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第160話:国王の残虐な命令

 国王の私室は地下牢の湿った冷気とは対照的に、暖炉の炎が燃え盛る乾いた熱気に満ちていた。

しかしエリックにとって、その熱気は地下牢の氷のような空気よりも遥かに息苦しく、そして魂を凍てつかせるものだった。


 彼の頭の中は、先ほど対面したあの少年の姿で満たされていた。

恐怖に怯えながらも、その奥に気高い光を宿した、あまりにも強く、そしてあまりにも脆い瞳。

あの瞳は彼がこれまで信じてきた「魔族=悪」という単純な方程式を、根底から揺さぶる危険な光を放っていた。


「どうじゃった、エリック。

あの忌まわしき魔族の末裔は」


 玉座に深く腰掛けた国王の声が、エリックを現実へと引き戻した。

その声には獲物を前にした獣のような、隠しようもない愉悦の色が滲んでいる。


 エリックは自らの心の動揺を、完璧な仮面の奥深くに押し殺した。

彼は深く、そして恭しくその場に膝をついた。


「……ただの子供にございます」

感情を完全に殺し、事実だけを平坦な声で報告する。


「ほう。子供、か」

国王は面白そうにその言葉を繰り返した。

まるで珍しい玩具を見つけたかのように。


「それでどうする? お主はこの国の次期国王。

あの『穢れた血』の処遇、お主自身に決めさせてやろう。

生かすも殺すも、お主の自由じゃ」


 それは究極の、そして最も残酷な忠誠心のテストだった。

エリックは一瞬、息を詰まらせた。

彼の脳裏に様々な選択肢が、目まぐるしく駆け巡る。


(生かす……?

だが、どうやって。

国王の監視の目があるこの状況で、俺に何ができる?)


(殺す……?

あの子供を?

あの、レオの面影を宿した無垢な子供を、この手で……?)


 どちらを選んでも、待っているのは絶望だけだ。

しかし、彼には与えられた役割を演じきるという、ただ一つの道しか残されていなかった。

友を蘇らせるという、唯一の目的のために。


 エリックは顔を上げた。

その表情は深い思慮と、次期国王としての冷徹な判断力を装っていた。


「……陛下」

彼の声は静かだった。


 しかし、その静けさの奥底で何かが決定的に変わろうとしていた。


「かの少年、まだ幼いながらもその瞳には強い意志の光が宿っておりました。

単なる魔族の残党とは思えませぬ。おそらくは、それなりの血筋の者かと」


 彼はあえて少年の価値を示唆した。

生かしておくことで、何らかの情報を引き出せるかもしれない、と。

それが、あの子供の命を少しでも長く繋ぎ止めるための、彼にできる唯一の、そしてあまりにもか弱い抵抗だった。


「尋問によってその出自、そしてまだ見ぬ魔族の残党の居場所を吐かせるべきかと存じます。

辺境の脅威を根絶やしにするための、貴重な情報源となるやもしれませぬ」


 それは完璧な答えのはずだった。

国王が掲げる「世界の秩序」に貢献し、後継者としての冷徹さを示す非の打ち所のない進言。

しかし、国王の反応はエリックの予想を遥かに、そして残酷に裏切った。


「ふん……」


 国王は鼻で笑った。

その瞳にはエリックの浅はかな抵抗を、完全に見透かしたかのような侮蔑の色が浮かんでいる。


「尋問、だと?

