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第161話:晒し者にされる少年

 国王歴1027年2月。


 王都の冬は、その最も厳しい表情を見せていた。

空は希望を拒絶するかのように厚く、そして重い鉛色の雲に覆われ、凍てついた風が街路を鞭打つように吹き荒れている。


 あの悪魔の命令が下されてから一ヶ月。

エリックの魂は静かに、そして確実にその輪郭を失い始めていた。

彼は王宮という名の豪華絢爛な檻の中で、ただ息を潜めるだけの囚人だった。


 昼間は完璧な後継者候補として冷徹に、そして効率的に政務をこなし、夜は友を蘇らせるという狂気にも似た希望を胸に、禁書庫の闇を彷徨う。

その二つの顔の狭間で彼の人間としての心は、少しずつ摩耗しすり減っていくかのようだった。


 そして、運命の日は訪れた。

その日の王都は、異様な熱気に包まれていた。

国王の布告によって「魔王の血を引く、忌まわしき魔族の末裔」が捕らえられ、今日、民衆の前にその醜悪な姿を晒すのだという。


 この一ヶ月、王宮から流された巧妙な噂とプロパガンダは人々の心に、忘れかけていた魔族への恐怖と憎悪を再び鮮明に蘇らせていた。


「英雄エリック様が魔王を討伐されてから十年。我らは平和に慣れすぎていたのかもしれぬ」


「そうだ。魔族どもは我らが油断するのを、じっと待っていたのだ」


「今日こそ奴らに思い知らせてやらねば。我ら人間の正義の怒りを!」


 街の辻々で交わされる会話は狂信的な熱を帯び、王都の中央広場には夜明け前から、その「正義の鉄槌」をその目で見届けようとする民衆が黒山の人だかりを築いていた。


 エリックは王宮の最も高い塔の窓から、その光景を感情のない瞳で見下ろしていた。

彼の隣にはいつものように、影のようにカインが控えている。


(……これが、国王の望んだ光景か)


 エリックの心の中を、冷たい風が吹き抜けた。

あの純粋で、何の疑いもなく自分を「英雄」と信じてくれた民衆が、今はまだ見ぬ子供の魔族に対して憎悪の炎を燃やしている。

その炎を煽ったのは国王であり、そしてその片棒を担いでいるのは自分自身だった。


 やがて、時刻が訪れた。

王宮の巨大な鐘が、重々しく不吉な音を響かせる。

それを合図に、地下牢へと続く重い扉が軋みながら開かれた。


 エリックは広場を見下ろす特別に設けられた観覧席へと、その歩みを進めた。

英雄として、この「正義の儀式」を民衆と共に見届ける。

それが彼に与えられた今日の役割だった。


 彼の背後にはカインが、一歩も離れずに付き従う。

その冷たい視線がエリックの背中に、見えない杭のように突き刺さっていた。


 広場の中央には粗末な木で作られた晒し台が設置されている。

その周りを完全武装した国王軍の騎士たちが、槍を構え鉄壁のように取り囲んでいた。


 やがて地下牢から一人の小さな影が、二人の屈強な騎士に両脇を抱えられ、引きずられるようにして現れた。

あの、少年だった。

その姿が見えた瞬間、広場を埋め尽くした民衆から地鳴りのような怒号が巻き起こった。


「出たぞ! 魔族の子供だ!」


「見ろ、あの邪悪な顔を!」


「化け物が! この街を汚すな!」


 エリックはその罵声の嵐の中で、ただその少年の姿を凝視していた。

少年はこの一月で、さらに痩せ細っているように見えた。

地下牢の過酷な環境が、その小さな体から確実に生命力を奪っていたのだろう。


 しかし、その瞳。

あの気高い光だけは、少しも失われてはいなかった。

少年は民衆の憎悪の視線を一身に浴びながらも決して俯こうとはせず、固く唇を結び真っ直ぐに前を見据えていた。


(……怯えている)


 エリックには分かった。

彼の完璧な仮面の下で、その小さな体は恐怖に小刻みに震えている。

しかし、彼はその恐怖を必死に、その誇りで押し殺そうとしているのだ。


 騎士たちは少年を乱暴に晒し台へと引き上げると、その手足を冷たい鉄の枷で柱に固く縛り付けた。

完全に無抵抗な、無防備な姿。

それはもはや「囚人」ではなく、ただの「生贄」だった。


「聞け! 王都の民よ!」

騎士団長が高らかに声を張り上げた。


「この小僧こそ、先の魔王の血を引く魔族の末裔である!

