第186話:リオの新たな洞察
国王歴1027年6月下旬。
王都エルトリアは、嵐の前の不気味なほどの静寂に包まれていた。
人間と魔族の連合軍による共同訓練が始まってから、二週間が過ぎている。
練兵場を支配していた怒鳴り声と剣の音は鳴りを潜め、代わりに兵士たちが自らの武具を黙々と手入れする規則正しい金属音だけが響いていた。
彼らの間にあったぎこちなさは消え、今は互いの背中を預ける戦友としての静かで揺るぎない信頼が芽生えている。
レオとエリックが灯した希望の火は、確かに一つの強固な軍勢を創り上げたのだ。
しかし、指導者たちが集う王宮の作戦室の空気は、日に日にその重さを増していた。
「……やはり、ここが一番の懸念材料だ」
エリックが、広げられたアースガルド大陸の地図の一点をその指でなぞりながら言った。
彼の顔には戦術家としての、そしてこの星に残された最後の人間としての深い苦悩の色が浮かんでいる。
「我々の『一点突破』作戦は、その成否の全てがリオの特別な力にかかっている。
彼が敵の中枢である『核』の正確な位置を、あの広大なモルグ・アイン山脈の中から探し出せるかどうかに」
その言葉に、作戦室にいる誰もが押し黙った。
騎士団長もゴウキも、そして他の部族の長たちも、その作戦のあまりの危うさを理解していた。
たった八歳の少年の未知の能力。
それに、この星の全ての生命の未来を賭ける。
それはもはや作戦と呼ぶにはあまりにも脆く、祈りに近いものだった。
「もし、敵が複数の偽の『核』を用意し、我らを騙そうとしたら?」
エリックは、最悪の可能性を冷静に口にした。
「もし、敵が何らかの方法でエーテルの流れを乱し、リオの感応力を妨害してきたら?
その瞬間に我々の突入部隊は広大な敵地の中で完全に孤立し、各個撃破されるだろう。そうなれば、もう二度と好機は訪れない」
その言葉は、作戦室にいる全員の心に冷たい現実の杭を打ち込んだ。
◇ ◇ ◇
「分かっているわよ、そんなこと!」
リリスが鋭い声で反論した。
彼女は眠るリオの傍らで、古い魔術書を読み解きながらその議論を聞いていた。
「でも、他にどんな手があるっていうのよ!
あの子の力だけが、奴らのあの忌々しい科学技術に対抗できる唯一の希望なんでしょうが!」
彼女の言葉は正しかった。
しかし、その声がかすかに震えているのをレオとエリックは見逃さなかった。
彼女は女王として気丈に振る舞いながらも、母として、愛する我が子にあまりにも重すぎる宿命を背負わせることへの、どうしようもない不安と痛みに苦しんでいたのだ。
その張り詰めた空気を破ったのは、議論の中心にいるはずの当事者の声だった。
「……ねえ、母さん」
これまで静かに、お気に入りの木の枝で遊んでいたリオがふと顔を上げた。
その表情はどこか不思議そうな、そして少しだけ不安げな色を浮かべている。
「どうしたの、リオ。お腹でもすいた?」
リリスが、いつものように優しい母の顔で問いかける。
「ううん、そうじゃないんだ」
リオは首を横に振った。
そして、その小さな指で、作戦室の床を指さした。
「……なんだか、変なんだ」
「地面の下から聞こえてくる歌が、時々、すごく変な音になるの」
その、子供らしい、しかしあまりにも奇妙な言葉。
作戦室にいる大人たちは最初その意味を理解できず、ただ戸惑いの表情を浮かべた。
しかし、レオとエリックだけは、その言葉に雷に打たれたかのような衝撃を受けた。
「……歌が、変になる……?」
レオはリオの前に膝をつき、その小さな肩を優しく掴んだ。
「詳しく教えてくれるかい、リオ。
それはいつからなんだ? どんな風に変になるんだ?」
リオは父の真剣な眼差しに少しだけ怯えながらも、必死にその感覚を言葉にしようとした。
「うーんとね、昨日からかな。ずっとじゃないんだ。ほんの一瞬だけ」
彼は、一生懸命にその音を表現しようとする。
「いつもはね、キラキラした虹色のきれいな歌が聞こえるんだけど……。
時々、その中に泥水みたいな黒い音が『キーン!』って混ざるんだ。
すごく気持ち悪くて、耳が痛くなるような音。でも、すぐにまた元のきれいな歌に戻るの」
その、あまりにも詩的で、しかし的確な表現。
それを聞いた瞬間、エリックの脳裏でこれまでバラバラだった全ての情報が、一つの恐るべき、そして希望に満ちた仮説へと繋がった。
◇ ◇ ◇
「……時々……だと?」
エリックの声が興奮に震えた。
「それはまるで、敵が何かを『使用』している、その瞬間にだけ……。
その副作用として、観測可能な『歪み』が生じているかのようだ……!」
レオもまたその可能性に気づき、はっと息を呑んだ。
「アルスは書いていた……! 奴らの技術はエーテルに過度に依存している、と!
