第159話:運命の邂逅
国王歴1027年1月。
王都は十年という歳月の中でも、ひときわ厳しい冬の支配下にあった。
空は重い鉛色の雲に覆われ、凍てついた風が王宮の尖塔を泣き声のように吹き抜けていく。
英雄エリックが、自らの運命を決定づける残酷な罠の存在を知る由もなく、水面下で孤独な探求を始めてから十年という長い、長い歳月が流れていた。
エリックは広大な自室の書斎で、山のように積まれた古文書の海に沈んでいた。
彼の傍らには常にカインの冷たい視線があった。
しかし、もはやその視線はエリックの心を乱すことはなかった。
彼はその監視さえも自らの孤独な探求の一部として、完全に受け入れていた。
彼の目的はただ一つ。
失われた友たちを、この手で蘇らせる。
そのために彼は国王たちさえも欺き、利用し尽くす覚悟を決めていた。
コン、コン。
控えめなノックの音が、書斎の静寂を破った。
「失礼いたします、エリック様」
入ってきたのはカインだった。
その顔はいつものように、何の感情も映さない能面のようだ。
「陛下がお呼びでございます。
先日捕らえられました重要捕虜の件で、エリック様に直接お任せしたい儀がある、とのこと」
「……捕虜、だと?」
エリックは古文書から顔を上げた。
その瞳には微かな訝しげな色が浮かぶ。
辺境の魔族の残党狩りは騎士団の仕事だ。
一介の捕虜の処遇を、なぜ自分が。
(……試されているのか)
彼は瞬時に国王の意図を察した。
これはテストだ。
あの「引継ぎの儀」以来、自分が本当に彼らの冷酷な秩序を受け入れたのかどうかを試すための。
エリックの心の中を、一瞬冷たい風が吹き抜けた。
しかし、彼の顔には完璧なまでの穏やかな表情が浮かんでいた。
「分かった。すぐに向かおう」
彼は何事もなかったかのように立ち上がると、カインの後について書斎を後にした。
彼が導かれたのは玉座の間ではなかった。
王宮の地下深く。
冷たく湿った空気が漂う、薄暗い地下牢への長い、長い石の階段だった。
(一体何を捕らえたというのだ……。
よほどの大物か? 魔王の親衛隊の生き残りか……。
あるいは俺が知らない新たな魔族の指導者か……)
エリックはこれから対面するであろう相手の姿を、様々に想像した。
そして自らの心を鋼のように硬く武装する。
どんな残忍な魔族であろうと動じてはならない。
同情も憐れみも一切見せてはならない。
冷徹に、そして効率的に国王の望む「駒」としての役割を完璧に演じきるのだ。
友を蘇らせるという、唯一の目的のために。
地下牢の最も奥。
重々しい鉄格子の扉の前でカインは足を止めた。
松明の光がその先の暗闇を、揺らめくように照らし出している。
「……この中に」
カインが感情のない声で言った。
エリックは無言で頷くと衛兵に扉を開かせ、一人その冷たい石の独房へと足を踏み入れた。
鼻をつくのは湿った土と、そしてかすかな恐怖の匂い。
松明の光が独房の奥の壁を照らし出した、その瞬間。
エリックは息を呑んだ。
そこにいたのは彼が想像していたような、屈強な魔族の戦士ではなかった。
ましてや異形の怪物などでは、断じてなかった。
独房の隅。
冷たい石の床の上にただ一人、小さな影がうずくまっていた。
それはまだ十歳にも満たないであろう、一人の「少年」だった。
手足にはその小さな体にはあまりにも不釣り合いな、重く錆びついた鉄の枷がはめられ、壁に繋がれている。
着ているものは旅の途中で汚れたのか、ところどころが擦り切れ泥にまみれていた。
黒い髪は乱れ、その顔は恐怖と長旅の疲労で青白くやつれている。
