第173話:共感の波紋
「ここにいる、国王たちだっ!!!!」
英雄エリックの魂からの絶叫が、王都の中央広場に響き渡った。
その言葉は、まるで巨大な鐘を打ち鳴らしたかのように広場にいた全ての人間たちの心に、深く重い「疑問」という名の波紋を広げていった。
戦いは、止まった。
剣を振り上げていた騎士が、その腕を止める。
槍を構えていた兵士が、その穂先を下げる。
憎しみに満ちていたはずの彼らの瞳に今宿っているのは、完全な、そしてどうしようもないほどの「混乱」だった。
(国王様が……敵……?)
(そんな馬鹿な……。
我らが忠誠を誓ったあの方が……?)
彼らが十年という歳月をかけて、絶対的なものとして信じ込んできた「正義」の仕組み。
魔族は悪であり国王は善であるという、あまりにも単純で強固なその世界の土台が、英雄自身の悲痛な叫びによって今、大きく決定的に揺らぎ始めていた。
彼らがエリックという男に寄せてきた信頼は、それほどまでに絶大だったのだ。
十年という歳月、彼はこの国の揺るぎない光だった。
魔王を討伐し平和をもたらした、絶対的な英雄。
その汚れのない心、その揺るぎない正義感を、誰もが信じて疑わなかった。
彼が培ってきた人々からの愛情、すなわち「共感させる力」は、国王たちが植え付けた偽りの憎悪よりも遥かに深く、人々の心に根を張っていた。
その英雄が今、自らが仕えるべきはずの王を「真の敵」だと断じたのだ。
その瞳に狂気の色はない。
あるのはただ、どうしようもないほどの悲痛な覚悟だけ。
なぜだ。
なぜ英雄様は、あんなにも悲しい顔をしておられるのだ。
なぜ彼は自らの全てを投げ打ってまで、我らにこれを伝えようとしているのか。
人々の心の中に、これまで決して存在しなかった巨大な疑念が渦を巻き始める。
◇ ◇ ◇
「何をためらっておる!
早く奴を黙らせろ! 殺せ!」
王宮の最上階から国王の狂気に満ちた命令が、魔法の通信装置を通じて騎士団長たちの耳に直接響き渡った。
その声はもはや、いつものような威厳に満ちたものではなく、自らの嘘が暴かれようとしていることへの焦りと、感情的な怒りに満ちていた。
そのあまりにも醜い声が、人々の心に生まれた疑念にさらに油を注いだ。
騎士団長はその場で凍りついていた。
彼の心の中にもまた、エリックの言葉が重いくさびのように打ち込まれている。
国王への絶対的な忠誠。
しかし、それ以上に彼が信じてきたのは、エリックという男が持つ揺るぎない「正義」の輝きだった。
その二つが今、彼の心の中で激しく衝突していた。
◇ ◇ ◇
広場には張り詰めた、そしてどうしようもなく不安定な静寂が続いていた。
人間たちは剣を、槍を中途半端に構えたまま動けないでいる。
魔族たちもまたレオの制止によって攻撃の手を止め、ただその光景を固唾をのんで見守っていた。
エリックはその静寂の中で、最後の力を振り絞るようにもう一度口を開こうとした。
しかし彼の体は、レオの魔力を受けた反動ですでに限界を超えていた。
彼の意識が遠のいていく。
その、エリックの体がぐらりと傾いだ、その瞬間。
彼の隣に立つレオが一歩、前に出た。
彼の瞳はもはや戦場ではなく、広場にいる全ての人間たちの、その魂の奥深くを見つめていた。
エリックがその命を懸けてこじ開けた、人々の心の扉。
その扉の向こう側へ、今度は彼が真実の光を直接届けようとしていた。
レオはその右手を静かに、広場全体へと差し伸べた。
彼の全身から穏やかで、しかし逆らえないほど力強い黄金色の魔力の光が放たれた。
その光は雪解け水が乾いた大地に染み込んでいくように、広場にいる全ての人間たちの心の中へと、優しく深く染み込んでいった。
広場にいる全ての人間……
兵士も民衆も、そして観覧席にいるカインでさえも、その瞬間、自らの頭の中に直接一つの声が響き渡るのを感じていた。
それは耳で聞く声ではなかった。
魂に直接語りかける、深くどこまでも澄み切った、思いの声だった。
