っておられる!」
「我らがここで諦めてどうする!」
倒れていた騎士が、折れた剣を手に立ち上がる。
負傷していた魔族が、最後の魔力を振り絞って魔法の詠唱を開始する。
疲弊しきっていた連合軍の兵士たちの心に、再び希望の光が灯ったのだ。
彼らは再び立ち上がった。
今度は、一人ではない。
大陸を越えて集った、全ての仲間たちと共に。
竜王率いる援軍の圧倒的な力と、再び奮起したアースガルド連合軍の捨て身の反撃。
その二つの力が一つとなり、戦場の流れは一気に、そして劇的に逆転した。
これまで完璧なまでの統率を誇っていた異星人たちの陣形に、初めて明確な「混乱」が生じ始めたのだ。
竜王は、その戦況を静かに見つめていた。
そして、その巨体をゆっくりと降下させ、傷つき倒れるレオの隣へと舞い降りた。
その白銀の鱗は、血と泥に汚れた戦場の中で、あまりにも気高く、そして美しく輝いていた。
「……竜王……。
なぜ……あの人間たちが、お前たちと共に……」
レオは、最後の力を振り絞って問いかけた。
竜王は、人間と魔族が共に戦う援軍の姿をその深い瞳で見つめた。
その瞳には深い慈愛と、そしてどこか誇らしげな光が宿っていた。
「驚いたか、若き魔王よ。彼らがなぜ、我らと共にいるのか」
竜王はレオの顔を覗き込むように、その巨大な顔を近づけた。
「その話は、この忌々しい戦いを終わらせてから、ゆっくりと聞かせてやろう」
「今はただ、生きることだけを考えよ。
そして、お主が王として為すべきことを、為すのじゃ」
その言葉は、レオの尽きかけた生命力に再び熱い炎を灯した。
彼はリリスから眠るリオをそっと受け取った。
そして、その小さな体を胸に抱きしめながら、竜王の力を借りて、ゆっくりと、しかし確かに再びその足で大地に立った。
彼の瞳にはもはや絶望の色はない。
そこには再び、この星の未来をその双肩に背負う王としての揺るぎない輝きが戻っていた。
「……ああ、そうだな」
レオの声はかすれていたが、その響きには絶対的な意志が宿っていた。
「まずは、この俺たちの美しい星を汚す忌々しい害虫どもを、一匹残らず掃除するとしようか!」
レオは天に向かって、全軍に最後の、そして最大の反撃を命じる雄叫びを上げた。
その声に呼応するように、人間と魔族、そして大陸を越えて集った全ての生命が、一つの魂となって咆哮した。
絶望の夜は、明けた。
この星の真の夜明けを告げる希望の光が、今、昇ろうとしていた。