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第152話:正義の崩壊

 国王歴1014年6月。

王都は初夏の生命力に満ち溢れ、街路樹の葉は陽光を浴びて力強く輝いていた。

空はどこまでも青く澄み渡り、人々は「英雄エリック」がもたらした盤石の平和を信じ、その恩恵を謳歌している。


 しかし、その平和の象徴であるはずの英雄エリックの内面は、荒れ狂う嵐のただ中にあった。


 国王たちへの底知れぬ恨みと、セレーネ復活という捨てきれない一縷の希望。

その二つの間で引き裂かれ、彼が最終的に選び取ったのは復讐でも忠誠でもない、第三の道。

国王たちさえも欺き利用し尽くし、その力の根源である『調停者』の秘密を暴き、自らの手で運命を切り開くという、あまりにも危険で壮絶な戦いの道だった。


 その決意は、彼の心を一時的に奮い立たせた。

しかし、その決意を実行に移そうとすればするほど、彼は自分がこれまで信じてきた「正義」という名の足場が、音を立てて崩れ去っていく感覚に苛まれていた。


 王宮の訓練場。

朝日が差し込む静寂の中、エリックは一人木の人形相手に剣を振るっていた。

風を切り裂く剣筋は以前にも増して鋭く、そして重い。

しかし、その完璧な動きの中にかつてのような純粋な闘志はなかった。

あるのはただ、出口のない葛藤を振り払おうとするかのような機械的な反復だけだった。


(正義とは、何だ……?)


 剣を振るうたびに、その問いが彼の魂を内側から打ち据える。


 魔族を討伐することが正義だったはずだ。

セレーネの仇を討ち、世界に平和をもたらすこと。

それが彼が勇者として、その身を捧げると誓った揺るぎない正義だった。


 しかし、その正義は国王たちによって創られた壮大な偽りだった。

アルスを殺した者たちが語る「世界の秩序」に、一体どれほどの価値があるというのか。

彼らが掲げる「正義」の旗は友の血で、どす黒く汚れている。


(セレーネ……)

彼女の死は、国王たちの「計画」の計算された一つの駒だった。


(レオ……)

彼の裏切りは、友情という最も美しい感情を燃料にして燃え上がらされた偽りの憎悪の炎だった。


(アルス……)

彼の死は、真実の探求という最も尊い行為に対する冷酷な懲罰だった。


 これら全ての悲劇が、国王たちの言う「世界の秩序」を守るために必要不可欠な「犠牲」として処理されてきたのだ。

そして自分自身……英雄エリックという存在もまた、その悍ましい悲劇の舞台の上で最も輝かしく踊る道化に過ぎなかった。


 その事実に気づいてしまった今、自分が信じてきた「正義」はもはや砂上の楼閣のように、脆く無価値なものにしか思えなかった。

激しい自己嫌悪が、彼の全身を貫く。


「……はぁっ……はあっ……!」


 彼はついに剣を振るうのをやめ、その場に膝をついた。

肩で大きく息をしながら、朝日に照らされた自分の手のひらを見つめる。


 この手は、英雄の手か。

それとも、偽りの世界を守る欺瞞の手先か。


 その答えのない問いから逃れるように、その日の午後、エリックは身分を隠すための質素なローブを纏い、一人王都の市街地へと足を運んだ。

王宮の息詰まるような欺瞞と葛藤から、一時でも解放されたかったのだ。


 城門を抜けると、そこには彼の心をさらに深く揺さぶる光景が広がっていた。

活気に満ちた市場。

新鮮な野菜や果物を並べた露店。

行き交う人々の屈託のない笑顔と、賑やかな話し声。

世界は、平和そのものだった。


「ほら、見てごらん。

あれが英雄エリック様のお城よ」

市場の片隅で、幼い娘の手を引いた母親が王宮を指さして優しく語りかけていた。


「エリック様が怖い魔王様をやっつけてくれたから、こうして私たちが安心して毎日美味しいものを食べられるのよ。

感謝しなくちゃね」


 その言葉に幼い娘はこくりと頷くと、その小さな手に握りしめられた粗末な作りの木の人形を、宝物のようにぎゅっと抱きしめた。

それは英雄エリックを模した人形だった。


 エリックは思わずローブのフードを深く被り、その場から足早に立ち去った。

胸が締め付けられるように痛かった。


(感謝……? 俺に……?)


