第174話:国王たちの最期、融和の兆し
王都の中央広場は、これまで経験したことのない、あまりにも深く、そしてもろい静寂に包まれていた。
レオがその覚醒した魔力によって、広場にいる全ての人間たちの魂に直接語りかけた真実の記憶。
それは、百年という歳月をかけて異星人たちによって固く厚く塗り固められてきた「憎しみ」という名の壁を、内側からいともたやすく、そして完全に打ち砕いた。
兵士たちがその手に持つ槍を力なく地面に落とす。
ガシャン、という金属音が、まるで何かの終わりと始まりを告げる合図のように広場に響き渡った。
彼らの顔にはもはや憎しみの色はどこにもなかった。
あるのはただ、自分たちがどれほど愚かで恐ろしい過ちを犯してきたかという、痛切な後悔と深い恥ずかしさの色だけだった。
「我々は……なんてことを……」
「英雄様は……。
エリック様は、ずっとこの真実を知りながら一人で……」
民衆の心にエリックへの新たな感情が芽生える。
それはもはや崇拝ではない。
彼のあまりにも深い孤独と、その悲痛な覚悟に対する心からの「共感」と、そして「申し訳なさ」だった。
その、人間たちの心の変化の中心で。
騎士団長はその場で静かに、その手に持つ剣をさやに収めた。
そしてゆっくりと、天に浮かぶ黒竜とその背に立つレオとエリックに向かって、騎士としての最も深い敬意を込めてその兜を脱ぎ、深く、深くその頭を垂れた。
彼のその行動は王都の全ての兵士たちへの、無言の、しかし絶対的な命令だった。
次々と兵士たちが、その武器を捨てる。
それは降伏ではない。
偽りの王への、別れの意志表示。
そして真実の前に、自らの過ちを認める勇気ある選択だった。
◇ ◇ ◇
「……愚か者どもが……っ!」
王宮の最上階。
アースガルド国王はその光景を、信じられないという表情で見つめていた。
彼の完璧なはずだった偽りの世界が今、目の前で音を立てて崩壊していく。
自らが長年、駒として操ってきたはずの民衆が、兵士たちが、今、自分に背を向けようとしている。
「裏切り者めが!
全員、裏切り者だ!」
国王は狂気に満ちた声で絶叫した。
「ならばもはや、容赦はしない!
近衛兵! 我が最後の、そして最も忠実なるしもべたちよ!」
国王の声にこたえるように、玉座の間の巨大な扉が内側から開かれた。
そこから現れたのは百名にも満たない、しかし一人一人が王国騎士団の強者十人にも相当するとされる、王直属の最強部隊「近衛兵」だった。
彼らの身にまとう鎧は黒く、そして不気味な光を放っている。
その瞳にはもはや人間としての理性はなく、ただ王への狂ったような忠誠心だけが、らんらんと輝いていた。
彼らは異星人たちの技術によってその精神を完全に王の意のままに改造された、究極の殺りく人形だったのだ。
「行け! 我が近衛兵よ!」
国王は天に向かって、その指を突きつけた。
「あの忌まわしき魔王を!
反逆者エリックを!
そして我らに背を向けた、あの愚かな民衆と兵士どもを!
一人残らず皆殺しにせよぉぉぉっ!!!!」
その悪魔の号令と共に。
黒き近衛兵たちは地響きのような雄叫びを上げると、王宮のバルコニーから次々と広場へと飛び降りていった。
◇ ◇ ◇
広場では人間たちが武器を捨て、呆然と立ち尽くしていた。
その無防備な彼らに、王宮から降り注ぐ黒い死の影。
「危ないっ!!!!」
エリックの絶叫が響き渡った。
彼はレオの魔力によって回復したばかりの体で、黒竜の背からためらうことなく地上へと飛び降りた。
彼のその動きはあまりにも速く、そしてあまりにも美しかった。
彼は近衛兵が、無防備な民衆にその刃を振り下ろそうとした、その寸前に間に割って入った。
キィィィンッ!
エリックの剣が近衛兵の黒い刃を、火花を散らして受け止める。
「……お前たちの、好きにはさせない」
エリックの瞳にはもはや迷いはなかった。
あるのはただ、目の前の罪なき人々をこの偽りの王の狂気から守り抜くという、揺るぎない覚悟だけだった。
「エリック様!」
騎士団長がその声に応えるように、再び剣を抜き放った。
「我らも戦います!
これ以上、陛下の……いや、あの狂人の言いなりにはならん!」
その言葉を合図に、一度は武器を捨てたはずの騎士たちが再びその剣と槍を手に取った。
しかし、その切っ先が向けられていたのはもはや魔族ではない。
彼らが長年忠誠を誓ってきたはずの、王宮から現れた黒き近衛兵たちだった。
「ゴウキ!」
空からレオの声が響き渡った。
「魔族連合軍、全軍、戦闘態勢!
