第155話:王宮での孤独
王都は一年で最も深く、そして静かな雪に覆われていた。
世界から全ての音が吸い取られたかのような静寂の中、王宮の尖塔はまるで天を突く氷の墓標のように、冷たく荘厳にそびえ立っている。
英雄エリックが自らが立つ世界の真実を知り、そして偽りの秩序を守るという苦渋の決断を下してから、一年半という歳月が過ぎ去った。
国王たちが彼の「処遇」について密かに話し合ったことなど知る由もなく、彼は監視役カインの影のように付きまとう息苦しい視線の中で、完璧な「後継者候補」を演じ続けていた。
その演技はもはや神業の域に達していた。
彼の心は厚い氷の壁の奥深くに封じ込められ、その表情からはもはや誰も、一片の感情さえも読み取ることはできなかった。
しかし、その完璧な仮面の下で彼の魂は、これまで経験したことのない絶対的な孤独によって静かに、そして確実に蝕まれ続けていた。
夜。
広大で、しかし人の温もりが一切感じられない彼の私室。
燃え盛る暖炉の炎だけが、豪華な調度品に揺らめく影を落としている。
エリックは窓の外でしんしんと降り積もる雪を、虚ろな瞳で見つめていた。
(……寒い)
部屋の中は暖炉の熱で十分に暖かいはずだった。
しかし、彼の心の芯は凍てついたままだった。
レオは憎むべき裏切り者だ。
彼はそう自分に言い聞かせ続けてきた。
その憎しみだけが、かつて彼を正気の淵に繋ぎとめていた最後の楔だった。
しかし、真実を知ってしまった今、その憎しみさえもかつての純粋な熱を失い、ただ冷たく空虚な義務感へと変質していた。
セレーネは、もういない。
彼女の復活という国王が囁いた甘美な誘惑も、今では彼を縛り付ける巧妙な欺瞞の鎖にしか思えなかった。
そして、アルス。
彼の死の真相を知った今、その名を思うだけでエリックの胸には、国王たちへの音もなく燃え盛る氷のような怒りが込み上げてくる。
憎むべき相手はすぐそこにいる。
しかし、彼はその憎しみを誰にも打ち明けることができない。
真実を語れば、民衆が信じてきた偽りの平和は崩壊し、世界は混沌に陥るだろう。
彼は自らが最も憎むべき者たちに仕えながら、彼らが創り上げた偽りの世界を自らの手で守り続けなければならないという、究極の矛盾の中に生きていた。
心の内を打ち明けられる相手が、どこにもいない。
この世界でただ一人、真実の重圧に押し潰されそうになりながら、彼は英雄という名の最も孤独な囚人として日々を過ごしていた。
その深い絶望が、彼を過去へと誘う。
暖炉の揺らめく炎の中に、彼は失われた日々の温かい幻影を見た。
それはもはや悪夢ではない。
あまりにも眩しく、そしてあまりにも痛ましい、かつての仲間たちとのかけがえのない記憶の断片だった。
(……アルス……)
炎の中に、穏やかな笑みを浮かべる賢者の姿が浮かび上がる。
あれは魔王討伐の旅のまだ中盤。
彼らが、古代文明の遺跡が眠るとされる「忘却の谷」を訪れた時のことだった。
谷の奥深くには崩れかけた神殿があり、その壁には誰も解読できない古代の文字がびっしりと刻まれていた。
「危険だ、アルス。何が潜んでいるか分からない」
エリックがそう言って止めるのも聞かず、アルスはまるで何かに引き寄せられるかのように、一人でその神殿の奥深くへと入っていった。
数時間後、仲間たちが心配し始めた頃、アルスは何事もなかったかのように、しかしその瞳を知的な興奮で輝かせながら神殿から戻ってきた。
その手には古びた石板のかけらが握られていた。
「見てくれ、エリック。この紋様……おそらくは失われた回復魔法の術式の一部だ。
これを解読できれば、もっと多くの人々を救えるかもしれない」
彼の顔は埃と煤で汚れていたが、その笑顔は純粋な探求心と、誰かを救いたいという優しい願いに満ちていた。
その夜、パーティーの一人が魔獣との戦いで深い傷を負った。
アルスの回復魔法でも完全には癒せないほどの重傷だった。
誰もが諦めかけたその時、アルスはあの日持ち帰った石板の紋様を思い出しながら、新たな術式を試みた。
「……知識は時に、剣よりも強い力となる。
それは誰かを傷つけるためではなく、誰かを守るための力にもなるんだよ、エリック」
そう言って微笑んだ彼の指先から、これまで見たこともない温かく力強い光が放たれ、仲間の傷は奇跡のように癒えていった。
(お前のその優しさが……お前のその探求心が……奴らにとっては邪魔だったというのか……)
エリックの胸に鈍い痛みが走った。
炎は再びその姿を変え、今度はセレーネの少し拗ねたような横顔を映し出した。
あれは東部平原の小さな村で、収穫を祝う祭りに参加した夜のことだった。
村人たちは陽気な音楽に合わせて、広場で輪になって踊っていた。
エリックやレオはすぐにその輪に加わったが、セレーネだけは普段の強気な態度とは裏腹に人混みが苦手なのか、輪から少し離れた場所で腕を組んだまま一人佇んでいた。
「どうしたんだ、セレーネ。
踊らないのか?」
エリックが声をかけると、彼女ははっとしたように顔を上げ、慌ててそっぽを向いた。
「べ、別に……!
