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第153話:国王の目

 国王歴1015年1月。

王都は再び深い雪と静寂に支配されていた。

あの初夏の日、エリックが自らの「正義」の崩壊を受け入れ、「偽りの秩序を守る」という苦渋の決断を下してから、半年以上の歳月が流れていた。


 その半年間、エリックという人間はある意味で完璧な存在へと昇華されていた。


 彼の心から葛藤の色は完全に消え去っていた。

夜ごと彼を苛んでいた悪夢はもはや見ることもなく、その眠りは湖の底のように静かだった。

かつて彼の心を焼いていたセレーネへの悲しみもレオへの憎しみも、その激しい炎は鎮火し、ただ冷たい灰だけが心の奥底に降り積もっているかのようだった。


 彼は感情を完全に押し殺し、ただひたすらに国王たちが望む「完璧な後継者候補」という役割を演じ続けた。


 彼の剣技はもはや人間業とは思えぬほどに洗練され、その動きには一切の無駄も感情の揺らぎもなかった。

それはまるで、ただ効率的に敵を破壊するためだけに設計された美しい機械のようだった。

彼の知識は王宮のどの賢者よりも深くなり、その頭脳は冷徹な計算能力によって常に国家にとっての「最適解」を弾き出した。


 その変貌ぶりは、王宮の誰もが賞賛した。

「英雄としての苦悩を乗り越え、王となるための真の覚悟が定まったのだ」

「もはやエリック様には一片の迷いもない。彼こそが我らの未来を導く絶対的な光だ」


 誰もが、英雄のその劇的な成長を好意的に解釈していた。

ただ一人、アースガルド大陸の国王を除いては。


 その日、エリックは再び「盟約の間」へと呼び出されていた。

中央の玉座にはアースガルド国王が一人、静かに腰を下ろしている。


「エリックよ。この半年の働き、実に目覚ましい」

国王はいつものように慈愛に満たた笑みを浮かべていた。


「辺境の魔族残党の掃討計画、そして新たな税制改革案。いずれも見事なものじゃった。

お主の頭脳と決断力は、もはや我ら王の域に達しつつある」


「もったなきお言葉。

全ては陛下の御教示の賜物にございます」

エリックは完璧な礼法で膝をついた。

その声にも表情にも、感情というものが一切感じられなかった。


 国王は、その完璧すぎる返答に満足そうに頷いてみせた。

しかし、その瞳の奥ではこれまで感じたことのない微かな警戒の光が揺らめいていた。


(……何かが、違う)


 国王は目の前に膝まずく若き英雄を見つめながら、内心で呟いた。

半年前までのエリックは、確かに扱いやすい駒だった。

セレーネへの悲しみ、レオへの憎しみ。

その二つの分かりやすい感情を刺激すれば、面白いように意のままに動いた。

その瞳には常に葛藤と苦悩の色が浮かんでいたが、それこそが彼がまだ「人間」であることの証だった。


 しかし、今のエリックはどうだ。

その瞳はまるで磨き上げられた黒曜石のように、何の光も反射しない。

そこにあるのは感情の揺らぎが一切ない、氷のような冷徹さだけ。

彼が語る言葉は完璧で、その忠誠心に疑うべき点はない。

しかし、その完璧さゆえに国王には、もはや自分たちの言葉が彼の魂のどこにも響いていないのではないかという、底知れぬ不気味さを感じさせていた。


 「憎しみ」という鎖で繋いでいたはずの駒が、いつの間にかその鎖を自ら引きちぎり、「諦観」という名のより硬質で予測不能な鎧を身に纏ってしまったかのようだ。

この男はもはや自分たちの駒ではないのかもしれない。

自分たちの理解を超えた、全く別の何かへと変貌してしまったのではないか。


(このままでは危険やもしれぬ……)


 国王はエリックの国王継承への最終準備を支援するという完璧な大義名分の下、彼の真意を探り、その行動を完全に自分たちの管理下に置くための新たな「目」を付けることを静かに決断した。


 数日後、国王は再びエリックを自らの私室へと呼び出した。


「エリックよ。お主の国王継承まで残すところ数年となった。

そこで、お主の最後の仕上げとして私の最も信頼する部下を、お主の補佐官として付けようと思う」


 国王の言葉に、エリックは表情一つ変えずに静かに頭を垂れた。

その国王の背後から一人の男が、音もなく姿を現した。


 歳の頃はエリックと同じくらいだろうか。

その男は平凡な文官の装いをしており、その顔立ちにも何ら特徴的なものはなかった。

しかし、その立ち振る舞いには一切の無駄がなく、まるで影のように気配が希薄だった。


 そして、その瞳。

感情というものを一切映し出さない、まるでガラス玉のように冷たい瞳が、値踏みするようにじっとエリックを見つめていた。


「彼の名はカイン。

王宮の書記官じゃが、その頭脳は賢者にも匹敵し、その忠誠心は近衛騎士団の誰よりも深い。

今日から彼をお主の専属補佐官とする。

国王継承に必要な膨大な政務と儀礼について、彼がお主を支えるであろう」


 エリックは国王のその言葉の裏にある真の意図を、瞬時に理解した。


(……監視役、か)


