第167話:牢獄での対話
国王歴1027年4月。
王都の地下牢に春の光は決して届かなかった。
外界で凍てついていた大地が雪解け水に潤い、新たな生命が芽吹き始めている頃、エリックと少年の世界は変わることなく、冷たい石と湿った闇、そして絶望的な静寂に支配されていた。
反逆者として捕らえられ、この独房に投げ込まれてから一月という歳月が流れていた。
その時間はエリックにとって、肉体的な苦痛と、そして魂の奥底を見つめ直すための長く濃密な時間だった。
彼の体はあの日の死闘で負った無数の傷に蝕まれていた。
騎士団は意図的に、彼に最低限の治療しか施さなかった。
反逆者を生かしておく必要はないが、処刑の日までは生かしておかねばならぬ。
その冷たい計算が、彼の体を常に鈍い痛みが苛む生ける屍のような状態に留めていた。
しかし、彼の精神はその肉体的な苦痛とは裏腹に、驚くほどに澄み渡っていた。
英雄という仮面を剥がされ反逆者の烙印を押されたことで、彼は皮肉にも十年ぶりに真の自分自身と向き合う時間を得たのだ。
そして、その彼の静かな内省の傍らには常に、もう一つの小さな魂の存在があった。
あの、少年。
国王の悪魔的な計らいによって、エリックは自らが全てを捨ててまで守ろうとした少年と、同じ独房に入れられていた。
それはエリックの心をさらに苛むための残酷な罠のはずだった。
しかし、その罠は意図せぬ形でエリックに、最後の、そして唯一の救いをもたらしていた。
最初の数日間、少年は独房の隅で傷ついた小動物のように体を丸め、エリックを怯えた瞳で見つめるだけだった。
エリックもまた、言葉を発することはなかった。
ただ、日に一度だけ衛兵が鉄格子の隙間から投げ込む硬い黒パンと濁った水のほとんどを、黙って少年の前へと押しやるだけだった。
その無言の行為が、少しずつ少年の固く閉ざされた心の扉を開いていった。
少年はエリックが自分を傷つける存在ではないことを、その小さな魂で感じ取り始めたのだ。
やがて少年は、エリックが眠っている夜、彼が傷口の痛みで呻き声を上げると、おずおずとそのそばに寄り添い、自らの粗末な衣をエリックの額にそっと当てるようになった。
そのあまりにも健気で温かい仕草が、エリックの凍てついていた心を少しずつ溶かしていった。
彼らは言葉を交わさずとも、この絶望的な闇の中で互いの存在が唯一の温もりであることを理解し始めていた。
しかし、エリックの心の中では日に日に、一つのどうしても確かめなければならない疑問が、巨大な嵐のように渦巻いていた。
処刑の日が、刻一刻と迫っている。
もう時間は残されていない。
その夜も独房は、冷たい闇に包まれていた。
衛兵の巡回の足音が遠くで響き、そして消えていく。
エリックは壁に背を預けたまま、隣で小さな寝息を立てる少年の顔をじっと見つめていた。
闇に慣れた瞳が、その無垢な寝顔の輪郭をはっきりと捉える。
この一ヶ月、毎日、毎時間、毎分、毎秒。
彼はこの顔を見つめ続けてきた。
そして、その中に決して消すことのできない親友の面影を、見出し続けてきたのだ。
(……もう、聞くしかない)
彼は覚悟を決めた。
その問いの答えが、たとえ彼の魂を完全に打ち砕くものであったとしても。
「……坊や」
エリックの声は長く使っていなかったせいか、ひどくかすれていた。
少年の体がびくりと震え、その瞳が暗闇の中でゆっくりと開かれた。
その瞳にはまだ眠気の残滓と、そしてエリックへのかすかな警戒の色が浮かんでいる。
「……名前を、聞いてもいいか?」
エリックはできる限り、優しい声で言った。
少年はしばらく、エリックの顔をじっと見つめていた。
そして、やがて蚊の鳴くようなか細い声で、呟いた。
「……リオ」
「……リオ、か」
エリックはその名前を口の中で、ゆっくりと転がした。
「……いい名前だな」
沈黙が再び、独房を支配する。
エリックは心臓がまるで破裂しそうなほど、激しく脈打っているのを感じていた。
彼は震える唇を一度固く結んだ。
そして、ついにその問いを口にした。
その声は希望と、そしてどうしようもないほどの恐怖に震えていた。
「……リオ。一つだけ、教えてくれないか」
「……君の、お父さんの名前は……」
「もしかして……レオ、なのか?」
その名前がエリックの口から放たれた瞬間。
リオの小さな体がまるで雷に打たれたかのように、激しく震えた。
彼の瞳が恐怖と、そして信じられないという驚愕に大きく見開かれる。
「……な、んで……」
少年の唇から声にならない声が漏れた。
「なんであんたが……父さんの名前を……」
彼は後ずさりするように、壁際まで身を引いた。
その瞳には明らかな敵意と、そして裏切りへの恐怖が宿っていた。
エリックはその反応を見て、全てを悟った。
彼の心臓を歓喜とも絶望ともつかない、巨大な感情の奔流が貫いた。
(……ああ……やはり……そうだったのか……!)
