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第168話:最後の覚悟と友への思い

 国王歴1027年4月。


 王都に春の訪れを告げるには、あまりにも冷たい夜明けが訪れた。

空はまるで世界の悲しみを映し出すかのように、重く厚い鉛色の雲に覆われている。


 地下牢の暗闇から光の中へと引きずり出されたエリックとリオ。

彼らが最後に歩む道は、王都の中央広場へと続く石畳の道だった。


 かつて英雄として、民衆の熱狂的な歓声に包まれながら歩んだ凱旋の道。

今、その同じ道を彼は反逆者として鎖に繋がれ、歩いている。


 広場はすでに、夜明け前から集まった民衆で黒山の人だかりとなっていた。

しかし、そこにかつてのような熱狂はなかった。


 彼らの顔に浮かんでいるのは憎悪でも狂信でもない。

ただ、自らが信じてきた「英雄」が今目の前で処刑されようとしている、その信じがたい現実をどう受け止めていいのか分からない深い困惑と、そしてどこか悲しげな静かな好奇心だけだった。


 エリックはその民衆の視線を一身に浴びながら、一歩、また一歩と広場の中央に設けられた巨大な処刑台へと、その歩みを進めた。


 彼の体は無数の傷と、一ヶ月にも及ぶ牢獄生活で見る影もなく痩せ衰えていた。

しかし、その足取りには一片の迷いもよろめきもなかった。


 彼の隣で小さなリオが恐怖に震えながら、必死にエリックの足についてくる。

エリックはその小さな手を、鎖に繋がれた自らの手で力強く、そして優しく握りしめていた。


「……大丈夫だ、リオ」

エリックは囁いた。


「俺がそばにいる」


 やがて二人は、処刑台の冷たい木の階段を上りきった。

眼下には静まり返った王都の民衆。

そして目の前には、黒い頭巾を被った巨大な処刑人と、二つの冷たい断頭台が彼らを待っていた。


 騎士団長が震える声で、一枚の羊皮紙を広げた。

それは国王の名の下に記された、反逆者エリックへの公式な罪状書きだった。


「元英雄エリックは、魔族の妖術に心を汚染され国王陛下の神聖なる御命令に背き、王国と全人類に対する許されざる裏切りを行った!

よってここに反逆者としてその罪を断じ、斬首刑に処す!」


 その言葉が広場に響き渡る。

しかし、民衆からもはや歓声も怒号も上がらなかった。

ただ重い、重い沈黙だけがその場を支配していた。


 エリックはその宣告を、まるで遠い世界の出来事のように静かに聞いていた。

彼は騎士団長の方を見向きもせず、ゆっくりとリオの前にその傷だらけの体で膝をついた。


「リオ」

彼は少年の顔を両手で優しく包み込んだ。


「……何が起こっているのか、分からないだろう。

怖くてたまらないだろうな。

……すまない。

俺が、お前をこんな場所に連れてきてしまった」


 その声にはどうしようもないほどの後悔と、そして愛情が滲んでいた。

リオは何も言わなかった。

ただ、その大きな瞳から大粒の涙をぽろぽろとこぼれ落とすだけだった。


 彼の小さな瞳には、なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのかという理不尽な世界への声なき疑問と、そして幼い心では抱えきれないほどの巨大な不安が映し出されていた。


 エリックはそんなリオの小さな体を、最後の力を振り絞るように強く、そして優しく抱きしめた。

それは父の親友として彼にできる、最後の、そして唯一の愛情表現だった。


(……これで、いいんだ)


 エリックの瞳にはもはや一片の恐怖も迷いもなかった。

そこにあったのは自らが選び取ったこの運命に対する、揺るぎない「覚悟」。

そして偽りの世界にたった一つでも真実の杭を打ち込むのだという、強い、強い「意志」の光だけだった。


(レオ……セレーネ……アルス……)


 彼の心の中で、失われた友たちの名が静かに響いた。


(俺はお前たちを救うことはできなかった。

それどころか俺の無知と弱さが、お前たちをさらに深い絶望へと突き落としたのかもしれない。

だが、この選択だけは……。

この小さな命を偽りの正義の生贄にすることを拒んだ、この選択だけは……)


