第170話:空を裂く咆哮
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!
それは音ではなかった。
それはこの星そのものが断末魔の叫びを上げたかのような、壮絶なまでの「轟音」だった。
大地が揺れ、王都の堅固な石畳が激しく波打つ。
処刑台が悲鳴のような軋みを上げて大きく傾ぎ、王宮の尖塔の先端がその衝撃に耐えきれずに砕け散って落下していく。
広場を埋め尽くしていた数万の民衆は何が起こったのか、全く理解できなかった。
彼らは固く閉じていた目を見開き、ただ呆然とその天変地異のような光景を見つめるだけだった。
処刑の瞬間を待っていたはずの静寂は、一瞬にして恐怖と混乱の絶叫へと変わった。
「な……!?」
「地震か!?」
「いや、違う!
空だ! 空を見ろ!」
誰かの金切り声のような絶叫。
全ての人間がその声に導かれるように、鉛色の重い雲に覆われた空を見上げた。
その、空が。
まるで巨大な見えざる神の爪によって引き裂かれたかのように、一直線に裂けていた。
裂け目の向こう側に見えたのは青空ではない。
それはこの世界の理を超えた、禍々しくもどこか神々しい深紅の光が渦巻く、異次元の空間だった。
空に巨大な傷口が開いている。
その傷口から、この世界のものではない圧倒的な魔力が奔流となって溢れ出していた。
処刑台の上でエリックは、その信じがたい光景に目を見開いていた。
処刑人の振り下ろした剣は、大地の揺れによってその軌道を大きく逸れ、彼の隣にある断頭台の木を深々と抉っている。
死はほんの数センチの差で、彼を避けていった。
(……なんだ……。
一体、何が……)
彼の麻痺した思考が、目の前の現実を受け入れられずにいた。
轟音は止まない。
いや、それはもはやただの轟音ではなかった。 それは一つの、あるいは無数の巨大な生命体が放つ、怒りに満ちた「咆哮」だった。
その咆哮は天を震わせ地を揺がし、この偽りの世界に終焉の訪れを告げる審判のラッパのように、王都の隅々にまで響き渡った。
◇ ◇ ◇
王宮の最上階。
アースガルド国王が覗き込んでいた巨大な水晶の盤に、大きな亀裂が走った。 盤面に映し出されていた広場の光景が、激しい乱れと共に映らなくなる。
「……何事だっ!」
国王は玉座から立ち上がり、怒りの声を上げた。
その顔からは先ほどまでの愉悦の色は完全に消え失せ、代わりに自らの完璧な計画が理解不能な力によって乱されたことへの、激しい焦りと屈辱が浮かんでいた。
「これは、奴ら『星を喰らう者』の仕業か!?
いや、違う……。
この魔力の質は奴らのものとは異なる……。
もっと原始的で、そして荒々しい……。
まさか……魔族だと!?」
◇ ◇ ◇
観覧席の上で、監視役カインもまたその感情を映さないガラス玉のような瞳で、空に開いた巨大な傷口を見上げていた。
彼の完璧な無表情が、生まれて初めてほんのかすかな、しかし確実な「驚愕」によってひび割れていた。
(……計算外だ)
彼の頭脳が高速で情報を処理する。
(この規模の空間転移魔法……。
これほどの魔力の奔流……。
アースガルド大陸のどこに、これほどの力が残っていたというのだ……。
私の監視網は完璧だったはず……)
彼は静かに、しかし迅速に周囲の騎士たちに命令を下した。
「全軍、迎撃態勢!
最高レベルの警戒を怠るな!
