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第164話:決別の時

「……断る」


 その一言が、王都の中央広場を支配していた張り詰めた静寂を、ガラスのように粉々に砕いた。

英雄エリックの口から放たれた、静かで、しかし絶対的な拒絶の言葉。


 それは彼が十年という歳月をかけて被り続けてきた、輝かしい英雄という名の仮面を自らの手で引き剥がし、投げ捨てた瞬間だった。


 騎士団長の顔から血の気が引いた。

彼の瞳には信じられないという驚愕と、そして長年敬愛してきた英雄が今目の前で道を踏み外そうとしていることへの深い悲しみが浮かんでいた。


「エリック……

貴様、自分が何を言っているのか分かっているのか……!」


 その声はもはや命令ではなく、懇願に近かった。

「それは陛下への、王国への、そして全人類への裏切りとなるのだぞ!」


 民衆は固唾を飲んで、その光景を見守っていた。

彼らの頭の中は完全な混乱に陥っていた。


 英雄が魔族の子供を庇い、国王の命令に背く。

そんなありえないはずの光景が、今、現実として繰り広げられている。


 しかし、エリックの心は不思議なほどに穏やかだった。

十年という歳月、彼を縛り付けてきた英雄という名の重く、そして冷たい鎖。

セレーネの死、アルスの死、そしてレオへの憎しみという三つの重荷。

その全てが今この瞬間に、完全に断ち切られたのだ。


(……これで、いい)


 彼はもはや国王の駒ではない。

民衆の期待に応える空っぽの偶像でもない。

彼はただ一人の人間として、自らが信じるたった一つの、そして最も根源的な正義のために剣を振るう。

たとえそれが全世界を敵に回す、あまりにも無謀で孤独な戦いだとしても。


「裏切り者、か……」

エリックは自嘲するように小さく呟いた。


「そうかもしれんな。

だが俺はもう、お前たちの創り上げた偽りの正義のために剣を振るうつもりはない」


 彼はその手に持つ処刑のための剣を、ゆっくりと構え直した。

その切っ先はもはや断頭台の上の少年ではなく、彼を取り囲むかつての仲間たちへと向けられていた。


 彼の背後で小さな少年が恐怖に震えながら、しかし必死に、彼の衣の裾を固く握りしめている。

その小さな手の温もりが、エリックに自分が守るべきものが何であるかを明確に伝えていた。


(俺は、もう二度と間違えない)


(もう二度と、大切なものをこの手からこぼれ落としたりはしない)


「エリック……!」


騎士団長の悲痛な叫びが広場に響き渡る。


「……これが貴様の最後の機会だ。

剣を捨て、陛下に許しを請え!

そうすれば、まだ……!」


「もう、遅い」

エリックは静かに、そしてきっぱりと言った。


「俺は俺の道を行く。

お前たちにはお前たちの正義があるのだろう。

ならば来い。

お前たちのその正義とやらで、俺を止めてみせろ」


 その言葉は決別の狼煙だった。

騎士団長は苦渋に満ちた表情で、その顔を歪ませた。

そしてゆっくりと、その手に持つ剣を天に掲げた。


「……やむを得ん……」

彼の声はもはや震えてはいなかった。

そこにあるのは王国の騎士としての、非情なる決意だけだった。


「全軍に告ぐ!」


 騎士団長の声が冬の空気を震わせた。


「反逆者エリックを、捕縛せよっ!!!!」


 その号令を合図に、広場を固めていた数百の騎士たちが一斉に、その槍の穂先をエリックへと向け、地響きのような雄叫びと共に突撃を開始した。


 鋼鉄の津波が、断頭台の上のたった一人の男と一人の子供へと殺到する。


 民衆は悲鳴を上げた。

英雄が、英雄を守るべきはずの騎士たちに殺されようとしている。

彼らが信じてきた単純明快な世界が今、目の前で音を立てて崩壊していく。


 観覧席の上でその光景を見ていたカインは、その感情を映さない瞳を興味深そうに細めた。


(……面白い。

これが英雄の最後の輝きか。

あるいは、新たな混沌の始まりか)


 彼はこの歴史的な瞬間を、ただの分析対象として冷徹にその記憶に刻み込んでいた。


 エリックは迫りくる鋼鉄の壁を、静かに見据えていた。

彼の瞳にはもはや恐怖も迷いもなかった。

あるのはただ、守るべきものを背にした戦士としての純粋な闘志だけだった。


 最初に彼の元へ到達した三人の騎士の槍。

その穂先は寸分の狂いもなく、エリックの心臓、喉、そして眉間を狙っていた。


 しかし、次の瞬間。

広場に響き渡ったのは肉を貫く音ではなく、鋭い金属の悲鳴だった。


キィィィンッ!


