第156話:過去の追憶
王都は夏の太陽が大地を焦がすほどの、猛烈な熱気に包まれていた。
街路樹の葉は濃い緑の影を落とし、人々は日差しを避けるように足早に行き交っている。
しかし、王宮の奥深く、英雄エリックの私室は外界の熱気とは裏腹に、冬のように冷たい静寂に支配されていた。
彼が、あの冬の夜、暖炉の炎の中に友たちの幻影を見てから半年という歳月が過ぎていた。
その間も彼の日常に変わりはなかった。
監視役カインの影のように付きまとう視線の中で、彼は完璧な「後継者候補」を演じ続ける。
しかし、彼の内面ではもはや誰にも止められない巨大な地殻変動が起こっていた。
夜ごと繰り返される過去の追憶は、もはや単なる痛みを伴う幻影ではなかった。
それは彼がこれまで必死に目を背けてきた「真実」の欠片を拾い集め、偽りの歴史という名の巨大なパズルを解き明かすための、孤独な「再検証」の時間となっていた。
そして、その再検証の中心にいたのは常に、裏切り者として憎んできたはずのかつての親友、レオの姿だった。
(なぜなんだ、レオ……。
なぜ、あんなにも優しかったお前が……)
あの冬の夜以来、その問いは彼の魂に深く、そして執拗に突き刺さり続けていた。
憎しみという単純で強力な感情の楔は、温かい記憶の奔流によってもはやその効力を失っていた。
代わりに彼の心を支配し始めていたのは、レオという人間の行動に対する深い「疑問」と、そして親友として彼の苦悩に気づけなかった自分自身への耐えがたいほどの「後悔」だった。
エリックはこれまでの旅の記憶を、まるで古文書を解読するかのように一つ一つ丹念に検証し直していった。
すると、これまで見過ごしてきた、あるいは憎しみというフィルター越しに意図的に無視してきたレオの微細な変化が、次々と浮かび上がってきたのだ。
特に彼の記憶に鮮明に蘇ってきたのは、レオが一度魔王軍に捕らえられ、そして奇跡的に生還してからの、あの数ヶ月間のことだった。
(あの時……
あいつは、確かに変わった……)
生還を喜んだのも束の間、パーティーに戻ったレオの言動には常にどこか影が付きまとっていた。
魔族との戦闘において、彼の剣筋には明らかな「躊躇」が見られた。
かつては敵の急所を寸分の狂いもなく突いていたはずの剣が、まるで何かを確かめるかのようにわずかに軌道を逸らすことが増えた。
あの時、自分やセレーネはその変化を「魔族に捕らえられていた恐怖の後遺症」だと、あるいは「魔族に誑かされた精神的な弱さの表れ」だと断じて疑わなかった。
彼の態度の変化を裏切りへの布石だと感じ、自分はレオへの不信感を日に日に募らせていったのだ。
(あいつは、あの時、魔王城で『何か』を知ったんだ……)
その思考は稲妻のように、エリックの脳天を貫いた。
(俺たちよりも、ずっと先に……。
この世界の何かがおかしいということに。
俺たちが信じる『正義』が、どこか歪んでいるということに……)
そうだ。
魔王城へ向かうあの最後の旅路。
レオは日に日に口数が少なくなっていった。
仲間との会話の輪から外れ、一人遠い空を見つめ、深く思い悩むことが増えた。
あの時、彼は一体何に苦悩していたのか。
自分はただ、彼のその変化を「裏切り者の兆候」だと、あまりにも安直に、そして無神経に断じてしまってはいなかったか。
(あいつは……
一人で戦っていたんだ……)
エリックは愕然とした。
レオは一人で、この世界の巨大な嘘と、そして偽りの正義を信じ込む仲間たちとの間で壮絶な葛藤を繰り広げていたのだ。
(なぜ……
なぜ、相談してくれなかったんだ……)
その、これまで何度も繰り返してきた恨み言にも似た問いが、今、全く異なる痛切な答えとなって彼自身に返ってきた。
(……相談など、できるはずがなかったんだ……)
エリックは今の自分自身の姿を、あの頃のレオに重ねていた。
国王たちから世界の真実を告げられ、監視の目に晒され、誰にも一言もその本心を打ち明けることができずにいる、今の自分。
心を許せる相手が、この世界のどこにもいないという絶対的な孤独。
(あの時のレオも、同じだったのかもしれない……)
(いや……
あいつは俺よりも、もっと……
もっと孤独だったはずだ)
そうだ。
あの時の自分たちは、国王たちが創り上げた偽りの歴史を一点の曇りもなく信じ込んでいた。
勇者育成学校で教え込まれた「魔族=悪」という単純明快な正義の物語を、自らの存在意義そのものとしていた。
もし、あの時レオが自分たちに真実を語っていたら?
