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第166話:捕縛、そして牢獄へ

 袋小路の広場は鉄と血、そして絶望の匂いに満ちていた。

エリックの最後の抵抗は、あまりにも美しく、そしてあまりにも儚かった。


 彼はその身に宿す力の全てを解放し、押し寄せる鋼鉄の津波の中を一筋の閃光となって舞った。

その剣筋はもはや人間の域を超えていた。

騎士たちの槍を砕き、盾を弾き、その鎧の隙間をまるで針の穴を通すかのように正確に突いていく。


 しかし、彼の目的は殺戮ではなかった。

ただひたすらに、背後にいる小さな少年を守るための盾となること。

その一心だけが彼の体を動かしていた。


(……まだだ……まだ、終われない……!)


 彼の呼吸はすでに限界近くまで乱れていた。

頬を掠めた矢傷からは絶え間なく血が流れ落ち、その視界を赤く染める。


 全身の筋肉が悲鳴を上げていた。

十年という歳月、彼が孤独の中で磨き上げてきたこの超人的な肉体でさえも、数百の精鋭を相手にした消耗戦には抗うことができなかったのだ。


「怯むな! 奴は一人だ!」


騎士団長の悲痛なまでの叫びが広場に響き渡る。


「我らの誇りにかけて、反逆者をここで止めろ!」


 騎士たちは統率を取り戻していた。

彼らはもはや無謀な突撃は仕掛けてこない。

重厚な盾を持つ兵士たちが、じりじりと、しかし確実に包囲の輪を狭めてくる。


 その盾の隙間から無数の槍の穂先が、まるで毒蛇の牙のようにエリックへと突き出された。


キィン! ギャン!


 金属音が絶え間なく鳴り響く。

エリックはその全てを神業のような剣技で捌ききっていた。


 しかし、彼の足は一歩、また一歩と後退を余儀なくされていく。

その背後には断頭台の冷たい石と、そして恐怖に震えながら必死に彼の衣を握りしめる、小さな少年の体があった。


 もう退がる場所は、どこにもなかった。


(……ここまで、か……)


 エリックの脳裏に一瞬、諦観にも似た思いがよぎった。

自分の行動はやはり無謀だったのだ。

この子供一人救うことさえできずに、自分はここで犬死にするのか。


 セレーネ、アルス、そしてレオ。

誰一人救うことも、その無念を晴らすこともできずに。


 その、ほんの一瞬の精神的な隙。

それを見逃すほど、彼を長年見つめてきた騎士団長は甘くはなかった。


「――今だっ!」


 騎士団長の鋭い号令と共に、包囲網の一角を担っていた最も屈強な騎士が、その巨大な戦斧をエリックの足元めがけて薙ぎ払った。

それはエリックを殺すための一撃ではない。

彼の体勢を、その動きを完全に崩すためだけの、冷徹で計算され尽くした一撃だった。


 エリックは危険を察知し後方へと跳躍しようとした。

しかし、その背後には守るべき少年がいる。

彼は跳べなかった。

代わりに彼は、その一撃を自らの剣で受け止めることを選んだ。


 凄まじい衝撃が彼の腕を、そして全身を襲う。

剣と戦斧が火花を散らして激突し、耳をつんざくような轟音を立てた。

エリックはその衝撃に耐えきれず、大きく体勢を崩した。


 その決定的な隙を、騎士団長は見逃さなかった。

彼はエリックが体勢を立て直すよりも早くその懐へと踏み込むと、剣の柄でエリックの剣を持つ手首を的確に、そして力強く打ち据えた。


ガンッ!


 鈍い音が響き、エリックの手から処刑のための長剣が力なく滑り落ちた。

カラン、と虚しい音を立てて剣は石畳の上を転がっていく。

その音が彼の敗北を、そして抵抗の終わりを告げる弔いの鐘の音のように、広場に響き渡った。


「……っ!」


 武器を失ったエリックの体に、次の瞬間、数人の騎士たちがその巨体をぶつけるように殺到した。

重い鋼鉄の質量が、彼の自由を奪う。

彼は地面に押さえつけられ、その手足を屈強な騎士たちによって完全に拘束された。


「……いやだっ!」

彼の背後で少年が悲痛な叫び声を上げた。


 少年はエリックから引き離そうとする騎士の腕に、その小さな歯で必死に噛みつこうとした。

しかし、そのか弱い抵抗は騎士の一人がその兜の背で少年の頭を軽く突いただけで、あっけなく終わりを告げた。


 少年はくぐもった呻き声を上げると、力なくその場に崩れ落ちた。


「やめろ……!

