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第162話:揺れる心

 国王歴1027年2月。


 王都の中央広場を支配していたのは、もはや熱狂ではなかった。

それは三日間にわたって熟成された、純粋な悪意の饗宴だった。


 国王の残虐な命令が下されてから三日目の昼下がり。

晒し台に繋がれた少年は、もはや人間としての輪郭さえ失いかけていた。


 その小さな体は投げつけられた汚物と乾いた血で見る影もなく汚れ、力なく枷に吊るされている。

初日に見せた気高い光を宿した瞳は今は固く閉じられ、その顔には深い疲労と諦観にも似た静けさが漂っていた。


 民衆の狂気は、もはや飽和状態に達していた。

最初のうちは怒号を飛ばし石を投げることに熱狂していた彼らも、抵抗もせずただ苦痛に耐えるだけの小さな標的に、次第にその興味を失い始めていた。


 広場を支配するのは憎悪というよりも、この非日常的な見世物がついに終わりを迎えることへの、病的な期待感だった。


 エリックは広場を見下ろす観覧席で、その全てを魂のない人形のように見つめ続けていた。

この三日間、彼は一睡もしていなかった。

眠れば悪夢が待っている。

しかし、目を開けていても目の前に広がるのは悪夢そのものだった。


 彼の心は完全に麻痺していた。

国王への嫌悪感も、民衆への失望も、そして自分自身への自己嫌悪さえも、あまりにも巨大すぎる絶望の前ではもはや何の感情も引き起こさなかった。


 彼はただ、この悍ましい儀式が終わるのを待っていた。

そして、自らがその儀式の最後の仕上げを行うための、道具となる瞬間を。


 彼の隣にはいつものようにカインが、影のように控えている。

その冷たい瞳は広場の少年ではなく、ただ一点、エリックの横顔だけを値踏みするように、そして分析するように見つめ続けていた。


 やがて王宮の鐘が、処刑の時刻を告げる重く不吉な音を響かせた。

その音を合図に、広場のざわめきがぴたりと止む。

全ての視線が晒し台へと、そして観覧席に座す英雄エリックへと注がれた。


「時は、満ちた!」

騎士団長がこれ以上ないほど朗々と、その声を張り上げた。


「魔族の末裔に正義の鉄槌を下す時が来た!

その役目を果たすは我らが英雄、エリック様である!

エリック様が振るう断罪の刃こそ、我ら人間の魔族に対する永遠の勝利の証となるであろう!」


民衆から最後の、そして最大の歓声が巻き起こった。

エリックはゆっくりと立ち上がった。

その動きには一切の感情の揺らぎがなかった。


彼は侍従が捧げ持つ白銀に輝く一振りの長剣を、その手に取った。

それは彼が魔王を討伐した際に使った聖剣ではなかった。

国王からこの日のためにと特別に下賜された、儀式用の、しかしその切れ味は恐ろしいほどに鋭い処刑のための剣だった。


 彼はその剣を手に、観覧席から広場の中央へと続く長い階段を、一歩、また一歩と下り始めた。

彼の足取りはまるで夢の中を歩いているかのように、現実感がなかった。

民衆が彼のために道を開ける。

彼らの瞳に宿るのは、狂信的な崇拝の光。


(……これが、英雄か)


 彼の心の中で誰かが、冷たく呟いた。


(友を殺した者たちの嘘を信じ、無垢な民を欺き、そして今、無抵抗な子供をその手で殺そうとしている。

これが、お前の望んだ英雄の姿か……)


 彼はその内なる声を無視した。

もはや彼の心に正義も悪もない。

あるのはただ、友を蘇らせるという唯一の目的。

その目的のためならば、彼はどんな罪でも背負う覚悟だった。


 晒し台の前で彼は足を止めた。

屈強な騎士たちが少年の体を縛る枷を解き、その小さな体を乱暴に引きずり下ろす。

そして晒し台の中央に置かれた黒く湿った断頭台へと、その首を押さえつけた。


 少年はもはや抵抗する力も残っていないようだった。

その体はぐったりと、騎士たちのなすがままになっている。


「エリック様! どうぞ!」

騎士団長がエリックに剣を捧げるように促した。


 エリックは無言でその剣を受け取った。

そして、断頭台の前に立つ。

見下ろすと、そこには泥と血にまみれた小さな黒髪のうなじがあった。


(……これで、終わる)


(これを終わらせれば、俺はまた一歩、セレーネたちに近づける……)


 彼はそう自分に言い聞かせた。

そしてゆっくりと、その重い剣を両手で高く振り上げた。


 広場が水を打ったように静まり返る。

全ての人間が、英雄がその聖なる刃を振り下ろす歴史的な瞬間を、固唾を飲んで見守っていた。


 その、永遠にも思える静寂の中で。

少年が最後の力を振り絞るかのように、ゆっくりとその顔を上げた。


 彼は自分を殺そうとしている男の顔を、その最後の瞬間に目に焼き付けようとしたのかもしれない。

あるいは、それはただの無意識の最後の抵抗だったのかもしれない。


 その、ほんの一瞬。

エリックの視線と少年の視線が、空中で交錯した。


 少年の瞳。

その瞳はもはや恐怖には濡れていなかった。

涙も枯れ果てていた。


 そこにあったのはただ、深い、深い、どうしようもないほどの悲しみと、そして全てを受け入れたかのような静かな諦観の色だけだった。


 その瞳を見た瞬間。

エリックの、十年という歳月をかけて凍らせてきた心の壁に、巨大な亀裂が走った。


(……なんだ……?)