奴らは我らが英雄エリック様によって打ち破られた後も、その邪悪な血脈を繋ぎ再びこの地に災いをもたらそうと企んでおった!

今日より三日間、この化け物をここに晒す!

民よ、見るがいい!

これが我らが憎むべき魔族の真の姿であるとな!」


 その宣言を合図に、民衆の狂気は頂点に達した。

「殺せ! 殺してしまえ!」


「石を投げつけろ!」


「魔族に死を!」


 最初に飛んできたのは腐った野菜だった。

それは少年の頬を、汚い汁を飛ばしながら掠めていった。

少年はびくりと体を震わせたが、それでも声は上げなかった。


 次に泥の塊が飛んできた。

そして小石が。

やがてそれは、容赦のない暴力の嵐へと変わっていった。


 少年はその小さな体で飛んでくる石やゴミから、必死に顔を庇おうとした。

しかし手足は枷で固定され、身動き一つ取れない。


 彼の額から一筋の赤い血が流れ落ちた。

それでも少年は抵抗しなかった。

ただ固く、固く目を閉じ、その痛みに耐え続けていた。


 そのあまりにも無抵抗な姿。

そのあまりにも一方的な暴力の光景。

エリックは観覧席の上で、その全てを瞬きもせず見つめていた。

彼の心の中で、これまで感じたことのない巨大な「違和感」が渦を巻き始めていた。


(……これが……『悪』の姿なのか……?)


 勇者育成学校で彼は、そう教えられてきた。

魔族とは残忍で狡猾で、人間を弄び殺すことを何とも思わない絶対的な悪の存在である、と。

彼がこれまで戦ってきた魔獣たちも確かにそうだった。

しかし、今目の前で民衆の憎悪の的となっているこの少年は、どうだ。


 彼はただ、そこにいるだけだった。

怯え、痛みに耐え、しかし決して屈しないという誇りをその小さな胸に秘めて、ただそこにいるだけだった。


 彼のどこに邪悪があるというのか。

彼のどこに残忍さがあるというのか。


(……違う……)

エリックの心の中で何かが、音を立てて軋み始めた。


(これは、違う……!)


 彼がこれまで信じてきた、「悪」と教えられた魔族のイメージ。

それと目の前で繰り広げられているこの悍ましい光景との間に、あまりにも大きく埋めようのない「隔たり」があった。


 むしろ邪悪なのは、どちらだ。

無抵抗な子供に集団で石を投げつけ、その苦しむ姿に歓声を上げるこの民衆たちか。

その狂気を自らの目的のために煽り、利用するあの国王か。

それとも、その全てを知りながら何もしない……いや、できない自分自身か。


 彼の心の中でかつて信じた「正義」が、根底から崩れ去っていく決定的な音がした。

これは正義ではない。

これはただの、集団による弱い者いじめだ。

これはただの、醜悪な人間の狂気の発露だ。


 エリックは拳を強く、強く握りしめた。

その爪が掌に食い込み、血が滲む。


(……俺は……こんなもののために……)


(こんな醜い世界を守るために、セレーネは死に、アルスは殺され、レオは……)


 彼の思考がそこまで至った、その時だった。

少年がついにその痛みに耐えきれなくなったのか、か細い、しかし広場中に響き渡るような悲痛な叫び声を上げた。


 それは憎しみの声ではなかった。

それはただ助けを求める、一人の子供の魂からの叫びだった。


 その声を聞いた瞬間、エリックの心の中の最後の何かが、ぷつりと音を立てて切れた。


 彼の隣に立つカインが、その微細な変化を見逃すはずはなかった。

カインの感情を映さないガラス玉のような瞳が、ほんの一瞬だけ鋭い光を放ったのを、エリックは気づかなかった。


 英雄の心は今、完全に壊れた。

そして、その壊れた心の破片の中から何かが生まれようとしていた。

それは復讐でも贖罪でもない、もっと根源的な、人間としての最後の「怒り」だったのかもしれない。


 広場では民衆の狂気がさらにエスカレートしていく。

少年の体はもはや泥と血にまみれ、その意識さえも朦朧としているように見えた。

エリックはその光景から、もう目を逸らすことができなかった。


 彼の瞳はただ一点、あの少年の苦悶に歪む顔だけを捉え続けていた。

そして、彼の記憶の最も深い場所で何かが蘇ろうとしていた。

かつての親友の面影が。

あの決して屈することのなかった、真っ直ぐな瞳の光が。


 運命の歯車は今、最後の回転を始めようとしていた。

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