第169話:広場の静寂、そして……
「――ゼロっ!!!!」
騎士団長の血を吐くような絶叫が、王都の中央広場に響き渡った。
それは一つの時代の終わりを告げる、無慈悲な号令。
処刑人の鍛え上げられた両腕が振り下ろされる。
天に掲げられていた白銀に輝く処刑の剣が、その軌道の頂点で一瞬だけ静止し、そして鉛色の空を切り裂きながら、エリックとリオの無防備な首筋めがけて吸い込まれるように落下していく。
その、永遠にも思える一瞬。
時間は恐ろしいほどにゆっくりと引き伸ばされた。
広場を埋め尽くしていた数万の民衆は、一斉にその目を固く閉じた。
あるいは、両手で顔を覆った。
彼らが信じてきた英雄が今、目の前で反逆者としてその命を絶たれようとしている。
そのあまりにも残酷で悲しい現実を、直視できる者はいなかった。 彼らは見たくなかったのだ。
自分たちの光が闇に呑まれる、その決定的な瞬間を。
広場は死そのものよりも深い、絶対的な静寂に包まれた。
◇ ◇ ◇
処刑台の脇に立つ騎士団長。 彼は目を逸らすことなく、その光景をただ見つめていた。
その瞳にはもはや、かつての敬愛も悲しみもなかった。
あるのはただ、王国の騎士としての非情なる任務を遂行する、鋼のような意志だけ。
しかし、その固く結ばれた唇の端がかすかに震えていることに、彼自身は気づいていなかった。
彼は反逆者を処刑しているのではない。
自らのかつての理想と友情の記憶を、この手で葬り去ろうとしているのだ。
その魂の叫びは誰にも届くことなく、ただ彼の心の中で虚しく響いていた。
◇ ◇ ◇
観覧席の上でその全てを見下ろす、監視役カイン。
彼の感情を映さないガラス玉のような瞳だけが、この悍ましい儀式の全てを瞬きもせずに記録していた。
彼にとってこれは悲劇ではない。 ただの現象だ。
国王の計画という名の巨大な方程式。
その中で「英雄エリック」という変数が、予測不能な動きを見せた。
そして今、その変数を「排除」することで方程式を再び安定した状態へと戻す。
彼の頭の中ではただ、その冷徹な計算だけが淡々と行われていた。
英雄の死。子供の絶望。民衆の混乱。
その全てが彼にとっては、次の戦略を立てるための貴重な「情報」に過ぎなかった。
◇ ◇ ◇
王宮の最上階。
アースガルド国王は異星人の技術によって作られた巨大な水晶の盤を通して、その光景を心底満足げな、そして醜悪な笑みを浮かべて見つめていた。
「……そうだ。それでいい」
国王はまるで愛しい玩具が思い通りに壊れていくのを見るかのように、恍惚とした声で呟いた。
「英雄は悲劇の中で死ぬことで初めて、永遠の伝説となる。
そしてその伝説は、我らが創り上げる新たな秩序のための最も強固な礎となるのだ」
彼の計画は完璧だった。
エリックは生きている間は、民衆を導く「駒」として。
そして死して後は、民衆の心に「魔族への憎しみ」を永遠に刻み込むための「生贄」として。
その魂の最後の最後まで、彼は国王の壮大な物語のための道具であり続けるのだ。
その残酷な運命に国王は、神にでもなったかのような絶対的な全能感を覚えていた。
◇ ◇ ◇
そして、処刑台の上。
エリックの心は不思議なほどに穏やかだった。
振り下ろされる白銀の刃。
その切っ先が空気を切り裂く甲高い風切り音が、彼の耳にはまるで子守唄のように静かに響いていた。
(……これで、終わる)
彼は静かにその目を閉じた。
もはや恐怖も後悔もなかった。
ただ一つの澄み切った覚悟だけが、彼の魂を満たしていた。
彼の脳裏に失われた友たちの顔が次々と、そしてあまりにも鮮明に浮かび上がってきた。
アルスの穏やかな笑顔。
『知識は、誰かを守るための力にもなるんだよ、エリック』
(……すまない、アルス。
俺は、お前のその知識を正しく使うことができなかった……)
セレーネのはにかむような笑顔。
『信じてる……』
(……すまない、セレーネ。
俺は、お前のその信頼に応えることができなかった……)
そして、レオ。
彼の記憶が激流となって、エリックの魂を最後の瞬間に飲み込んでいく。
勇者育成学校での屈託のない笑顔。
孤児院での少しだけ泣き出しそうな、優しい横顔。
そして魔王城での絶望に満ちた、悲痛な瞳。
(……レオ……)
この絶望的な状況の中で、エリックの心に一つのあまりにも切実な願いが込み上げてきた。
(お前は……今、どこにいるんだ……?
どうか……どうか、生きていてくれ……)
彼は心の底から強く、強く親友の無事を願った。
自分があの場に置き去りにしてしまったという悍ましい罪悪感。
それでもなお、彼はレオが生きていてくれることを信じたかった。
(……すまない、レオ……)
(お前に真実を伝えたかった……)
(そして……お前の息子は……。
俺が最後に、守り抜いた、と……)
白銀の刃が彼の首筋に触れるか触れないか、その刹那。
エリックの唇に微かな、満足げな笑みが浮かんだ。
(……ああ……これで、ようやく……お前たちのもとへ……)
彼の意識が永遠の闇へと沈み込もうとした、その瞬間だった。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!
それは音ではなかった。
それはこの星そのものが断末魔の叫びを上げたかのような、壮絶なまでの「轟音」だった。
大地が揺れた。 王都の堅固な石畳がまるで生き物のように、激しく波打つ。
処刑台が悲鳴のような軋みを上げて大きく傾いだ。
王宮の尖塔の先端がその衝撃に耐えきれず、砕け散って落下していく。
広場を埋め尽くしていた民衆は何が起こったのか、全く理解できなかった。
彼らは閉じていた目を見開き、ただ呆然とその天変地異のような光景を見つめるだけだった。
「な……!?」
「地震か!?」
「いや、違う!
空だ! 空を見ろ!」
誰かの絶叫。
全ての人間がその声に導かれるように、鉛色の重い雲に覆われた空を見上げた。
その、空が。
まるで巨大な見えざる爪によって引き裂かれたかのように、一直線に裂けていた。
裂け目の向こう側に見えたのは青空ではない。
それはこの世界の理を超えた、禍々しくも神々しい深紅の光が渦巻く、異次元の空間だった。
そして、その空間の裂け目から何かが現れようとしていた。
処刑台の上でエリックは、その信じがてたい光景に目を見開いていた。
処刑人の振り下ろした剣は、大地の揺れによってその軌道を大きく逸れ、断頭台の木を深々と抉っていた。
(……なんだ……。
一体、何が……)
彼の麻痺した思考が、目の前の現実を受け入れられずにいた。 轟音は止まない。
いや、それはもはやただの轟音ではなかった。
それは一つの巨大な生命体が放つ、怒りに満ちた「咆哮」だった。
その咆哮は天を震わせ地を揺るがし、この偽りの世界に終焉の訪れを告げる審判のラッパのように、王都の隅々にまで響き渡った。
その静寂を切り裂いたのは、刃が肉を断つ生々しい音ではなかった。
それは新たな、そして誰も予測し得なかった運命の始まりを告げる、産声だった。