踊りなんて野蛮なもの、興味ないわよ!
それに……あんたたちがちゃんとサボらずにいるか、見張っててあげてるだけよ!」
その強がりがエリックにはどこか微笑ましく思えた。
彼が半ば強引に彼女の手を取り、踊りの輪の中へと引き入れる。
「うわっ、ちょっと、何するのよ!」
セレーネは最初は抵抗していたが、村人たちの温かい手拍子とエリックのリードに、次第にその表情を和らげていった。
魔法を操る時のあの精密で優雅な動きとは全く違う、どこかぎこちない、しかし楽しそうなステップ。
彼女の頬は焚火の光と、そして恥ずかしさでほんのりと赤く染まっていた。
その一瞬だけ見せた素顔の可憐さと、自分だけに向けられたはにかむような笑顔。
それはエリックの心に、今も温かい光として焼き付いていた。
(お前のあの笑顔を……俺は、守ることができなかった……)
後悔が、彼の心を締め付ける。
そして炎は最後に、最も痛ましい記憶を彼の前に映し出した。
それは、裏切り者として憎んでいるはずのかつての親友の姿だった。
あれは中央山脈の麓にある貧しい村に立ち寄った時のこと。
その村には戦災で親を失った子供たちが暮らす、小さな孤児院があった。
レオは、その孤児院の子供たちを見つけると、まるで昔の自分自身を見るかのようにその場から離れようとしなかった。
彼は自分たちのなけなしの食料の中から一番大きなパンを取り出すと、お腹を空かせた子供たちに全て分け与えてしまったのだ。
「おい、レオ! 何を考えてるんだ!
俺たちの食料だって、もうほとんどないんだぞ!」
エリックが思わず咎めるように言うと、レオは子供たちの頭を撫でながら、少し照れくさそうに、そしてどこか寂しそうに笑った。
「……ごめん、エリック。
でも放っておけなかったんだ。
俺も昔はこうだったからさ。
腹が減って眠れない夜の辛さは、誰よりも分かるつもりだ」
彼のその言葉には何の飾りも偽善もなかった。
ただ、自分と同じ痛みを知る者への純粋で献身的な優しさだけがあった。
子供たちはパンを頬張りながら、「レオ兄ちゃん、ありがとう!」と屈託のない笑顔を彼に向けた。
その光景をレオは、本当に幸せそうな、そして少しだけ泣き出しそうな顔で見つめていた。
そのどこまでも真っ直ぐで、そしてどこまでも優しい瞳。
(なぜだ……)
回想からエリックの意識はゆっくりと現実へと戻ってきた。
暖炉の炎はいつの間にか小さくなり、部屋は吐く息が白くなるほどに冷え込んでいた。
彼の頬を、いつの間にか一筋の冷たい涙が伝っていた。
彼はレオを憎んでいるはずだった。
セレーネを殺した、許されざる裏切り者として。
しかし、思い出すのはあの玉座の間での憎むべき裏切り者の顔ではない。
いつも、いつも、あの日の優しい親友の顔ばかりだった。
(なぜなんだ、レオ……。
なぜ、あんなにも優しかったお前が……。
俺たちを、裏切らなければならなかったんだ……?
どうして相談してくれなかったんだ……?)
憎しみと、決して消すことのできない温かい記憶。
その二つの間で彼の心は、もはやどうすることもできないほど激しく揺れ動いていた。
彼は一人、深い孤独の闇の中で失われた友たちのあまりにも温かい幻影を抱きしめるように、静かに、そして長い夜を明かすしかなかった。