第171話:処刑台の崩壊
「――そこから、離れろ」
レオの声は地響きのように、しかし奇妙なほどに静かに、王都の中央広場に響き渡った。
それは単なる音声ではなかった。
彼の覚醒した魔力が込められた、絶対的な意志の表明。
その声に触れた空気そのものが、重く濃密に震えているかのようだった。
処刑台の上にいた騎士たちはその声に本能的な恐怖を感じ、一瞬その動きを止めた。
彼らは目の前の反逆者エリックと、空に浮かぶ神話のような光景との間で、思考が完全に麻痺していた。
「な、何を怯むかっ!」
騎士団長が自らを鼓舞するように叫んだ。
「敵は魔族だ!
陛下の御命令である!
構うな、処刑を続行せよ!」
その言葉が騎士たちの麻痺した思考を、再び狂信的な忠誠心で上書きする。
処刑人は逸れた剣を再び構え直し、エリックとリオにその切っ先を向けようとした。
しかし、それはあまりにも遅すぎた。
レオは空に浮かぶ黒竜の背中で、その右手を静かに握りしめた。
彼の瞳にもはや怒りはない。
あるのはただ、愛する者を傷つけられたことに対する絶対零度の、静かな、しかし星そのものを揺るすほどの凄まじい意志だけだった。
次の瞬間。
処刑台そのものが音もなく、光の粒子となって霧散した。
それは爆発ではなかった。
破壊でもなかった。
まるで初めからそこに何も存在しなかったかのように。
人々を憎悪で煽り、罪なき子供を縛り付け、英雄を絶望させたあの醜悪な木と鉄の塊が、一瞬にしてその存在そのものを完全に消し去られたのだ。
エリックとリオを縛り付けていた重い鉄の枷もまた同じように、光の塵となって風に消えた。
広場を支配したのは轟音ではない。
あまりの、そしてあまりにも静かで完璧な超常的な現象を前にした、絶対的な静寂だった。
民衆も騎士たちも、ただ口を開けたままその信じがたい光景を見つめることしかできなかった。
その静寂の中を。
巨大な黒竜がその巨体に似合わぬ優雅さで、天から舞い降りてきた。
その翼が巻き起こす風圧が広場の砂塵を舞い上げ、民衆を後ずさりさせる。
黒竜はかつて処刑台があったその場所に、音もなくその巨体を着地させた。
「リオっ!!!!」
母の悲痛な叫び。
竜の背から一人の女性が、まるで黒い彗星のように飛び降りた。
リリスだった。
彼女は数メートルの高さから猫のようにしなやかに着地すると、一目散に呆然と立ち尽くす我が子の元へと駆け寄った。
「リオ! 私の子……!
怪我は……痛かったでしょう……怖かったでしょう……!」
リリスは泥と血に汚れたリオの小さな体を、壊れ物を扱うかのように、しかし力強くその腕に抱きしめた。
その瞳からはこれまで決して人前で見せることのなかった、母としての大粒の涙が止めどなく溢れ出していた。
「母……さん……?」
リオはまだ夢の中にいるかのような虚ろな瞳で、自らを抱きしめる母の顔を見上げた。
その親子の再会の光景を、エリックはすぐ傍らで膝をついたまま、ただ呆然と見上げていた。
彼の心の中は、理解不能な感情の嵐が吹き荒れていた。
彼の視線の先、巨大な黒竜の頭上にあの男が静かに立っていた。
レオだった。
彼は竜から降りてこない。
ただ、その場所から静かにエリックを見下ろしている。
その姿はエリックが知るかつての親友の面影を、もはやどこにも留めてはいなかった。
十年という歳月が彼の顔から少年のような屈託のない笑顔を奪い去り、代わりに王としての威厳と、数多の修羅場を乗り越えてきた者だけが持つ厳しい覚悟を刻み込んでいた。
その身に纏う漆黒の鎧。
その全身から放たれる圧倒的なまでの魔力の波動。
(……レオ……)
(生きて……いたのか……)
エリックの心に最初に込み上げてきたのは驚きだった。
自分があの場で置き去りにし、死んだとばかり思っていた親友が今、目の前に生きている。
それも自分が知るレオとは比較にならないほどの、絶大な力を手に入れて。
(そして……)
(来てくれたのか……。
俺たちを……救いに……)
その思いが彼の心に十年ぶりに、温かい光を灯した。
安堵だった。
この絶望的な状況の中で、たった一人孤独な戦いを覚悟していたその最後の瞬間に。
かつての親友が全てを賭けて、自分を救いに来てくれた。
その事実がエリックの凍てついていた魂を、内側から温かく溶かしていくかのようだった。
驚きと安堵。
そして、どうしようもないほどの罪悪感と後悔。
それらの感情が彼の心の中で激しく入り混じり、彼の表情を複雑な色に染め上げていた。
「……レオ……」
エリックの唇からかろうじて、その名前がかすれた声となって漏れた。
レオは何も言わなかった。
ただ、その深い瞳でエリックを見つめ返すだけだった。
その瞳には再会の喜びよりも、鎖に繋がれ傷つき果てた親友の姿を見つけたことへの、深い、深い痛みの色が浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
その二人の十年ぶりの再会を無慈悲に引き裂いたのは、王宮からの狂気に満ちた命令だった。
「攻撃せよぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!」
王宮の最上階。
アースガルド国王は砕け散った水晶の盤を前に、獣のような絶叫を上げていた。
彼の顔は自らの完璧な計画が目の前で崩れ去っていくことへの、怒りと屈辱で醜悪に歪んでいる。
「何をためらっておる!
