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第163話:裏切りの決意

 時間は止まった。

王都の中央広場を埋め尽くす数万の民衆の息遣いさえもが、完全に消え失せたかのような絶対的な静寂。


 エリックは処刑の剣を高く天に掲げたまま、その場で凍りついていた。

彼の世界にはもはや、国王も民衆も、監視役カインの冷たい視線さえも存在しなかった。

ただ、目の前の断頭台に首をうなだれる小さな少年と、その瞳の奥に見たあまりにも痛ましいかつての親友の面影だけが、彼の意識の全てを支配していた。


(もしや……この子は……レオの……息子、なのでは……?)


 その思考はもはや単なる疑念ではなかった。

それは彼の魂を根底から揺さぶる確信に近い戦慄であり、そして十年という歳月をかけて彼が必死に築き上げてきた偽りの世界の全てを、内側から破壊する禁断の真実だった。


 もし、そうだとしたら。

自分は今、何をしようとしている?


 親友を自らの無知と憎悪によって間接的に死に追いやり。

そして今度は、その忘れ形見である無垢な子供までをも、この手で殺そうとしているのか。

あの醜悪な王の、悪魔の駒として。


(……ああ……あああああ……)


 彼の心の中で何かが、音を立てて完全に砕け散った。

憎しみも、贖罪も、友を蘇らせるという狂気にも似た目的さえも。

その全てが、このあまりにも悍ましい真実の可能性の前に塵となって吹き飛んでいった。


 彼の完璧な仮面が、音を立てて崩れ落ちる。

その瞳に十年というあまりにも長い歳月を経て、初めて人間としての純粋な感情が激流となって溢れ出した。


 それは絶望だった。

それは後悔だった。

そして、それは、どうしようもないほどの愛だった。


「エリック様!

何をためらっておられる! さあ、早く!」


 騎士団長の焦れた声が、止まっていた時間を再び乱暴に動かし始めた。

広場の民衆も、英雄の突然の静止に困惑のざわめきを広げ始めている。

その声が、引き金となった。


 英雄エリックの魂の奥底で、一つの巨大な叫びが生まれようとしていた。

それは偽りの英雄の仮面を永遠に引き裂き、この世界の運命そのものを変えてしまうほどの、魂からの咆哮だった。


「――やめろっ!!!!」


 その声は雷鳴だった。

英雄としての穏やかで威厳に満ちた声ではない。

一人の人間としての怒りと悲しみと、そしてどうしようもないほどの痛みを乗せた、魂からの絶叫だった。

その声は広場の隅々にまで、まるで物理的な衝撃波のように響き渡った。


 民衆のざわめきがぴたりと止む。

騎士たちの槍を構える音が途切れる。

誰もが信じられないという表情で、断頭台の上に立つ英雄の姿を見つめていた。


 エリックは振り上げていた処刑の剣を、ゆっくりと、しかし断固たる意志で下ろした。

そして、その剣先を震える少年の体と、彼を取り囲む騎士たちとの間に、まるで盾のように差し向けた。


「……エリック様……?」

騎士団長が呆然と、その名を呼んだ。


「……一体何を……。

それは陛下のご命令にございますぞ……!」


「黙れ」


 エリックの声は低く、そして冬の氷のように冷たかった。

その瞳にはもはや、後継者候補としての穏やかな光はない。

あるのはただ、全てを敵に回す覚悟を決めた一人の反逆者の、燃え盛るような炎だけだった。


「この処刑は、中止する」


 彼はそう断言した。

その言葉は広場に再び、巨大な衝撃となって走った。


「な……!?」


「英雄様が……処刑を中止……?」


「なぜだ!

なぜ魔族の子供を庇うのだ!」


 民衆の困惑はやがて、不信と裏切りへの怒りへとその色を変え始めていた。

彼らが信じてきた英雄が今、彼らの目の前で憎むべき魔族の側に立ったのだ。


 観覧席の上でその全てを見ていたカインの表情は変わらなかった。

しかし、その感情を映さないガラス玉のような瞳の奥でほんの一瞬だけ、まるで全てが計算通りに進んだかのような冷たい満足の光が揺らめいた。


 彼は誰にも気づかれぬよう背後に控えていた伝令の騎士に、微かな合図を送る。

伝令は音もなくその場を離れ、王宮へと駆け戻っていった。


 王宮の最上階。

アースガルド国王は異星人の技術によって作られた巨大な水晶の盤を通して、広場の光景をリアルタイムで、そして愉悦に満ちた表情で見つめていた。


「……ふ、ふはは……」


 最初はかすかな笑い声だった。

しかし、それは次第に大きくなり、やがて部屋全体を揺るがすかのような狂気に満ちた高笑いへと変わっていった。


「はーっはっはっはっは!