(俺が最後にお前たちに捧げる、たった一つの「償い」なんだ)


 彼はこの選択こそが失われた友への、そして自らが汚してきた「正義」という言葉への唯一の贖罪であり、いつか誰かが辿り着くであろう「真の世界」へのささやかな、しかし確かな一歩であると心の底から信じていた。


「……時間だ!」


 騎士団長の非情な声が、二人の最後の時間を無慈悲に引き裂いた。

騎士たちがエリックとリオの体を乱暴に引き離し、それぞれの断頭台へとその首を押さえつける。


 エリックは抵抗しなかった。

ただ、最後までその視線を涙に濡れるリオの顔から逸らさなかった。


 広場の中央で、黒頭巾を被った処刑人が巨大な白銀に輝く処刑の剣を、ゆっくりと、そして重々しく天へと掲げた。

その切っ先が鉛色の空の下で、不吉な光を放つ。


 騎士団長がその手に持つ剣を、高く振り上げた。

それがカウントダウンの始まりの合図だった。


「……十」

 その声が響き渡った瞬間、広場を支配していたざわめきが完全に消え失せた。

数万の民衆が息を呑む。

風の音さえも聞こえない。

世界は完全な、そして絶対的な静寂に包まれた。


「……九」

時間は恐ろしいほどに、ゆっくりと流れた。

エリックの脳裏にこれまでの人生が、走馬灯のように駆け巡り始める。


「……八」

アルスの穏やかな笑顔が浮かんだ。

忘却の谷のあの神殿で、彼は言った。

『知識は、誰かを守るための力にもなるんだよ、エリック』


(……すまない、アルス。

俺は、お前のその知識を正しく使うことができなかった……)


「……七」

セレーネのはにかむような笑顔が浮かんだ。

村の祭りの夜、彼女はぎこちないステップで楽しそうに踊っていた。

そして魔王城での、最期の言葉。


『信じてる……』


(……すまない、セレーネ。

俺は、お前のその信頼に応えることができなかった……)


「……六」

そして、レオ。

彼の記憶が激流となって、エリックの魂を飲み込んでいく。


「……五」

勇者育成学校の訓練場。

傷だらけになりながらも決して諦めずに、自分に向かってきたあの日の真っ直ぐな瞳。


「……四」

中央山脈の孤児院。

自分の食料を全て子供たちに分け与え、少しだけ泣き出しそうな顔で、それでも幸せそうに笑っていた彼の優しい笑顔。


「……三」

そして、あの魔王城の玉座の間。

自分に「裏切り者」と罵られながらも憎しみではなく、ただどうしようもなく悲しい困惑に満ちた瞳で、何かを訴えかけようとしていた彼の絶望の顔。


(……レオ……)

この絶望的な状況の中で、エリックの心に一つのあまりにも切実な願いが込み上げてきた。


(お前は……今、どこにいるんだ……?

どうか……どうか、生きていてくれ……)


 彼は心の底から強く、強く親友の無事を願った。


 自分があの場に置き去りにしてしまったという悍ましい罪悪感。

それでもなお、彼はレオが生きていてくれることを信じたかった。


「……二」

そして、最後の後悔。


(……すまない、レオ……)


(お前に真実を伝えたかった……)


(俺たちが信じてていた世界が全て嘘だったと。

お前の苦しみに気づいてやれなくて、本当にすまなかった、と……)


(そして……お前の息子は……。

俺が最後に、守り抜いた、と……)


「……一」

騎士団長の最後の号令。

処刑人がその全身の筋肉を大きくしならせた。


 高く掲げられた白銀の刃が、その軌道の頂点で一瞬だけ静止する。

エリックは静かに、その目を閉じた。

彼の心は不思議なほどに穏やかだった。


(……これで、終わる)


「――ゼロっ!!!!」


 騎士団長の絶叫。

処刑人の腕が振り下ろされる。


 白銀の刃が鉛色の空を切り裂き、エリックと、そしてリオの無防備な首筋めがけて吸い込まれるように落下していく。

広場の民衆が一斉に、その目を固く閉じた。


 その、永遠にも思える一瞬の静寂。

その静寂を切り裂いたのは、刃が肉を断つ生々しい音では、なかった。

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