 この男、カインは補佐官などではない。

国王が放った、自分を監視するための密偵だ。

自分の行動、言動、その全てを逐一報告し、少しでも不穏な動きがあれば即座にそれを排除するための冷徹な番犬。


 エリックの心の中を、一瞬冷たい風が吹き抜けた。

しかし、彼の顔には完璧なまでの穏やかな笑みが浮かんでいた。


「陛下の御心遣い、感謝に堪えません。

カイン殿、これからよろしく頼む」

エリックはカインに向かって、非の打ち所のない優雅な礼をしてみせた。


「……はっ。エリック様。

このカイン、身命を賭してお支えする所存です」

カインもまた、感情のこもらない声で深く頭を下げた。


 その日から、エリックの日常に常に影のように付き従う、新たな存在が加わった。

カインは言葉通りエリックの影となり、その四六時中、片時もそばを離れようとはしなかった。


 朝、エリックが訓練場で剣を振るう時、カインはその隅で腕を組んだまま静かにその動きを観察していた。

彼の視線はエリックの剣筋の鋭さや、その力強さには向けられていない。

彼が見ているのはエリックの表情のほんの微細な変化、呼吸のリズム、そして剣を振るうその瞳の奥にどのような感情が宿っているのか。

その全てを、まるで記録するように冷徹に分析していた。


 昼、書斎でエリックが歴史書を読みふけっていると、カインは絶妙なタイミングで新たな書物を彼の前に差し出した。

エリックが、「空白の10年間」に関する記述が含まれる古い文献に手を伸ばそうとした、その瞬間だった。


「エリック様。

その時代の文献よりも、こちらの最新の公式年代記の方が王としての見識を深めるためには、より有益かと存じます。陛下もそうお望みのはず」

その言葉は丁寧だったが、その裏にはエリックの探求を巧みに妨害し、国王たちの望む思考へと誘導しようとする明確な意図があった。


 そして、夜。

エリックが広大な私室で一人思索に耽ろうとする、そのわずかな時間でさえ。

カインは扉の外に、常に音もなく控えていた。

その希薄な、しかし確かな気配が、壁を通してエリックの肌を突き刺すように感じられた。


 それはまるで巨大な鳥籠の中に閉じ込められ、その一挙手一投足を冷たい目で見つめられているかのような息苦しさだった。

エリックはもはや一人で心を休ませることも、自由に思考を巡らせることさえもできなくなった。


 この息の詰まるような日々は、彼の内なる反発心を、しかし、さらに静かに、そして強固なものへと鍛え上げていった。


(……面白い)


 ある夜、エリックは扉の外に控えるカインの気配を感じながら、内心で冷たく微笑んだ。


(お前たちが俺を疑うのなら、俺はその期待に完璧に応えてやろう)


 彼はこの息苦しい監視の目を欺き、自らの真の目的……国王たちを利用し、世界の真実を掴み、そしてセレーネを蘇らせるという第三の道を遂行するため、これまで以上に完璧な仮面を被ることを静かに決意した。


 その日から、エリックの「演技」はさらに巧緻を極めていった。

彼はカインの前で、より一層「国王に忠実な英雄」を演じた。

ことさらに魔族への憎しみを口にし、国王が語った「正義」の教えを、まるで自らの言葉であるかのように熱心に復唱した。


 しかし、その完璧な演技の中に彼は、ほんのかすかな、そして計算され尽くした「綻び」を意図的に、そして巧妙に混ぜ込み始めた。


 例えば、国王の教えを語る際に、一瞬だけその瞳に深い虚無の色を浮かべてみせる。

あるいは、魔族への憎しみを口にしながら、その拳がほんのわずかに、しかし確かに震えているのを見せる。


 それはあまりにも微細な変化だった。

普通の人間であれば決して気づくことのない、魂のかすかな揺らぎ。

しかし、カインはその全てを見逃さなかった。


 彼の、感情を映さないガラス玉のような瞳が、エリックの完璧な仮面の裏側にある決定的な「異変」の兆候を、静かに、そして正確に捉えていたのだ。


 英雄の孤独な戦いは今、監視役という名の新たな観客を得て、より深く、そしてより危険な心理戦の舞台へと、その幕を開けようとしていた。

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