魔王レオを殺せ! 裏切り者エリックを殺せ!
あの忌まわしき血族を、一人残らずこの地上から消し去るのじゃぁぁぁっ!!!!」
その狂気の命令は魔法の通信装置を通じて、広場にいる騎士団長、そして王都の全ての兵士たちへと届けられた。
騎士団長はその命令に一瞬、その身を震わせた。
しかし、彼は王国の騎士だった。
その魂は国王への絶対的な忠誠心によって固く縛られている。
彼は悲痛な表情で、しかし揺るぎない声で最後の命令を下した。
「全軍、攻撃開始っ!」
「目標、黒竜!
そして、その背に乗る魔王レオ、及び反逆者エリック!」
「一人たりとも、生かして帰すなっ!!!!」
その号令を合図に、広場を埋め尽くしていた数千の騎士たちが我に返ったかのように、一斉にその武器を空に浮かぶ黒竜へと向けた。
最初に放たれたのは弓兵部隊による、無数の矢の雨だった。
一本一本に魔族を滅するための聖なる力が込められた、破魔の矢。
それが黒い蝗の群れのように空を覆い尽くし、黒竜へと殺到する。
続いて王宮の魔術師団による第二波の攻撃。
灼熱の炎の槍。
全てを凍てつかせる氷の礫。
そして大気を切り裂く風の刃。
色とりどりの、しかしその全てが純粋な殺意の塊である魔法の嵐が、黒竜へと牙を剥いた。
その絶望的なまでの集中砲火。
しかし、レオは動かなかった。
彼の隣でリリスが、その腕にリオを抱きしめたまま憎悪に満ちた瞳で、迫りくる攻撃を睨みつけていた。
レオは静かにその右手を天に掲げた。
彼の背後、空間の裂け目から現れた魔族連合軍が一斉に動き出す。
北部凍土の戦士たちが一斉に、その雄叫びを上げた。
彼らの足元から巨大な氷の壁が天に向かってせり上がっていく。
その壁は一瞬にして黒竜の巨体を覆い尽くし、絶対零度の巨大な氷の要塞を築き上げた。
破魔の矢の雨がその氷壁に突き刺さるが、その表面をわずかに傷つけることしかできない。
南部密林の射手たちがその弓を、一斉に引き絞る。
彼らの矢の先には森の精霊の力が宿り、緑色の生命の輝きを放っていた。
彼らは王宮の魔術師団めがけて、その報復の矢を雨のように降らせた。
空中で光と闇が、激しく、そして美しく衝突する。
王都の中央広場は今や、人間と魔族の全面戦争の最初の戦場と化していた。
レオはその戦いの始まりを静かに見下ろしていた。
彼はリリスと、そしてエリックとリオを乗せた黒竜をゆっくりと天高く上昇させた。
戦いの喧騒から、一時的に身を引くために。
眼下には混乱の極みにある戦場。
憎しみに燃えるかつての仲間たち。
恐怖に怯え、逃げ惑う罪なき民衆。
エリックはその光景を竜の背から、言葉を失って見つめていた。
(……これが……。
俺が守ろうとした、世界の……成れの果てか……)
彼の心に深い、深い絶望が再びその影を落とそうとしていた。
しかし、その絶望を打ち砕いたのは隣に立つ親友の声だった。
「……エリック」
レオは眼下の戦場から一度も目を離さずに言った。
「お前の戦いは、まだ終わっていない」
その言葉はエリックの魂に再び、火を灯した。
そうだ、まだ終わっていない。
まだ自分にできることがあるはずだ。
(……この戦いを、止めなければ……)
(この偽りの憎しみの連鎖を、俺自身の手で断ち切らなければ……)
エリックは顔を上げた。
その瞳にもはや絶望の色はなかった。
あるのは英雄として、そして一人の人間として最後に果たすべき、絶対的な「責務」への揺るぎない覚悟だった。
彼は眼下で魔族に剣を向ける人間たちを、そして恐怖に怯える民衆を見つめた。
(……彼らに、伝えなければならない……)
(真実を……。
俺たちが本当に戦うべき、敵の正体を……!)
その決意が彼の全身に最後の力を漲らせた。
彼の叫びが今、この偽りの世界に最初の、そして最も重要な真実の光を灯そうとしていた。