人間たちを援護せよ!」
「応っ!!!!」
東部平原の戦士ゴウキがその巨体を揺らし、雄叫びを上げた。
彼の指揮の下、これまで静観していた数万の魔族の軍勢が、一斉にその武器を構えた。
人間と魔族。
百年というあまりにも長い偽りの憎しみの時代を越えて。
今この瞬間に初めて、真の「共闘」が実現したのだ。
その後の戦いは、すさまじいものとなった。
しかし、それはもはや先ほどまでの悲劇的な殺し合いではなかった。
そこには明確な、そして共有された一つの目的があった。
偽りの王を打ち倒し、真の平和を自らの手で勝ち取るという、揺るぎない目的が。
それぞれの種族が持つ特性が、戦場で見事なまでに一つになっていく。
エリックの神速の剣技が、近衛兵の鉄壁の陣形に一瞬のすき間を作る。
そのすき間を、ゴウキの大地を揺るがすほどの豪快な戦斧が打ち砕く。
かつて互いに憎しみ合ったはずの二人の英雄が今、背中を合わせ互いの死角を完璧に補い合いながら戦っていた。
彼らの間に言葉はなかった。
しかし、その剣と斧が交わるたびに互いの魂が共鳴し、十年という歳月を越えた真の友情が再び熱く燃え上がっていくのを、二人は感じていた。
騎士団長の統率の取れた騎士団が盾の壁を作り、近衛兵の激しい攻撃を必死に食い止める。
その人間たちの壁の後方からリリスが南部密林の射手たちを率いて、的確な援護攻撃を放つ。
精霊の力が宿った矢が、近衛兵の鎧のわずかなすき間を正確に射抜いていく。
人間の「組織力」と魔族の「特殊能力」。
その二つが完璧な連携を生み出していた。
その戦いのさらに後方。
広場の隅では一つの小さな奇跡が起きていた。
戦いの余波におびえ泣き叫ぶ、人間の子供たち。
その子供たちを、北部凍土の屈強な魔族の戦士たちが自らの巨体を盾にして必死に守っていたのだ。
彼らの厳しく、そして口数の少ない顔には、これまで決して見せることのなかった深い、深い慈愛の色が浮かんでいた。
人間の母親がその光景を見て涙を流しながら、魔族の戦士に自らが持っていたなけなしの水を差し出す。
戦士は無言でそれを受け取った。
そのささやかな、しかし何よりも尊い交流。
それこそが、この戦いを通じて生まれ始めた真の絆の、最初の、そして最も美しい兆しだった。
空からはレオが黒竜の背から戦場全体を、その覚醒した力で見守っていた。
彼は王宮から放たれる国王の最後の抵抗である、強力な破壊魔法をその絶対的な魔力でことごとく打ち消していく。
彼の存在そのものが、この新たな連合軍の揺るぎない支えとなっていた。
戦いの流れは明らかだった。
数では劣るものの人間と魔族の奇跡の共闘は、狂ったように戦うだけの近衛兵たちを徐々に、しかし確実に圧倒していった。
やがて最後の近衛兵が、エリックとゴウキのありったけの力の一撃の前に崩れ落ちた。
広場に再び静寂が訪れる。
しかし、それはもはや絶望の静寂ではない。
勝利の、そして新たな時代の始まりを告げる希望に満ちた静寂だった。
人間と魔族の兵士たちが互いの顔を見合わせた。
その顔にはまだ戸惑いの色はある。
しかし、そこにはもはや憎悪の色はどこにもなかった。
共に強大な敵に立ち向かい血を流し、そして勝利した。
そのあまりにも強烈な体験が、彼らの間に言葉では言い表せない確かな絆を芽生えさせていたのだ。
レオは黒竜と共に地上へと舞い降りた。
彼は傷ついた兵士たちの前に静かに立った。
エリックもまた彼の隣へと歩み寄る。
二人の英雄が今、再び肩を並べて立っていた。
その姿は、この星の新たな未来を象徴する、あまりにも力強く美しい光景だった。
しかし、彼らの戦いはまだ終わってはいない。
王宮の最上階では最後の悪が、まだ息を潜めている。
そして彼らが流したあまりにも多くの血と涙。
その犠牲の上に彼らは、どのような未来を築いていくのか。
エリックはふと、今はもう誰もいない処刑台があった場所へと、その視線を向けた。
彼の脳裏にセレーネの最後の顔が、鮮明に蘇る。
(……セレーネ……。
お前の死は、決して無駄ではなかった……)
その思いが彼の心に、新たな、そしてより深い誓いを刻み込ませようとしていた。