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第154話:密偵の報告

 王都は夏の太陽が容赦なく照りつける、まばゆい光の中にあった。

街路樹の葉は深く濃い緑色に輝き、市場は活気に満ち、人々は「英雄エリック」の治世がもたらすであろう輝かしい未来を信じて疑わなかった。


 しかし、その平和の象徴である王宮の最も奥深く、アースガルド国王の私室は、外界の熱気とは裏腹に氷のように冷たい静寂に支配されていた。


「……以上が、この半年のエリック様の御様子にございます」


 影のように気配を消して佇んでいた男カインは、感情の起伏を一切感じさせない平坦な声で報告を終えた。

彼の前には、豪奢な椅子に深く身を沈めたアースガルド国王が指を組んだまま静かに座している。

その顔にはいつもの慈愛に満ちた笑みはなく、ただ磨き上げられた黒曜石のような冷徹な光だけが宿っていた。


 カインがエリックの専属補佐官、すなわち「監視役」として遣わされてから半年という歳月が流れていた。

その間カインは、エリックの行動、言動、その呼吸の一つに至るまで全てを記憶し、分析し続けてきた。


「変化、か……」

国王が重々しく呟いた。


「具体的に申せ。

あの男のどこに『変化』が見られるというのだ」


「はっ」

カインは無表情のまま、淀みなく言葉を続けた。

彼の報告は感情を排した、あまりにも正確で残酷な事実の羅列だった。


「まず、陛下がたの御教示に対するエリック様の反応にございます。

言葉の上では以前と何ら変わりなく、完璧な忠誠を示されております。

『魔族は絶対悪である』『世界の秩序を守るため、いかなる犠牲も厭わぬ』。

その言葉を彼は淀みなく、そして力強く口にいたします」


カインはそこで一度言葉を切った。


「しかし、その言葉を口にする際の彼の瞳にございます。

かつて宿っていたレオという裏切り者への燃え盛るような『憎悪』の炎、そしてセレーネという女性を失った『悲しみ』の色が、完全に消え失せております。

代わりにそこにあるのは、深い底なしの『虚無』。

まるで魂の抜け落ちた人形が、教えられた台詞を完璧に暗唱しているかのようでございます」


国王の指が、ぴくりと動いた。


「あの『引継ぎの儀』の後からでございます」

カインは核心へと触れていく。


「アルスの死の真相をお伝えして以降、エリック様の言動にはかすかな、しかし決して見過ごすことのできぬ『疑念』と『反発』の色が見え始めております」


「反発だと?」

国王の声がわずかに鋭くなった。


「はい。

それはあからさまな反抗ではございません。

むしろその逆。

あまりにも完璧すぎる服従の中に、巧妙に隠された静かなる反発にございます」


カインは具体的な事例を挙げ始めた。


「例えば先日。

陛下がエリック様に、辺境で捕らえた魔族の残党の処遇についてお尋ねになられた時のこと。

エリック様は『陛下の御心のままに。彼らに慈悲は無用です』と、即座に、そして完璧な答えを返されました。

しかし、その直後、彼の拳がほんの一瞬テーブルの下で強く握りしめられたのを、私は見逃しませんでした。

それは憎しみからくるものではない。

むしろ自らが口にした言葉への、深い『嫌悪』からくる動きと拝察いたします」


「……」

国王は黙ってその報告を聞いていた。


「また、書斎での勉学においても奇妙な変化が見られます」

カインは続けた。


「当初、彼は『空白の10年間』に関する禁書に直接触れようとしておりました。

しかし私がそれを制して以降、その種の行動は一切見られなくなりました。

代わりに彼が今、熱心に読み解いておりますのは、一見何の関係もないかのように見える、はるか昔の文献ばかりにございます」


「ほう……?