 エリックの剣がまるで幻影のように、三つの軌跡を描いた。

三本の槍はその穂先からいとも容易く切断され、宙を舞う。

騎士たちは信じられないという表情で、手元に残されたただの木の棒を見つめていた。


 エリックは止まらない。

彼は槍を失い体勢を崩した騎士たちの懐へと滑るように踏み込むと、剣の柄でその兜を的確に、しかし加減して打ち据えた。

騎士たちは声もなく、その場に崩れ落ちる。


(殺さない……)


 エリックは心に誓っていた。

(こいつらもまた国王に操られた、哀れな被害者だ。

俺が憎むべきは、こいつらではない)


 彼の戦い方は魔王城でのそれとは全く異なっていた。

かつての民衆に見せるための、華麗でどこか芝居がかった剣技ではない。

ただ効率的に、そして相手の命を奪うことなく無力化するためだけに研ぎ澄まされた、究極の体術。


 彼は次々と押し寄せる騎士たちの波の中を、まるで流れる水のように舞った。

槍を払い、剣を受け流し、盾を蹴り砕く。


 その動きには一切の無駄がなく、もはや芸術の域に達していた。

十年という歳月、彼が孤独の中でただひたすらに磨き続けてきた技。

それが今、皮肉にもかつての仲間たちに向かって振るわれている。


「くっ……!

怯むな! 囲め!

数で押し潰せ!」

騎士団長が必死に叫ぶ。


 しかし騎士たちは、エリックの人間業とは思えぬ動きに完全に翻弄されていた。

彼らは英雄エリックの本当の力を、その恐ろしさを今、初めてその身をもって知ったのだ。


「……すごい……」


 エリックの背後で小さな少年が、震える声で呟いた。

彼の瞳には恐怖と、そして自分を守るために戦うその圧倒的な強さへの純粋な畏敬の念が浮かんでいた。


 しかし、エリックは決して油断していなかった。

このままではいずれ体力が尽き、数に押し潰されることは目に見えている。

そして何より、彼の背後には守るべきか弱い命がある。


(……突破口を、開く……!)


 彼は騎士たちの包囲網の一点を見据えると、これまでとは比較にならないほどの凄まじい闘気をその全身から迸らせた。


「――はぁっ!!!!」


 彼の気合一閃と共に、その手に持つ長剣がまばゆい光を放った。


 それは聖剣ではない。

しかし、英雄エリックという存在がその魂の全てを込めて放つ最後の輝きだった。


 彼はその光の刃で眼前の騎士たちを、薙ぎ払うように一閃した。

その一撃は騎士たちの鎧を、盾を、そして槍をまるで紙のように切り裂き、巨大な突破口をその包囲網に穿った。


「今だ!」


 エリックは少年の小さな手を力強く掴んだ。


「走れ!」


 彼はその突破口に向かって、全速力で駆け出した。

背後から騎士たちの怒号と、民衆の悲鳴が追いかけてくる。

彼はもはや振り返らなかった。


 英雄としての輝かしい栄光。

民衆からの熱狂的な歓声。

国王から与えられた約束された未来。

その全てを彼は今この瞬間に、完全に捨て去ったのだ。


 彼が選んだのは反逆者といういばらの道。

彼が貫くと決めたのは国王の偽りの秩序ではなく、ただ目の前の小さな命を守るという、自分自身のささやかで、しかし何よりも尊い「正義」。


 エリックは少年の手を引きながら、王都の迷路のように入り組んだ裏路地へとその身を投じた。

太陽の光が届かない、薄暗い影の中へと。


 観覧席の上でカインが、その姿が完全に闇に消えるのを静かに見届けていた。

そして彼はゆっくりと、その口元に初めて人間のような、しかし氷のように冷たい微かな笑みを浮かべた。


「……第二幕の、始まり、か」


 英雄から反逆者へ。

決別の時は訪れた。

王都全土を舞台とした壮絶な逃走劇が、今始まろうとしていた。


 そして、その先でエリックを待ち受けているのが希望なのか、それともさらなる絶望なのか。

その答えを、まだ誰も知らなかった。

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