奴らがこの星のエーテル結晶を操り、そのエネルギーをどこか遠くの拠点へ転送したり、あるいは兵器として使用したりする、その瞬間にだけ……!」
レオとエリックの視線が、空中で激しく交わった。
二人の頭脳は、同じ一つの結論に同時にたどり着いていた。
「……エーテルの流れに、観測可能な『歪み』が生じるのではないか……!?」
その気づきは、彼らの作戦に革命的な、そしてあまりにも巨大な変化をもたらす可能性を秘めていた。
「これは……ただの弱点じゃない!」
エリックが声を上ずらせながら叫んだ。
「これは、奴らの『攻撃パターン』を俺たちが事前に読み切ることができる、究極の『予言』システムになりうるぞ!」
そうだ。
これまでは、リオの力は敵の中枢である『核』の場所を指し示す、静的な「コンパス」でしかなかった。
しかし、この「歪み」をリアルタイムで観測できるとしたら?
それは敵の「動的な行動」……すなわち、攻撃の予兆やエネルギー供給のタイミングまでをも事前に察知できることを意味していた。
例えば、異星人たちの母船が、あの王都を半壊させた主砲を発射しようとする直前。
その充填のためにはモルグ・アイン山脈の地下鉱脈から、莫大な量のエーテルエネルギーが吸い上げられるはずだ。
その瞬間に生まれる巨大なエーテルの「歪み」を、リオはその攻撃の数秒前、あるいは数十秒前に「気持ち悪い歌」として感じ取ることができる。
それによって連合軍は、敵の攻撃がどこを狙っているのかを正確に予測し、ピンポイントで防御壁を張ったり、あるいは危険地帯から兵士を退避させたりすることが可能になるのだ。
「……それだけじゃないわ」
リリスが震える声で言った。
彼女もまた、その戦術的な意味の大きさを完全に理解していた。
「もし、その『歪み』の発生源を特定できるなら……。
それは敵が今、どの拠点を最も重要視しているかの証拠になる。
陽動部隊がA拠点を攻撃した時にB拠点からエネルギーの歪みが観測されれば、Bこそが奴らの真の中枢だということが分かる……!」
それはもはや、闇雲に敵の中枢を探す危険な賭けではない。
敵の動きそのものを道しるべとして、確実にその心臓部へとたどり着くための完璧な地図を手に入れたにも等しかった。
作戦室はこれまでにないほどの興奮と、確かな勝機への自信に満ちた熱気に包まれた。
しかし、その熱狂の中心で、レオだけが静かに、そしてどこか悲しげな瞳で我が子リオを見つめていた。
この発見は勝利への確率を飛躍的に高める。
しかしそれは同時に、このまだ八歳の愛する息子に、この星の全ての命運を委ねるにも等しい、あまりにも重く残酷な役割を背負わせることを意味していた。
◇ ◇ ◇
「……リオ」
レオは再び、息子の前に膝をついた。
「……お前に、とてつもなく大きく危険な役目を頼まなければならないかもしれない。
……父さんと母さんと一緒に、戦場に出てもらうことになるかもしれないんだ。
……怖いか?」
その、父としての苦渋に満ちた問い。
しかしリオは、力強く、そして真っ直ぐな瞳で首を横に振った。
「怖くないよ、父様」
彼の声には子供らしい純粋さと、そしてこの星の未来を担う者としての気高い覚悟が宿っていた。
「僕、分かったんだ。
僕が聞こえるこの歌は、この星の歌なんだ。
そしてあの気持ち悪い音は、この星をいじめる悪い奴らの音なんだ」
彼はレオの手をその小さな両手で、力強く握りしめた。
「だから、僕がみんなを守る歌を見つけるんだ!
父様と母さんと、エリックおじさんと、みんなと一緒に戦う! それが、僕の役目なんでしょ?」
その、あまりにも健気で力強い言葉。
レオの目から、一筋の熱い涙がこぼれ落ちた。
彼は何も言わず、ただ愛する我が子をその腕の中に強く、強く抱きしめた。
リリスもまた涙を堪えきれずに、その二人を後ろから優しく抱きしめる。
彼女の心にあった母としての不安は今、我が子が持つその気高い魂への絶対的な誇りへと変わっていた。
「……決まったな」
エリックが、その光景を温かく、そしてどこまでも優しい眼差しで見つめながら言った。
彼の声には、もはや一片の迷いもなかった。
「我々の最終作戦は、完成した」
「陽動部隊が敵の注意を引きつける。
その間にリオが敵の攻撃の予兆と真の中枢の位置を特定し続ける。
その情報を元に、俺とレオの突入部隊がただ一点、敵の心臓部を貫く!」
「これなら……。
いや、この作戦でしか、俺たちは勝てない!」
その場の全員が、力強く頷いた。
絶望的なまでの戦力差。
しかし、彼らの手の中には今、それを覆しうる唯一無二の、そして最強の武器があった。
それは、人間と魔族、そしてその間に生まれた新しい世代の、決して壊れることのない「絆」という名の武器だった。
◇ ◇ ◇
その、彼らの覚悟が最高潮に達した、まさにその瞬間だった。
ウウウウウウウウウウウウウウーーーーーーーーーーーーッ!!!!
練兵場の方から、見張りの兵士が鳴らす空気を切り裂くような鋭い警報が、王宮全体に響き渡った。
作戦室にいる全員が、はっとしたように顔を上げる。
レオは誰よりも早く、その異変の正体を察知していた。
彼は窓の外、どこまでも青く澄み渡っていたはずの空を見上げた。
その顔から、血の気が引いていく。
「……来たか」
彼の静かで重い呟き。
その言葉と同時に、王都の上空の空間が再び、あの禍々しい「黒い円」によって音もなく裂け始めた。
空が、無数の異形の船によって完全に覆い尽くされていく。
最終決戦の幕が、今、上がったのだ。