少年はエリックの足音に気づくと、びくりと、その小さな体を震わせた。
そしてゆっくりと顔を上げる。
その瞳。
エリックはその瞳を見た瞬間、まるで心臓を冷たい手で鷲掴みにされたかのような強烈な衝撃に襲われた。
その瞳は見慣れない人間の牢獄と、目の前に立つ威圧的な男の姿に確かに怯えていた。
しかし、その恐怖の奥底で決して消えることのない気高い光が、燃えるように宿っていたのだ。
それは決して屈しないという、誇り。
自らの存在を決して卑下しないという、強い意志。
そしてこの理不尽な状況に対する、声なき、しかし絶対的な反抗の光。
エリックはその瞳に見覚えがあった。
いや、違う。
その瞳に宿る光の「質」に、彼は見覚えがあったのだ。
(この……瞳は……)
彼の脳裏に二人の失われた友の顔が、鮮明に、そして無慈悲にフラッシュバックした。
一人は魔王城で、裏切り者として自分に刃を向けられながらも、その瞳から決して真っ直ぐな光を失わなかった、親友。
(……まさか……)
その、ありえないはずの思考が彼の脳裏を稲妻のように駆け巡った。
エリックは激しく頭を振って、その危険な幻想をかき消した。
そんなはずはない。
レオは自分のせいで、あの魔王城で死んだはずだ。
そしてこの少年は、国王が言った通りただの「魔族の末裔」に過ぎない。
彼は自らの動揺を完璧な仮面の下に隠した。
そして冷徹な後継者候補として、その少年に静かに問いかけた。
「……名は、何という」
その声は自分自身でも驚くほど、冷たく平坦に響いた。
少年はその問いに答えなかった。
ただ、その誇り高い瞳でエリックを真っ直ぐに、そして強く睨み返すだけだった。
その唇は固く結ばれ、たとえ拷問にかけられようとも決して屈しないという、幼い戦士の覚悟を示していた。
その沈黙の抵抗がエリックの心を、さらに深く揺さぶった。
彼はこの少年から目が離せなかった。
この子供は、一体何者なのだ。
なぜ、これほどまでに自分の魂をかき乱すのか。
エリックはその場に立ち尽くしたまま、ただその小さな囚人を見つめ続けることしかできなかった。
彼の完璧な仮面の下で、十年という歳月をかけて凍らせてきたはずの感情が、予期せぬ邂逅によって激しく、そして痛ましいほどに融解し始めていることに、まだ彼自身は気づいていなかった。
しばらくして、彼は静かにその場に背を向けた。
鉄格子の扉が再び、重い音を立てて閉ざされる。
独房の中には再び、少年一人の孤独な闇が戻ってきた。
しかし、その闇の中で少年の瞳の光は少しもその輝きを失ってはいなかった。
エリックは地下牢の冷たい空気を振り払うように、足早に地上へと戻った。
彼の頭の中はあの少年の、あまりにも強い瞳の光で満たされていた。
(あれは……ただの子供ではない……)
彼が国王の私室へと戻ると、国王は全てを見透かしたような不気味な笑みを浮かべて彼を待っていた。
「どうじゃった、エリック。
あの忌まわしき魔族の末裔は」
その声には愉悦の色が、隠しようもなく滲んでいた。
「……ただの子供にございます」
エリックは感情を殺し、事実だけを報告した。
「ほう。子供、か」
国王は面白そうにその言葉を繰り返した。
「それでどうする?
お主はこの国の次期国王。
あの『穢れた血』の処遇、お主自身に決めさせてやろう。
生かすも殺すも、お主の自由じゃ」
それは究極の、そして最も残酷な忠誠心のテストだった。
エリックは一瞬、息を詰まらせた。
しかし、彼の返答は決まっていた。
彼は国王が望む完璧な答えを、その唇に乗せる。
「……陛下」
彼の声は静かだった。
しかし、その静けさの奥底で何かが決定的に変わろうとしていた。