第158話:迫る危機
国王歴1026年12月。
王都は深い雪に覆われ、世界は白銀の静寂に包まれていた。
あの日、エリックが失われた友たちを蘇らせるという狂気にも似た「贖罪」の道を歩み始めてから、十年近くというあまりにも長い歳月が流れていた。
その歳月は英雄エリックを、完璧な「次期国王候補」へと変貌させていた。
彼は今や三十代半ばを過ぎ、その顔には若き日の青さはなく、代わりに深い思慮と英雄としての揺るぎない威厳が刻まれている。
彼の振るう剣はもはや芸術の域に達し、その頭脳は五大陸の政治情勢を的確に読み解き、国王でさえも一目置くほどの鋭さを見せていた。
しかし、その完璧な仮面の下で彼の孤独な探求は、一日たりとも休むことなく執拗に続けられていた。
夜ごと繰り返される禁書庫への潜入。
昼間の政務の裏で進められる膨大な古文書の解読。
彼の知識は深まり、世界の真実の輪郭は徐々に見え始めていた。
しかし、最も重要な「魂の復活」に関する決定的な手がかりだけは、まるで分厚い霧の向こうにあるかのように掴むことができずにいた。
その焦りが彼の完璧なまでの偽装に、ほんのわずかな、しかし致命的な「隙」を生み出し始めていた。
そして、その隙を影のように彼に付き従う、もう一つの瞳が見逃すはずはなかった。
監視役カイン。
彼もまたこの十年という歳月を、ただエリックの補佐官として過ごしていたわけではない。
彼はエリックという巨大で複雑な謎を解き明かすためだけに、その全ての知性と感覚を研ぎ澄ませてきたのだ。
その日、王宮の書斎は暖炉の炎が静かに揺れるだけで、重い沈黙に支配されていた。
エリックはカインが持ってきた政務報告書に目を通しながら、その合間に巧妙に隠し持った古代魔術に関する研究日誌の写しを、記憶に刻み込もうとしていた。
「……エリック様」
不意にカインが、感情のこもらない声で口を開いた。
「何だ?」
エリックは書物から目を離さずに答えた。
「先日、エリック様が閲覧を希望された、百五十年前に編纂された『南部密林の生態系に関する考察』でございますが」
カインは淡々と続けた。
「その第七章三十三節。末尾のインクの染みが、王宮の公式記録にある原本のそれと、コンマ一ミリほどずれているのにお気づきでしたか?」
その言葉を聞いた瞬間、エリックの心臓が大きく、そして冷たく跳ねた。
全身の血が逆流するような感覚。
彼はその書物を禁書庫から持ち出し、密かに写し取った後、完璧に元に戻したはずだった。
インクの染み一つ、ページの折り目一つに至るまで、寸分違わぬように。
(……まさか……)
「おそらくはエリック様が写本される際、ご自身の呼気によって羊皮紙がほんのわずかに伸縮したのでしょう。取るに足らない些細なことでございます」
カインの言葉はどこまでも丁寧だった。
しかし、その言葉の裏には鋭い刃のような響きがあった。
『私は気づいている』と。
『お前の秘密の全てを、私は知っている』と。
エリックはゆっくりと顔を上げた。
目の前に立つカインの瞳は、いつものように何の感情も映さないガラス玉のようだった。
しかし、その奥で獲物を追い詰めた狩人のような冷たい光が揺らめいているのを、エリックは見逃さなかった。
(……気づかれたか)
その確信はエリックに、激しい焦りをもたらした。
もう時間がない。
友を蘇らせるという唯一の目的を達成する前に、自分は国王たちによって「処理」されるかもしれない。
彼の周囲にはカインという名の、目に見えない、しかし確実な危険がじりじりとその包囲網を狭めてきていた。
その日から、カインの監視はもはや隠微なものではなくなった。
それは明確な「圧迫」へとその姿を変えた。
エリックが書斎で古代の文献を開いていると、カインは音もなくその背後に立ち、静かに、しかし有無を言わさぬ口調で告げる。
「エリック様。そのような現実離れした古い伝承に時間を割くよりも、来たるべき五大陸会議に向けて現実的な国土防衛計画にご注力いただくことこそ、陛下はお喜びになるかと存じます」
夜、エリックがわずかな時間を見つけて一人で思索に耽ろうとすると、カインは「偶然」を装って彼の私室を訪れた。
「エリック様、このような夜更けに失礼いたします。陛下より緊急の伝言が……」