見たか、カインの報告通りだ!

あの男、やはり壊れておったわ!

我らが創り上げた完璧なる英雄が、たかが魔族の小僧一匹のために全てを投げ打つとは!

これほどの傑作はないわ!」


 国王の顔は愉悦と、そして自らの駒が意のままにならなかったことへの激しい怒りで、醜悪に歪んでいた。

彼にとってエリックの忠誠心など、もはやどうでもよかった。

彼が望んでいたのはエリックが自らの手でレオの息子(と彼だけが知っている)を殺すことで、その魂を完全に破壊し永遠に自分たちの支配下に置くことだった。


 その計画は失敗した。

しかし国王は即座に、次なる、そしてより単純な「処理」へとその思考を切り替えた。


(使えなくなった駒は、盤上から取り除くのみ)


 国王の高笑いがぴたりと止んだ。

その顔には先ほどまでの狂気は消え失せ、代わりに絶対零度の氷のような冷酷な表情が浮かんでいた。

彼は傍らに控える近衛騎士団の総長に、静かに、しかし絶対的な命令を下した。


「……英雄エリックは魔族の妖術によって、その心を汚染された」


 その声はもはや何の感情も含まない、無機質な響きだった。


「奴はもはや英雄ではない。

我らが王国と全人類に対する、最も危険な『裏切り者』である」


 国王はゆっくりと、その宣告を口にした。


「近衛騎士団、及び王都の全兵士に告ぐ」


「裏切り者エリックを、ただちに捕縛せよ」


「抵抗するならば……」


「その場で、処刑せよ」


 その命令は魔法の通信装置を通じて、瞬時に広場にいる騎士団長、そして王都の全ての兵士たちへと届けられた。


 中央広場の張り詰めた空気の中で。

騎士団長の耳に付けられた小さなエーテル結晶が、かすかな光を放った。

彼の顔から血の気が引いた。

その表情は困惑から驚愕へ、そして苦渋の、しかし揺るぎない決意へと変わっていった。


 彼はゆっくりとその剣を抜いた。

そして、その切っ先をこれまで忠誠を誓ってきたはずの英雄エリックへと、真っ直ぐに向けた。


「……エリック……」

騎士団長の声は震えていた。


「……陛下からの、ご命令である」


 その言葉を合図に、広場を固めていた全ての騎士たちが一斉に、その槍の穂先をエリックへと向けた。

ガシャン、という無数の金属音が広場に響き渡る。

民衆はその信じがたい光景に、息を呑んだ。

英雄が今、その英雄を守るべきはずの騎士たちに囲まれている。


 騎士団長は悲痛な表情で続けた。

「貴様はもはや英雄ではない。王国に対する大逆人である!

陛下のご命令により、貴様を反逆者として捕縛する!」


「……それができないのであれば」


「ここで、処刑する!」


 その言葉はエリックにとって、もはや何の驚きももたらさなかった。

彼が、あの「やめろ」という一言を口にした瞬間からこうなることは分かっていた。


 彼はゆっくりと、その手に持つ処刑のための剣を構え直した。

その切っ先はもはや断頭台の上の少年ではなく、彼を取り囲むかつての仲間たちへと向けられていた。

彼の背後で小さな少年が恐怖に震えながら、その衣の裾を固く握りしめている。


(……これで、いい)


 エリックの心は不思議なほどに穏やかだった。

十年という歳月、彼を縛り付けてきた英雄という名の重い、重い鎖。

それが今、完全に断ち切られたのだ。


 彼はもはや国王の駒ではない。

民衆の期待に応える偶像でもない。

彼はただ一人の人間として、自らが信じるたった一つの正義のために剣を振るう。

たとえそれが全世界を敵に回す、あまりにも無謀で孤独な戦いだとしても。


 エリックは静かに、そして力強くその決意を口にした。


「……断る」


 その一言が、反逆の、そして真の戦いの始まりを告げる狼煙となった。

英雄から反逆者へ。

彼の長く偽りに満ちた栄光の物語は、今この瞬間に終わりを告げた。


 そして自らの意志で未来を切り開くための新たな伝説が、今始まろうとしていた。

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