エリックよ、お主はまだ甘いのう」


 国王はゆっくりと玉座から立ち上がると、エリックの前にその威圧的な巨体を現した。


「あの小僧がどのような血筋であろうと、構わぬ。

奴がどれほどの情報を隠し持っていようと、もはやどうでもよいことじゃ」


 国王の瞳が、ぎらりと狂信的な光を放った。


「重要なのはただ一つ。

あの小僧が『魔族』であるという、ただその一点のみよ」


 その声はもはや王の威厳ではなく、ただの剥き出しの憎悪に満ちていた。


「陛下……?」


「エリックよ、お主はまだ本当の王の道を理解しておらぬようじゃな」


 国王はエリックの肩を、まるで子供を諭すかのように、しかしその指先には骨が軋むほどの力を込めて掴んだ。


「民衆とは愚かで、そして忘れやすい生き物よ。

お主が魔王を討伐してから早十年。

長き平和は奴らの心から、魔族への恐怖と憎しみを少しずつ風化させておる。

それは我らが築き上げた秩序にとって、最も危険な『病』じゃ」


 国王の言葉は、エリックの背筋を凍らせた。

彼はこれから国王が何を言おうとしているのかを、予感してしまったのだ。


「故に我らは、奴らに思い出させてやらねばならん。

魔族がいかに残忍で、邪悪で、そして我ら人間とは決して相容れぬ忌まわしき存在であるかをな」


 国王はエリックの耳元に、その悪魔の計画を愉悦に満ちた声で囁いた。


「あの小僧を、殺す」


 その言葉はエリックの心臓に、冷たい杭を打ち込んだ。


「だが、ただ殺すのではない。それでは芸がない」

国王は残酷に、その口元を歪めた。


「あの小僧を王都の広場に引きずり出し、民衆の目の前でいたぶるのじゃ」


「なっ……!?」

エリックは思わず声を上げた。


 彼の完璧な仮面が初めて、そして決定的にひび割れた瞬間だった。

「何を仰せに……。

相手はまだ子供にございますぞ……!」


「子供だから良いのじゃ」

国王はエリックの動揺を、心底楽しむかのように続けた。


「民衆はか弱き子供が苦しむ姿に、より強く心を揺さぶられる。

その子供が『魔族』であれば、その苦しみは奴らにとって最高の見世物となるであろう。

恐怖と、そして歪んだ正義感に満ちた、な」


 それはもはや為政者の思考ではなかった。

ただ、自らの目的のためにはどんな非道な手段も厭わない、狂気の独裁者の論理だった。


「あの小僧を数日間にわたって、広場の晒し台に繋いでおけ。

石を投げるもよし、罵声を浴びせるもよし。

民衆にその鬱積した憎悪を、存分に吐き出させてやるのじゃ」


「そして……」

国王の瞳が狂気の炎で、爛々と輝いた。


「奴らが魔族への憎しみを再びその骨の髄まで思い出した、その最高潮の瞬間に……」


「お主が、英雄であるお主自身の手で、あの小僧の首を刎ねるのじゃ」


「……っ!!!!」


エリックは言葉を失った。

全身の血が音を立てて凍りついていくような感覚。

国王の命令は彼の想像を、そして人間としての倫理観を遥かに超えていた。


 それはただの処刑ではない。

一人の子供の命を民衆の憎悪を煽るための、最も残虐な「生贄」として捧げろという悪魔の命令だった。


(……これが……。

これが、俺が守ると決めた世界の『秩序』の正体なのか……)


 彼の心の中で何かが、音を立てて完全に砕け散った。

あの初夏の日、彼が民衆の笑顔を守るために飲み込んだ、あの苦渋の決断。

その全てが今この瞬間に、あまりにも醜悪で無価値なものへと成り果てた。


「どうした、エリック。顔色が悪いぞ」

国王が芝居がかった、心配そうな声で言った。


「まさかあの魔族の小僧に情でも湧いたか?

それとも王としての最初の『決断』に、怖じ気づいたか?」


 その言葉はエリックの魂に、最後の、そして最も深い侮辱の烙印を押した。


(……嫌悪……)


 彼の心を満たしたのはもはや怒りでも、悲しみでもなかった。

ただ、底なしの、どうしようもないほどの言いようのない「嫌悪感」。


 目の前の、王の皮を被ったこの醜悪な怪物に対する。

そして、この怪物が支配する偽りの世界そのものに対する。

さらに、この怪物の駒として十年もの間踊り続けてきた、自分自身に対する。


 しかし、彼はその燃え盛る嫌悪感を心の最も深い場所へと、再び押し殺した。

今、ここで反逆すれば全てが終わる。

友を蘇らせるという唯一の希望も。

そして、あの地下牢にいる無垢な少年の命も。


 エリックはゆっくりと、本当にゆっくりとその顔を上げた。

彼の顔にはもはや何の表情も浮かんでいなかった。

ただ全てを諦め、全てを受け入れたかのような完全な「無」だけがそこにあった。


「……御意の、ままに」


 その声はもはや彼自身の声ではない、どこか遠い場所から響いてくる無機質な音のように、彼自身の耳に届いた。

その返答に国王は心底満足したかのように、深く、そして醜悪にその口元を歪ませた。

英雄エリックはついに魂さえも失った、完璧な「人形」となったのだと彼は確信した。


 エリックはよろめくようにその場に立ち上がった。

そして一度も振り返ることなく、国王の私室を後にする。


 王宮の、長い、長い廊下。

彼の足取りはまるで死刑台へと向かう罪人のように、重かった。

彼の心の中でかつて信じた「正義」は、完全に、そして跡形もなく崩壊した。

その焼け野原に残されたのは、ただあの少年の、あまりにも強く、そしてあまりにも気高い瞳の光だけだった。


(……俺は……。

一体、どうすれば……)


 答えのない問いが彼の魂を、永遠に続くかのような深い、深い闇の中へと引きずり込んでいった。

そして、その闇の先で彼を待ち受けているのは、王都の広場に響き渡るであろう罪なき子供への狂気の罵声と、自らが振り下ろさねばならぬ断罪の刃だった。

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