第165話:逃走と抵抗
王都の裏路地は太陽の光が届かない、迷宮のような闇だった。
中央広場の熱狂と喧騒は、まるで遠い世界の出来事のように壁の向こう側からくぐもって聞こえてくる。
今エリックの世界を支配しているのは、背後から迫る無数の足音、鎧の擦れる音、そして自らの荒い呼吸と握りしめた小さな手の、か細い震えだけだった。
「走れ!」
エリックは少年の手を強く引きながら、石畳の上を駆けた。
彼の頭の中は驚くほどに冷静だった。
十年という歳月、彼はこの王都の全てをその頭の中に叩き込んできた。
国王の後継者として、この街を守るために。
皮肉にも、その知識が今、その街から逃げ出すための唯一の武器となっていた。
(西地区の第五水路……
あそこなら衛兵の巡回も手薄なはずだ)
(いや、ダメだ。
国王は俺の思考を読む。
俺が最も合理的だと判断する経路こそ、最も危険な罠が仕掛けられているはず)
彼の思考は超高速で回転していた。
背後から迫る追手は、ただの兵士ではない。
彼らは英雄エリック自身がその訓練を監督したこともある、王国で最も精鋭な騎士団だ。
彼らの能力も思考パターンも、エリックは知り尽くしている。
そして、彼らもまたエリックのことを。
「……っ!」
エリックは角を曲がる寸前で急停止した。
壁の向こう側から、複数の統率の取れた気配。
待ち伏せだ。
彼は瞬時に踵を返し、別の、より狭く暗い路地へとその身を滑り込ませた。
「……はぁ……はぁ……」
少年の息が切れ切れになっている。
その小さな体は、この壮絶な逃走劇にすでについていけていない。
エリックは一瞬足を止めた。
そして躊躇うことなく、その小さな体を片腕で力強く抱きかかえた。
「しっかり捕まっていろ」
その声は命令ではなく、どこまでも優しい響きを持っていた。
少年はこくりと頷くと、エリックの首にその小さな腕を必死に回した。
その首筋に感じる子供の温かい呼吸。
それがエリックの心を、不思議と落ち着かせた。
(守る……。
必ず、この子だけは……)
彼は再び走り出した。
片腕に子供を抱えながらも、その速度はほとんど落ちなかった。
壁を蹴り、屋根に飛び乗り、洗濯物が干されたロープを滑り降りる。
その動きはもはや人間のそれではなく、闇に紛れる一匹の俊敏な獣のようだった。
しかし、包囲網は確実に、そして容赦なくその範囲を狭めてきていた。
王都の主要な門は全て、巨大な鉄格子によって閉ざされているのが遠目にも見えた。
大通りには槍を構えた兵士たちが、鉄壁の陣を敷いている。
空には王宮の魔術師が放ったであろう、偵察用の光の鷹が旋回している。
この王都そのものが、彼を捕らえるための巨大な檻と化していた。
そして、何よりもエリックの心を抉ったのは民衆の視線だった。
彼が屋根から屋根へと飛び移る姿を、窓から見つけた人々。
彼らは最初、驚きに目を見開いた。
しかし、次の瞬間、その瞳に宿ったのは恐怖と、そして裏切り者を見る冷たい憎悪の色だった。
「いたぞ! 反逆者だ!」
「英雄様が……
魔族の子供を連れて逃げている!」
「誰か! 兵士を呼べ!」
その声は無数の矢となって、エリックの心に突き刺さった。
(……お前たちを、守るためだった……)
彼の脳裏に、あの初夏の日に見た彼らの幸せそうな笑顔が蘇る。
あの笑顔を守るために、自分は魂を売る決断をしたはずだった。
しかし、その結果がこれなのか。
(……俺の行動は……
どれほど無謀だったのだろうか……)
その時、彼の心に初めて、絶望的なまでの現実認識が冷たい水のように染み込んできた。
一人の人間と一人の子供。
それで一体何ができるというのか。
一つの王国を、いや、五大陸の王たちが支配するこの巨大な偽りの世界を敵に回して。
計画もなかった。
仲間もいない。
ただ目の前の、あまりにも理不尽な光景に対する直感的な怒りだけで、彼は全てを捨ててしまった。
(俺は……
この子を救うことさえ、できないのかもしれない……)
(それどころか俺自身の無謀な行動によって、この子をさらに深い絶望へと突き落としてしまったのではないか……)
その、魂が凍てつくような後悔が彼の足を、一瞬だけもつれさせた。
そのほんのわずかな隙を、追手が見逃すはずはなかった。
ヒュンッ!