(この……瞳は……)


 彼の思考が停止した。

全身の血が音を立てて逆流する。


 違う。

これは、ただの魔族の子供の瞳ではない。


 この絶望の淵にありながら、決して魂の気高さを失わない光の質。

この悲しみの奥底に、それでもなお誰かを信じようとするかのような真っ直ぐな光。


(……どこかで……)


(俺は、この瞳を、知っている……)


 彼の記憶の最も深い場所。

憎しみと罪悪感で固く、固く封印してきたその扉が、轟音を立ててこじ開けられた。

脳裏にいくつもの光景が、激しい閃光となってフラッシュバックする。


 勇者育成学校の訓練場。

傷だらけになりながらも決して諦めずに、自分に向かってきたあの日の親友の真っ直ぐな瞳。


 中央山脈の孤児院。

自分の食料を全て子供たちに分け与え、少しだけ泣き出しそうな顔で、それでも幸せそうに笑っていたあの日の親友の優しい瞳。


 そして、あの魔王城の玉座の間。

自分に「裏切り者」と罵られながらも憎しみではなく、ただどうしようもなく悲しい困惑に満ちた瞳で、何かを訴えかけようとしていたあの日の親友の絶望の瞳。


 その全ての光景が今、目の前の少年のこの小さな瞳の中に重なって見えた。


 違う。

似ているなどという生易しいものではない。


 これは、同じだ。

その絶望の淵で全てを諦めながらも、決して魂の誇りを失わない、その瞳の光の質は。

あの日の、レオ、そのものだった。


 そのありえないはずの気づきが、彼の脳裏を稲妻のように駆け巡った。


(まさか……)


(そんなはずは……ない……)


(レオは……俺が、あの場で……置き去りにして……)


 彼の思考が激しく、そして痛ましいほどに加速していく。

地下牢で感じたあの奇妙な既視感。

国王のあの不気味なまでの執着。


 なぜ辺境で捕らえたただの魔族の子供を、わざわざ王都まで連れてきて、これほどまでに残虐な見世物にする必要があったのか。


(……試す……?)


(国王は、俺を試している……?)


(俺の忠誠心を?

いや、違う……。

もっと別の何かを……。

俺の魂の最も深い部分を、完全に破壊するために……)


 全ての点と点が、一つの線となって繋がった。

その線が描き出したのは、あまりにも残酷で信じがたい一つの可能性だった。


 エリックは剣を振り上げたまま、その場で凍りついた。

彼の視線はもはや、少年の瞳から逸らすことができなかった。


 少年の顔。

泥と血に汚れた、その小さな顔。

恐怖と疲労に歪んだ、その表情。


 そのほんのかすかな輪郭の中に。

固く結ばれた、その唇の形の中に。

そして絶望の闇の中で、それでもなお最後の光を放つ、その瞳の中に。


 彼は見てしまったのだ。

かつての、親友の面影を。


(もしや……)


(この子は……)


(レオの……息子、なのでは……?)


 その思考はもはや、ただの疑念ではなかった。

それは彼の魂を根底から揺さぶる、確信に近い戦慄だった。


 もし、そうだとしたら。

自分は今、何をしようとしている?


 親友を自らの手で死に追いやり、そして今度はその息子までをも、この手で殺そうとしているのか。

国王の、悪魔の駒として。


(……ああ……あああああ……)


 彼の心の中で何かが、音を立てて完全に砕け散った。

憎しみも、贖罪も、友を蘇らせるという目的さえも、全てがこの悍ましい真実の可能性の前に吹き飛んでいった。


 時間は止まった。

広場を埋め尽くす民衆の息遣いさえも聞こえない。


 彼の世界にはただ、目の前の小さな少年と、そして高く振り上げたこの断罪の刃だけが存在していた。

彼の完璧な仮面が、音を立てて崩れ落ちる。


 その瞳に十年という歳月を経て、初めて人間としての純粋な感情が激流となって溢れ出した。


 それは絶望だった。

それは後悔だった。

そして、それは、どうしようもないほどの愛だった。


 英雄エリックの魂の奥底で、一つの巨大な叫びが生まれようとしていた。

それは偽りの英雄の仮面を永遠に引き裂き、この世界の運命そのものを変えてしまうほどの、魂からの咆哮だった。

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