その用件は常に、エリックの思考を中断させるための巧妙な口実だった。
彼はもはや檻の中の獣だった。
その一挙手一投足は冷徹な飼育員によって完全に管理され、コントロールされている。
自由は急速に失われつつあった。
しかし、エリックが知らないところで、彼の運命をさらに絶望的な淵へと突き落とす、もう一つの、そしてより巨大な歯車が静かに回り始めていた。
時を同じくして。
王都から遠く離れた、エルトリアの森の奥深く。
レオとリリスが築いた平和な隠れ里に、その影は音もなく忍び寄っていた。
国王から「魔王の息子の捕縛」という新たな密命を受けたカインは、自らの手足となる最も優秀な部下の密偵を、その地へと送り込んでいたのだ。
密偵は巧みな幻術で傷ついた小鹿に化け、レオとリリスの息子リオの優しさに付け込んだ。
八歳となったリオは父と母から受け継いだ誇りと、そして全ての生命を慈しむ純粋な心を持っていた。
彼は傷ついた小鹿を助けようと、何の疑いもなくその小さな手を伸ばした。
それが彼の運命を決定づけた。
密偵は油断したリオを、一瞬の隙を突いて捕縛した。
リオを守っていた妖精リルもまた、異星人の技術が込められた黒いエーテル結晶の力によって、その存在をかき消されてしまう。
「リル!」
リオの悲痛な叫びは誰にも届くことなく、森の静寂の中へと消えていった。
密偵はぐったりとしたリオの体を担ぎ上げると、再び影の中へと溶けるようにその場から完全に姿を消した。
泉のほとりにはリオが落とした小さな木の枝だけが、これから始まるあまりにも大きな悲劇を静かに見つめていた。
数日後。
雪が深く降り積もる王都。
アースガルド国王の私室に、密命を完了したカインが静かに帰還した。
彼の背後には小さな麻袋に入れられ、意識を失ったままの一人の少年がいた。
カインは国王の前に進み出ると、深くその場に膝をついた。
「陛下。
ご命令の品、確かに持ち帰りました」
カインは麻袋をまるで荷物のように、冷たい床の上に置いた。
国王は玉座から立ち上がると、興味深そうにその麻袋に近づいた。
そして、その口を解くと中から現れた黒髪の少年の顔を、冷たい瞳で見下ろした。
その顔には確かに、かつて自分たちが裏切った旧世界の王の娘、リリスの面影があった。
「……ふん。
これがあのレオの息子か。
魔族と人間の忌まわしき混血よな」
国王は侮蔑するように吐き捨てた。
そして、その視線はカインへと向けられた。
「して、エリックの件はどうじゃ。
奴はまだ尻尾を出さぬか」
カインは無表情のまま最終報告を口にした。
「もはや疑いの余地はございません、陛下」
彼の声は断罪の宣告のように冷たく響いた。
「エリック様はもはや我らの『駒』ではございません。
彼は自らの意志で『魂の復活』という、我らが秩序の根幹を揺るがしかねない禁忌の真実を探求しております。
放置すれば必ずや、我らの計画にとって最大の障害となりましょう」
その報告に国王は満足そうに、そして残酷にその口元を歪めた。
「……面白い」
国王は足元で眠るリオの姿と、脳裏に浮かぶエリックの顔を交互に見比べた。
そして最も狡猾で、最も悪魔的な「一手」を思いついた。
(エリックよ、お主の忠誠心、そしてお主が手に入れたあの冷徹な覚悟。
それが本物であるか、試してやろうではないか)
国王はカインに向かって、静かに、しかし絶対的な命令を下した。
「カインよ、その小僧を地下牢へと繋いでおけ。
目覚めたら最低限の水と食料は与えよ。
死なれてはつまらぬからな」
「はっ」
「そして……」
国王の瞳が愉悦に満ちた、不気味な光を放った。
「エリックをここへ呼べ」
「この哀れな『魔族の末裔』の処遇、我らが忠実なる後継者候補に、自らの手で決めさせてやろうではないか」
国王はエリックの忠誠心を試すと同時に、彼を完全に絶望させ自らの意のままに動く真の「人形」へと作り変えるための、最後の、そして最も残酷な罠を仕掛けた。
その罠がエリックと、そしてレオの運命を再び、そして決定的に交錯させることになるということを、まだ誰も知らなかった。
英雄の周囲に張り巡らされた目に見えない危機。
そして王都に持ち込まれた新たな悲劇の種。
二つの運命は今、国王の冷酷な意志によって一つの絶望的な舞台の上で、再び邂逅しようとしていた。