相手が何者であろうと、陛下の御前を汚させるな!」
◇ ◇ ◇
広場の混乱の渦の中で。
全ての視線が、空に開いた深紅の傷口へと注がれていた。
やがてその傷口の中から、一つの巨大な姿がゆっくりと、そして威厳に満ちて現し始めた。
それは竜だった。
全身を夜の闇そのものを固めたかのような、黒曜石の鱗に覆われた巨大な黒竜。
その翼は一度羽ばたけば嵐を呼び起こし、その瞳は溶岩のように赤く、そして燃え盛る知性の光を宿していた。
「……りゅ、竜……!?」
「なぜ、こんなところに……」
民衆はその神話の中から抜け出してきたかのような圧倒的な存在を前に、ただ恐怖に震えることしかできなかった。
しかし、彼らの驚愕はそれで終わりではなかった。
その巨大な黒竜の背中に、複数の人影があったのだ。
先頭に立つのは一人の男。
その身には月の光を編み込んだかのような漆黒の鎧を纏い、その背には巨大な剣を背負っている。
彼の顔は十年という歳月と、数多の修羅場を乗り越えてきた者だけが持つ厳しい覚悟と、そして王としての威厳に満ちていた。
その瞳は眼下に広がるこの悍ましい光景を、静かな、しかし燃え盛るような怒りの炎と共に見据えていた。
彼の隣には一人の女性が気高く立っていた。
その美しさは人間のものではなく、しかし魔族のそれとも異なる神秘的な輝きを放っている。
彼女の瞳は処刑台の上にいる傷だらけの少年……自らの息子リオの姿を捉え、母としての絶対的な怒りと悲しみに燃え上がっていた。
そして彼らの背後から次々と、異形の、しかし力強い戦士たちがその姿を現した。
雪原の厳しさをその身に刻んだ毛皮を纏う凍土の民。
森の精霊の加護を受けたかのような俊敏な密林の民。
灼熱の砂漠の風をその魂に宿した誇り高き砂漠の民。
そして人間との戦いの歴史を知る、東部平原の歴戦の魔族たち。
その中には顔に深い傷跡を持つ、あの戦士ゴウキの姿もあった。
彼らはもはやかつてのような、バラバラの烏合の衆ではなかった。
その動きは統率が取れ、その瞳には一つの揺るぎない目的が宿っていた。
それはレオという名の新たな魔王の下に集結した、アースガルド大陸の真の「魔族連合軍」だった。
◇ ◇ ◇
処刑台の上で、エリックはその信じがたい光景をただ呆然と見上げていた。
彼の心臓は激しく、そして痛ましいほどに脈打っていた。
彼の思考はまだ、目の前の現実を受け入れられずにいた。
(……竜……?
魔族の、軍勢……?)
(一体何が……。
なぜ、今……ここに……)
彼の視線は、黒竜の背中に立つあの男の姿に、引き寄せられるように釘付けになった。
見覚えがあった。
いや、違う。 忘れるはずがなかった。
十年という歳月がその顔立ちを、どれほど厳しく精悍なものへと変えようとも。
その魂の輝きだけは、決して変わってはいなかった。
あの勇者育成学校で出会った真っ直ぐな瞳。 孤児院の子供たちに向けられた優しい笑顔。
そして魔王城で自分に裏切り者と罵られながらも、ただ悲しげに何かを訴えかけようとしていた、あの絶望の顔。
(……まさか……)
彼の乾ききった唇から、声にならないかすれた声が漏れた。
「……レオ……?」
その呟きは誰にも聞こえなかった。
しかし、まるでその声に応えるかのように空に浮かぶ黒竜の上の男が、その視線をゆっくりとエリックへと向けた。
二人の視線が、十年というあまりにも長く、そしてあまりにも残酷な歳月を越えて再び交錯した。
レオの瞳。
その瞳には驚きと、そして鎖に繋がれ傷つき果てた親友の姿を見つけたことへの、深い、深い痛みの色が浮かんでいた。
彼はエリックが無事であったことに安堵していた。
しかし、その安堵はすぐに眼下に広がるこの悍ましい光景を認識したことによる、絶対的な怒りへとその姿を変えた。
彼の視線が、エリックの隣で断頭台に首を押さえつけられている小さな少年の姿を捉えた。
それは彼が愛する、唯一無二の息子だった。
「………………」
レオの顔から全ての表情が消えた。
代わりに彼の全身から、これまでとは比較にならないほどの冷たく静かな、しかし星そのものを揺がすほどの凄まじい魔力が迸り始めた。
空に開いた深紅の傷口が彼の怒りに呼応するように、さらに大きく、そして禍々しくその口を開く。
英雄の帰還。
いや、それはもはや英雄ではない。
真実を知り、魔族を統べ、そして愛する者を守るために神々の領域へと足を踏み入れた、新たな「魔王」の帰還だった。
彼の登場は広場に集まった人々、そして王宮で見つめる国王たちの全てを、言葉を失うほどの驚愕の淵へと突き落とした。
偽りの平和は完全に終わりを告げた。
そして、真実の戦いの火蓋が今、切って落とされようとしていた。
レオは、その魔力を込めた右手をゆっくりと処刑台へと向けた。
その唇から、地響きのような最初の命令が放たれる。
「――そこから、離れろ」
その声は、次の瞬間に訪れる圧倒的な破壊の序曲だった。