鋭い風切り音と共に一本の矢が、エリックの頬を掠めた。
熱い痛みが走り、赤い血が闇の中に散る。
「……っ!」
エリックは矢が放たれた方向を見据えた。
前方の袋小路となった広場の入り口に、数十人の騎士たちが鉄壁の陣を敷いて立ちはだかっていた。
そして背後の路地の闇からも、次々と新たな騎士たちが姿を現す。
完全に、包囲された。
「……もはや、これまでか」
騎士団長が悲痛な、しかし揺るぎない表情でゆっくりとエリックへと歩み寄ってきた。
彼の鎧は先ほどの戦闘で、エリックによって斬りつけられた傷跡が生々しく残っている。
「エリック……。
なぜこんなことをした。
お前はこの世界の光だったはずだ。なぜ自ら闇に堕ちる道を選んだのだ」
エリックは静かに少年を地面に降ろした。
そして、その小さな体を自らの背中で庇うように騎士団長の前に立った。
彼の心の中では先ほどまでの後悔の念は、消え去っていた。
代わりにそこにあったのは、絶望的な状況の中でそれでもなお、守るべきものを守り抜こうとする戦士としての、最後の、そして最も純粋な覚悟だった。
「光……?」
エリックは自嘲するように小さく笑った。
「お前たちの言う『光』が、無垢な子供を民衆の憎悪の生贄にすることだというのなら……」
彼はその手に持つ剣を静かに構えた。
その瞳にはもはや英雄の輝きはない。
しかし、そこにはどんな光よりも強く気高い、人間としての最後の誇りの炎が燃え盛っていた。
「俺は、喜んで闇となろう」
その言葉は決別の、そして最後の抵抗の始まりを告げる狼煙だった。
「……愚かな……」
騎士団長は悲しげにそう呟いた。
そして、その手に持つ剣を天に掲げた。
「反逆者エリックを捕らえよ!
抵抗するならば殺しても構わんとの、陛下からのご命令である!」
その号令を合図に、広場を埋め尽くした騎士たちが一斉に、その槍と剣をエリックへと向けた。
その数はもはや先ほどの広場とは比較にならない。
数百という、絶望的なまでの数。
エリックは迫りくる鋼鉄の壁を静かに見据えていた。
彼の背後で少年が恐怖に震えながら、再び彼の衣の裾を固く、固く握りしめた。
その小さな手の温もりだけが今、彼をこの世に繋ぎとめる唯一の鎖だった。
彼は勝てるとは思っていなかった。
しかし、負けるとも思っていなかった。
ただ、この命が尽きるその最後の瞬間まで、この子の盾となり続ける。
それだけが彼に残された唯一の、そして最後の「正義」だった。
「――来るがいい」
エリックの静かな声が、広場に響き渡った。
次の瞬間、彼の体は一筋の閃光となって、鋼鉄の津波の中へとその身を投じた。
英雄から反逆者へ。
そのあまりにも悲しく、そしてあまりにも気高い最後の戦いが、今始まった。
彼の抵抗は絶望的な状況の中で、ただ必死に、そして美しく燃え盛っていた。
その炎がやがて自らの身を焼き尽くし、そして捕縛という名の新たな闇へと堕ちていくことを、予感しながら。