 広場の噴水の前に、彼は足を止めた。

そこでは若い男女が幸せそうに未来を語り合っていた。


「エリック様のおかげで、もう魔族に怯えずに君と結婚できる。

子供が生まれても、きっとこの平和な世界で健やかに育てていけるだろう」


「ええ、本当に。

国王陛下とエリック様には感謝してもしきれないわね」


 彼らは互いの手を取り合い、希望に満ちた瞳で微笑み合う。

その光景はあまりにも眩しく、そしてエリックの心にはあまりにも痛ましかった。


(この人々の幸せは……全て、『嘘』の上に成り立っている……)


 彼らが信じている平和は、アルスの犠牲の上に築かれたものだ。

彼らが感謝している国王は、そのアルスを殺した張本人だ。

そして、彼らが英雄と崇める自分は、その全ての真実を知りながら彼らを欺き続けている。


 この耐えがたい矛盾。

エリックはふらふらと、街の酒場へと吸い込まれた。

薄暗い店内の隅の席で彼は一人、エールを呷る。

周囲の喧騒が彼の孤独をさらに際立たせた。


 その時、隣の席から大きな笑い声と共に、一人の老人の声が聞こえてきた。


「がっはっは!

今の若いもんは幸せでええのう!」


 その老人は顔に古い傷跡を持つ、退役した兵士のようだった。

彼は若い兵士たちに、自慢げに昔話を語って聞かせている。


「わしらの若い頃は、いつ魔族がこの壁を越えてくるかと夜もろくに眠れんかったもんじゃ。

仲間が目の前で獣のように喰われるのも、一度や二度ではなかった……。

それに比べりゃあ、今のこの平和はまるで天国じゃわい」


 老兵はエールをぐいと飲み干すと、その目に涙を浮かべた。


「これも全て、魔王様を討伐してくださった英雄エリック様と……。

そして、この国を賢明に導いてくださる国王陛下がたのおかげなんじゃ……。

ありがてえ、本当にありがてえこった……」


 その、何の疑いもない純粋な感謝の言葉。

それがエリックの心に、最後の、そして最も重い一撃を与えた。


(……ああ……そうか……)


 彼はグラスをテーブルに置くと、静かに立ち上がった。

そして誰に気づかれることもなく、酒場を後にする。


 夜の帳が下り始めた王都を、彼は目的もなく彷徨い歩いた。

家々の窓からは温かい灯りが漏れ、家族の団欒を思わせる楽しげな笑い声が聞こえてくる。


 この幸せは、偽りだ。

しかし、この人々の笑顔は紛れもなく「本物」だ。


 もし、自分が真実を明かしたらどうなる?

国王たちへの信頼は失墜し、人間社会は再び大混乱に陥るだろう。

異星人という理解不能な真の敵の存在を明かしたところで、人々はそれを信じず、ただ恐怖に怯え互いに疑心暗鬼になるだけかもしれない。

そして今ここにある、このささやかで、しかし、かけがえのない幸せは跡形もなく消え去ってしまうだろう。

その結果生まれるのは、真実を知った上での絶望的な混沌だけだ。


(……この世界を、守る……?)


 彼は王宮へと続く長い坂道の上で、足を止めた。

眼下には宝石を散りばめたような王都の夜景が広がっている。


(この世界を守るということは……。

この偽りの秩序を……。この嘘で塗り固められた平和を……。

俺自身の手で、守り抜くということなのか……?)


 それはアルスが求めた真実を、永遠に闇に葬り去ること。

国王たちの悍ましい欺瞞に、自らも加担すること。

それは彼にとって、自らの魂を悪魔に売り渡すにも等しい行為だった。


 しかし。

彼の脳裏に、市場の母子の笑顔が、広場の恋人たちの囁きが、そして酒場の老兵の涙が鮮明に蘇る。


(彼らの……あの笑顔を守るためには……)


(それ以外の道は……ないのか……)


 彼は天を仰いだ。

夜空には無数の星が冷たく、そして静かに輝いている。

その星々のどこかに、この世界を弄ぶ真の敵がいる。


「……これで、いいんだ……」


 彼の唇から、まるで他人事のようにその言葉がこぼれ落ちた。


「これで……いい」


 彼は自分自身にそう言い聞かせた。

英雄として、この偽りの平和を守り抜く。

民衆を、真実という名の絶望から守る。

それこそが自分がこの世界に対して負うべき、新たな、そしてあまりにも重い「責務」なのだと。


 彼の心の中で、復讐の炎も個人的な欲望もその行き場を失い、英雄としての歪んだ責任感という名の、重い、重い石の下に封じ込められていった。


 王宮へと戻ったエリックの顔にもはや、これまでの葛藤の色はなかった。

代わりにその表情に宿っていたのは、全てを諦めたかのような、あるいは全てを受け入れたかのような、氷のように冷徹な静けさだった。


 彼は国王たちの駒として、これまで以上に完璧に振る舞い始めるだろう。

この偽りの秩序を守る、最強の守護者として。


 しかし、その瞳の奥深く。

かつて正義の光が宿っていた場所には今、真実を知りながら嘘を生きることを決めた者だけが持つ、底なしの闇が静かに、そして深く広がっていた。


 その微妙な、しかし決定的な変化を、傲慢な王たちが見逃すはずはなかった。

英雄の心に宿った新たな闇。

それは彼らにとって、新たな「危険の兆候」以外の何物でもなかったのだ。

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