しかし、彼はその感情を必死に押し殺した。
今、この子をこれ以上怯えさせてはならない。
「……怖がらないでくれ、リオ」
エリックは両手をゆっくりと、少年に見えるように前に差し出した。
その手には重い枷がはめられている。
「俺は……
君のお父さんの、友達だったんだ」
その言葉はリオの警戒を、さらに強めただけだった。
「……嘘だ!
父さんは人間には友達なんかいないって言ってた!
人間はみんな、僕たちを殺そうとする敵だって!」
そのあまりにも純粋で、そしてあまりにも悲しい言葉がエリックの胸に、鋭い刃となって突き刺さった。
(……そうか……。
レオ……お前は、この子にそう教えて生きてきたのか……。
俺たちが、お前にしたことを考えれば……当然だ……)
エリックは自らの罪の重さを改めて噛み締めた。
そして彼は、この子に真実を伝えなければならないと強く思った。
「……違うんだ、リオ。
昔は……昔は、違ったんだ」
エリックの声にはどうしようもないほどの後悔と、そして愛情が滲んでいた。
「君のお父さん……レオは、俺のたった一人のかけがえのない親友だった。
彼は俺が知る中で誰よりも勇敢で……
そして誰よりも、優しい男だったんだ」
エリックは語り始めた。
勇者育成学校でのレオとの出会いを。
共に訓練に励み、共に笑い合ったあの日々を。
孤児院の子供たちに、なけなしのパンを分け与えた彼の優しさを。
その言葉には何の飾りも嘘もなかった。
ただ、失われた友への純粋な、そしてあまりにも深い愛情だけがあった。
リオは最初は疑いの目で聞いていたが、エリックの声に込められたその真摯な響きに、次第にその小さな体を強張らせていた力を緩めていった。
「……本当に……?」
リオが震える声で呟いた。
「ああ、本当だ」
エリックは力強く頷いた。
「俺たちは仲間だった。
セレーネもアルスも……四人で一つの家族のようなものだったんだ」
その言葉を聞いた瞬間、リオの瞳から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
それは恐怖の涙ではなかった。
父がかつて人間の中に本当の仲間を持っていたという、信じがたい事実に彼の小さな心が激しく揺さぶられたのだ。
「……父さんは……いつも一人だった……」
リオは嗚咽を漏らしながら言った。
「母さんが死んでからは、ずっと……。
父さんは僕の前ではいつも笑ってたけど……でも、夜になると一人で遠い空を見上げて……
すごく悲しそうな顔を、してた……」
その言葉は、エリックの心を完全に打ち砕いた。
(レオ……お前……。
ずっと一人で……。
俺たちのことを……思い出してくれていたのか……)
エリックの目からも十年という歳月を経て、初めて熱い涙が止めどなく溢れ出した。
彼は鎖に繋がれたまま這うようにして、リオのそばへと近づいた。
そして、その震える小さな体を傷だらけの腕で、力強く、そして優しく抱きしめた。
「……すまなかった……」
エリックの嗚咽に満ちた声が、独房の闇に響いた。
「……俺が……
俺たちが、お前の父さんを一人にしてしまったんだ……。
本当に……すまなかった……!」
リオはエリックの腕の中で声を上げて泣きじゃくった。
父の知らなかった過去。
父の隠された悲しみ。
その全てを、父の親友だったというこの傷だらけの男の腕の中で、彼は初めて知ったのだ。
二人はどれほどの時間、そうしていただろうか。
闇の中でただ互いの存在を確かめるように、静かに涙を流し続けた。
それは失われた時間と犯した過ちに対する、あまりにも悲しく温かい和解の瞬間だった。
それから処刑の日までの数日間。
独房の中の空気は完全に変わっていた。
エリックはリオに、レオとの旅の思い出を一つ一つ丁寧に語って聞かせた。
それは英雄譚ではない。
ただ二人の若者が共に笑い、共に悩み、そして共に未来を夢見た、ささやかな、しかし、かけがえのない日々の物語だった。
リオはその物語を目を輝かせながら聞き入った。
彼の心の中にこれまで知らなかった、優しく、そして少しだけ不器用な父親の姿が鮮明に、そして温かく築き上げられていった。
そして、運命の日の朝が来た。
独房の重厚な鉄の扉が地響きのような音を立てて開かれた。
逆光の中に、完全武装した騎士団長の巨大な影法師が浮かび上がる。
「……時間だ、エリック」
その声には何の感情もなかった。
「……そして、小僧。
お前もだ」
エリックは静かに立ち上がった。
そして怯えるリオの前に立ち、その小さな手を固く、固く握りしめた。
「……大丈夫だ、リオ」
エリックは微笑んだ。
その顔にはもはや一片の恐怖も迷いもなかった。
「俺がそばにいる。
何があっても、お前のことは俺が守る」
その言葉は彼が最後に、そして真に親友レオへと捧げる誓いの言葉だった。
二人は騎士たちに促され独房の闇から、処刑台が待つあまりにも眩しい光の中へと、その最後の歩みを進め始めた。