その子に手を出すな……!」


 地面に押さえつけられながら、エリックは獣のような声で叫んだ。


「……安心しろ、エリック」

騎士団長がその上にまたがり、彼の顔を冷たい瞳で見下ろした。


 その瞳には勝利の喜びはなく、ただ友を捕らえなければならなかったことへの深い悲しみが宿っていた。


「陛下からのご命令は『捕縛』だ。

まだお前たちを殺せとは言われていない」


 騎士たちはエリックの腕を背後に回し、重く冷たい鉄の枷をその手首にはめた。

ガチャリ、という無機質な音が彼の自由が完全に奪われたことを告げていた。


 奮戦は虚しく終わった。

英雄エリックは今この瞬間に、ただの一人の「反逆者」として捕らえられたのだ。


 王都の民衆は、その信じがたい光景をただ呆然と見つめていた。

彼らの英雄が傷つき、鎖に繋がれ、反逆者として地面に膝をつかされている。

彼らが憎むべき魔族の子供もまた、気を失ったまま騎士たちによって乱暴に担ぎ上げられた。


「……反逆者を、連行する!」

騎士団長の重い声が広場に響き渡った。


 騎士たちはエリックをまるで罪人のように荒々しく立たせると、王宮の地下牢へと向かって引きずり始めた。

その道は奇しくも彼が十年前に、英雄として民衆の熱狂的な歓声を浴びながら通った凱旋の道そのものだった。


 かつて彼のために道を開け、花びらを投げ、その名を熱狂的に叫んだ民衆。

彼らは今、その道の両脇に遠巻きに立ち尽くし、エリックの姿を冷たい視線で見つめていた。


 その瞳に宿っているのは、もはやかつてのような崇拝の光ではない。

それは信じていたものに裏切られたことへの深い失望。

英雄が魔族に与したことへの恐怖。

そして理解不能な存在に対する、冷たい、冷たい侮蔑の色だった。


「裏切り者……」


「英雄様が……なぜ……」


「あんな子供の魔族一人のために、全てを捨てるなんて……」


「やはり、魔族に心を汚染されていたのだ……」


 その氷のような囁き声が、エリックの耳に容赦なく突き刺さる。

それは騎士たちの剣よりも遥かに深く、彼の魂を傷つけた。


 しかし、エリックは俯かなかった。

彼は傷つき血にまみれ、鎖に繋がれながらもその背筋をまっすぐに伸ばし、前を見据えていた。

その瞳は民衆の冷たい視線を一人一人受け止めるかのように、ゆっくりと広場を、そして王都の街並みを見渡した。


(……それでも、俺は……)


彼の心の中で静かな声が響いた。


(お前たちのあの笑顔を、守りたかった。

たとえそれが偽りの平和の上のものだったとしても……)


 彼の決断は間違っていたのかもしれない。

彼の行動はあまりにも無謀だったのかもしれない。

しかし、彼には後悔はなかった。


 英雄として偽りの世界で生き続けるよりも。

反逆者として、たった一つの小さな命を守るために死ぬ。

それこそが彼が最後に、そして初めて自分自身の意志で選び取った「正義」の道だったのだから。


 やがて彼らの姿は、王宮の地下牢へと続く暗い、暗い闇の中へと消えていった。

後に残されたのは、混乱と不信と、そして英雄の失墜というあまりにも大きな喪失感に包まれた王都の民衆だけだった。


 地下牢の重厚な鉄の扉が、地響きのような音を立てて閉ざされた。

その音がエリックが、もはや光の世界の住人ではないことを最終的に宣告していた。


 騎士たちはエリックの体をまるで荷物のように、独房の冷たい石の床へと投げ込んだ。

全身を強烈な痛みが襲う。

彼の体は先ほどの死闘で、すでに限界を超えていた。


「……う……っ」

彼は呻き声を上げながら壁に背を預け、荒い呼吸を繰り返した。


 その手足には壁に固定された、さらに重い枷がはめられている。

そして彼の目の前に、もう一つの小さな体が投げ込まれた。

少年だった。

彼はまだ意識が戻らないのか、ぐったりとしたまま動かない。


「……せいぜい己の愚かさを、ここで悔いるがいい。

反逆者エリックよ」

騎士団長の最後の、そしてどこか悲しげな声が鉄格子の向こう側から聞こえてきた。


 やがてその足音も松明の光も遠ざかっていき、独房は完全な闇と静寂に包まれた。

エリックは闇の中で目を閉じた。

傷ついた体が悲鳴を上げている。

鎖の重みが彼の魂までをも縛り付けているかのようだ。


 しかし、彼の心は不思議なほどに静かだった。

英雄という重い鎧をついに脱ぎ捨てた解放感。

そして守るべきものをまだ、その腕の中に(たとえ同じ牢の中だとしても)留めておけるという、ささやかな安堵感。


 彼はゆっくりとその目を開けた。

闇に慣れた瞳が、独房の隅で小さな寝息を立てている少年の姿を捉えた。

その無垢な寝顔を見つめていると、エリックの心の中にあの、どうしても消し去ることのできない疑問が再び蘇ってきた。


(……お前は……。

一体、誰なんだ……?)


 その問いの答えを、彼は確かめなければならなかった。

自らが全てを捨ててまで守ろうとした、この小さな命の本当の意味を。

そして自らのあまりにも悲しい運命の、最後の、そして唯一の救いを求めて。

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