『魔族が必ずしも悪ではないのかもしれない』
『俺たちが信じている歴史はどこかおかしい』
そんな言葉を、自分たちは果たして受け入れることができただろうか。
(……できない)
エリックは唇を噛み締めた。
(俺たちはきっと、あいつを『魔族に誑かされた裏切り者』として断罪していただろう。
セレーネも、アルスでさえも……。
いや、俺が誰よりも先に、あいつに剣を向けていたかもしれない……)
レオはそれを分かっていたのだ。
だからこそ彼は誰にも相談できなかった。
愛する仲間たちにさえ、その苦悩を打ち明けることができなかった。
なぜなら、その仲間たち自身が偽りの正義に深く染まった、救いようのない「洗脳された人間」だったからだ。
彼はたった一人で、全ての苦悩を、全ての真実をその背中に背負い込んだのだ。
その痛切な理解はエリックの心に、これまで感じたことのないほど深く鋭い後悔の刃となって突き刺さった。
(俺は……
親友の、たった一人の親友のその魂の叫びに、全く気づいてやることができなかった……!)
(それどころか俺は……
あいつを裏切り者だと罵り、憎み、そして……)
彼の思考は、あの運命の魔王城の玉座の間へと行き着いた。
セレーネが倒れ、自分が怒りに任せて、もはや抵抗する力も残っていなかった魔王を滅多打ちにした、あの光景。
そして、その後の自分の行動。
「お前が!
お前が殺したんだ、レオ!
この裏切り者!」
自分はそう叫び、セレーネの亡骸を抱き、魔王の間に背を向けた。
憎悪と絶望に我を忘れ、ただその場から逃げ出した。
(あの時、玉座の間には瀕死の魔王の親衛隊たちがまだ残っていた……)
その事実に思い至った瞬間、エリックの全身から血の気が引いた。
(彼らは王を殺されたと信じ込み、その怒りで我を忘れていたはずだ。
そんな怒り狂う魔族たちが取り囲む只中に……
俺は……)
(レオを、たった一人で置き去りにしてきたんだ……)
その気づきはエリックに、死そのものよりも恐ろしい戦慄をもたらした。
(あいつは……
もう、この世にはいない……)
(俺が……
俺があの場にあいつを置き去りにしてきたから……。
魔族たちに殺されたんだ……)
レオはどこかで生きている裏切り者ではなかった。
自分が間接的に、この手で殺してしまった親友だったのだ。
その悍ましい真実が、彼の心を完全に打ち砕いた。
憎しみは完全に消え去っていた。
代わりに彼の魂を支配したのは、どうしようもないほどのレオへの深い、深い「申し訳なさ」と、自らが犯した取り返しのつかない過ちへの底なしの「罪悪感」だった。
(……謝りたい)
その思いは彼の心の奥底から、血を吐くような痛切な叫びとなって溢れ出してきた。
(もう一度……
もう一度だけ、あいつに会って謝りたい)
(お前の苦しみに気づいてやれなくて、すまなかった、と)
(お前をたった一人で苦しませてしまって、本当に、すまなかった、と)
(そしてお前を裏切り者だと罵り、憎み、挙句の果てに死地へと置き去りにしてしまったことを、心の底から謝りたい……!)
しかし、その願いが叶うことはない。
自分が、殺してしまったのだから。
そのあまりにも残酷な現実に、彼は再び深い絶望の淵へと突き落とされた。
彼の魂は、もはや出口のない迷宮を永遠に彷徨い続けるしかないのか。
その、絶望の闇の中で。
ふと、彼の脳裏に一つのあまりにも大胆で、そして狂気にも似た光が差し込んだ。
(……ならば……)
(全てを、元に戻せばいい……)
国王たちが、あの「引継-継ぎの儀」で悪魔のように囁いた言葉。
『セレーネ……。我らの力をもってすれば、それすらも覆せるやもしれんぞ?』
あの自分を縛り付けるための甘美な毒。
それが今、彼の心の中で全く異なる意味を持つ、唯一無二の「希望の光」へとその姿を変えたのだ。
(そうだ……。
セレーネだけじゃない。
アルスもだ……。
そして……)
彼の瞳に、狂気にも似た、しかし決して消えることのない強靭な決意の炎が灯った。
(レオ……
お前もだ)
(俺が、俺自身の手で、お前たちをこの世界に蘇らせる)
(そして、もう一度……。
もう一度だけ、あの頃のように……)
いや、違う。
(今度こそ、偽りのない真実の仲間として、全てをやり直すんだ……!)
その瞬間、彼の行動原理は完全に変質した。
国王たちへの個人的な「復讐」でもない。
偽りの世界を守るという歪んだ「責務」でもない。
それは失われた三人の友を、その全てを蘇らせ、自らが犯したあまりにも重い罪を償うという、個人的で、しかし何よりも強靭な「贖罪」への意志だった。
英雄エリックの心は完全に壊れたのかもしれない。
しかし、その壊れた心の破片の中から、彼は自らが進むべきただ一つの道を見つけ出したのだ。
彼は監視役カインのあの冷たい視線を、もはや苦痛とは感じなかった。
むしろ、その視線を欺き、この王宮の奥深くに隠された世界の真実……すなわち「復活の方法」の鍵を握るであろう「空白の10年間」と、その裏にいる「調停者」の謎を解き明かすための、新たな闘志を燃やしていた。
彼の瞳からこれまでの虚無の色は完全に消え去っていた。
代わりにそこに宿っていたのは、静かで、しかし決して揺らぐことのない執念にも似た探求の炎だった。
英雄エリックの孤独な戦いは今、新たな、そして最も困難な目的へとその舵を切った。
失われた友との再会を、ただひたすらに信じて。
彼はこれから、底なしの闇の中をただ一人、歩き始める。