はるか昔、だと?」


「はい。

例えば百二十年前の、今は滅びた小王国の交易記録。百五十年前の魔族との小規模な紛争に関する軍事報告書。

そして二百年も前の古代遺跡から発掘されたとされる神話の断片。

それら一つ一つは、現在の我らの治世とは何ら関係のない、ただの歴史の塵にございます」


 カインは冷たい瞳で国王を見据えた。


「しかし、それらの文献に共通して描かれているのはただ一点。

『人間と魔族の関係性が、現在とは決定的に異なっていた』という事実。

彼がこれらの調査で何を目的としているのか……。

現時点ではその正確な意図を掴むには至っておりません。

しかし確実に言えるのは、エリック様が我らの語る歴史とは異なる『何か』を執拗に探求されているという事実にございます。

彼の探求はもはや『空白の10年間』という一点に留まってはおりません。

我らが築き上げたこの歴史の、その『起源』そのものに疑いの目を向けられているやもしれませぬ」


 その言葉に、国王の表情が初めて険しく歪んだ。

英雄エリックはただの駒ではなかった。

彼は与えられた盤の上で、自らの意志で静かに、そして狡猾に動き始めていたのだ。


「……あの男……」

国王の唇から低い唸り声が漏れた。


 あの「引継ぎの儀」で、彼はエリックに全てを与えたはずだった。

世界の真実という絶望を。

そしてセレーネの復活という、抗いがたい希望を。

その二つの枷によって、彼の魂は永遠に自分たちの支配下にあるはずだった。

しかし、カインの報告は、その枷がもはや機能していない可能性を示唆していた。


「……最も、憂慮すべきは」

カインは最後の、そして最も決定的な報告を口にした。


「エリック様が、もはや『英雄』としての役割に何の価値も見出しておられないという点にございます」


「何だと……?」


「彼は民衆の前に立つ時、完璧な英雄を演じます。

その笑みは慈愛に満ち、その言葉は希望に溢れております。

しかし一人になった時、彼の瞳に宿るのは民衆への憐れみと、そして彼らが信じる偽りの平和を創り出した我らへの、静かな、しかし底知れぬ『侮蔑』の色。

彼はもはや我らが創り上げたこの世界を、救うべき対象として見てはおりません。

むしろ、破壊すべき偽りの舞台として認識し始めているやもしれませぬ」


 その言葉は、国王の心に決定的な警鐘を鳴らした。


(……駒が、壊れたか)


 国王は内心で冷たく吐き捨てた。

憎しみに燃える英雄は、扱いやすい。

悲しみにくれる英雄もまた、御しやすい。

しかし、真実を知り、諦観という名の冷徹な鎧を纏い、そして目的の読めない探求を始めた英雄は、もはや英雄ではない。

それは自分たちの築き上げた秩序を、根底から覆しかねない最も危険な「反逆者」の卵だ。


「……セレーネの復活という『餌』は、もはや効かぬと見えるか」

国王が独り言のように呟いた。


「断定はできませぬ。

しかし、エリック様の行動原理はもはや個人的な感情だけでは動いていないように見受けられます。

彼は、より大きな……言うなれば、この世界の『真理』そのものを探求し始めております。

その探求の果てに、彼が我らの敵となるか味方となるか……。

それは現時点では、予測不能にございます」


 カインの報告は終わった。

部屋には再び重い沈黙が訪れる。


 国王はゆっくりと立ち上がると窓辺へと歩み寄り、眼下に広がる平和な王都を見下した。

あの平和は自分たちが、異星人たちの力を借りて創り上げた完璧な芸術品のはずだった。

そしてエリックは、その芸術品を永遠に飾り立てる最も美しい彫像のはずだった。

しかし、その彫像が自らの意志を持ち、動き出そうとしている。


(……エリックの『英雄』としての有用性は、もはや尽きたのかもしれぬな)


 国王の心に、冷たい決断が芽生え始めていた。

使えなくなった駒は、盤上から取り除くしかない。


(だが、まだ早い。あの男の力はまだ利用価値がある。そして、あの男を殺せば民衆がどう動くか分からぬ)


 国王は思考を巡らせた。

この問題はもはやアースガルド大陸だけの問題ではない。

エリックは五大陸の王が共同で選んだ、次期後継者候補だ。


「……カインよ」


「はっ」


「引き続きエリックの監視を続けよ。

決して我らの疑念を悟られてはならぬ。奴が決定的な動きを見せるまで、泳がせておけ」


「御意」


「……そして私は、他の大陸の王たちをここに招集する。

もはや我ら五人の知恵を集めねばならぬ時が来たようじゃ」


 国王は壁にかけられた特殊な紋様が刻まれた通信装置へと、その手を伸ばした。

それは大陸を越えて王たちの意思を繋ぐ、異星人の超技術の産物だった。


「我らが創り上げた、完璧なる英雄。

その、処遇について、な……」


 国王の瞳には、もはやエリックへの慈愛のかけらもなかった。

あるのはただ、自らの計画を脅かす「異物」をいかにして排除するかという、氷のように冷たい計算だけだった。


 その頃、エリックは自室の書斎で、カインが言った通り一見何の関係もないかのように見える、膨大な古文書の山に埋もれていた。

彼は国王たちの監視の目に気づきながらも、その網をかいくぐり、静かに、そして着実に真実の欠片を拾い集めていた。


 彼の孤独な戦いは、すでに王たちの知るところとなっていた。

そして、その戦いが彼自身の首を絞める致命的な刃となりつつあることを、まだエリック自身は知らなかった。


 彼の運命の歯車は今、静かに、しかし確実に破滅へと向かって回り始めていた。

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