『――聞け、アースガルドの全ての人々よ』
その声にはレオという一人の男の、深い悲しみと揺るぎない覚悟が込められていた。
『私の名はレオ。
お前たちと同じように魔族を憎むように教えられ、そしてお前たちと同じように、巨大な嘘にだまされてきた者だ』
その言葉と共に、人々の脳裏に一つの鮮烈な光景が流れ込んできた。
それは言葉による説明ではない。
レオがその覚醒した魔力によって、自らの記憶と竜王から託されたこの星の真実の記憶を、直接彼らの魂へと映し出していたのだ。
彼らは見た。
百年以上も前の遥かな昔。
人間と魔族が互いの違いを認め、手を取り合いこの大地で共に笑い合っていた、輝かしい共存の時代を。
彼らは見た。
空から鉄の船が舞い降り、自らを『調停者』と名乗る異形の者たちが、人間たちに偽りの知恵と甘い力を与える、その始まりの光景を。
彼らは見た。
異星人たちがこの星のエネルギーを奪うため、人間たちの記憶を、愛情をその根本から汚し、純粋な「憎悪」へと書き換えていく、あのおぞましい『記憶改変計画』の全てを。
昨日まで友であったはずの魔族に人間たちが、理由のない憎しみの刃を向けるあの悲劇の瞬間を。
『お前たちが抱いてきた魔族への憎しみは、お前たち自身の感情ではない』
レオの声が彼らの魂に、静かに響く。
『それは我らを分断し互いに争わせるために、異星人たちによって植え付けられた偽りの呪いだ』
人々は愕然とした。
自分たちが長年、絶対的な正義だと信じてきた感情が、ただ操られた結果だったという信じがたい真実。
そしてレオは最後の、そして最も痛ましい真実を彼らに見せた。
『お前たちが英雄と信じるエリックもまた、その呪いの最大の被害者だ』
人々の脳裏に、あの魔王城の玉座の間の光景が映し出される。
セレーネの死。
そして親友の死によって愛情を憎悪へと変えられ、心を壊されていった若き日のエリックの悲痛な叫び。
『国王たちは英雄の悲劇さえも、自らの計画の駒として利用した。
全ては我らをだまし、この星を完全に支配するためだ』
レオの短く簡潔な、しかしあまりにも重い真実の開示。
それは言葉による説得ではない。
魂に直接刻み込まれた、逆らいようのない真実の「体験」だった。
広場を支配していた最後の沈黙が破られた。
それは、むせび泣きだった。
最初に泣き出したのは晒し台の少年に、石を投げつけていた一人の母親だった。
彼女はその場に崩れ落ち、自らの行いを深く、深く恥じるかのように声を上げて泣きじゃくった。
そのむせび泣きは次々と、伝染していく。
兵士たちがその手に持つ槍を力なく地面に落とす。
彼らの顔には憎悪の色はもはやどこにもなかった。
あるのはただ、自分たちがどれほど愚かで、そしてどれほど恐ろしい過ちを犯してきたかという、痛切な後悔だけだった。
長年彼らの心を縛り付けてきた偽りの憎しみと不信感の氷が、真実という名の温かい光によって今、急速に溶け始めていた。
「……嘘だ……」
「我々は……なんてことを……」
「英雄様は……。
エリック様は、ずっとこの真実を知りながら一人で……」
人々の心に、エリックへの新たな感情が芽生える。
それはもはや崇拝ではない。
彼のあまりにも深い孤独と、その悲痛な覚悟に対する心からの「共感」と、そして「申し訳なさ」だった。
騎士団長はその場で静かに、その剣をさやに収めた。
そしてゆっくりと、天に浮かぶ黒竜と、その背に立つレオとエリックに向かって騎士としての最も深い敬意を込めて、その頭を垂れた。
彼のその行動は王都の全ての兵士たちへの、無言の命令だった。
◇ ◇ ◇
王宮の最上階。
アースガルド国王はその光景を、もはや怒りではなく完全な「無」の表情で見つめていた。
彼の完璧なはずだった偽りの世界が今、目の前で音を立てて崩壊していく。
◇ ◇ ◇
広場に新たな時代の産声が上がろうとしていた。
それは人間と魔族が百年というあまりにも長い偽りの冬の時代を越えて、再び手を取り合う真の共闘の夜明けの光だった。