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第151話:深まる不信

 国王歴1014年3月。

王都に長く厳しい冬の終わりと、生命の息吹がもたらす春の兆しが訪れていた。

王宮の庭園では、凍てついていた大地から健気な緑の芽が顔を覗かせ、固く閉ざされていた蕾が柔らかな陽光を浴びてほころび始めている。


 しかし、英雄エリックの心は未だ真冬の氷に閉ざされたままだった。


 あの日、「始祖の間」で世界の真実とアルスの死の真相を知らされてから、二ヶ月という月日が流れた。

その時間は、彼の魂を根底から変質させるには十分すぎるほどの長さだった。


 英雄エリックは、死んだ。

そして、復讐者エリックが産声を上げた。

彼は今、その復讐者としての冷たい炎を、完璧な「英雄」という名の仮面の下にさらに深く、そして巧妙に隠して生きていた。


 その二重生活は、彼の精神を静かに、しかし確実に蝕んでいく。


「エリックよ、近頃の働き、実に見事なものじゃ」


 五大陸の王たちが集う定例の謁見の間。

アースガルド国王は、円卓に座すエリックを満足げに見つめていた。


「お主が次期後継者候補となってから、大陸の秩序はかつてないほどに安定しておる。

辺境での魔族の残党狩りも順調に進んでおると聞く。これも全て、英雄であるお主の威光の賜物よ」


 国王たちの言葉は蜜のように甘く、そして耳障りが良かった。

エリックは深く頭を垂れ、完璧なまでの恭順の意を示した。


「もったいなきお言葉にございます。

全ては陛下がたの深きご叡慮の賜物。

私はただ、その御心に従い剣を振るっているに過ぎません」


 その言葉もその仕草も、非の打ち所のない忠実な駒のそれだった。

しかし、その伏せられた瞳の奥で、エリックの心は煮えたぎるような恨みの炎に焼かれていた。


(……どの口が言うか)


 彼の内なる声は、殺意にも似た冷たさを帯びていた。


(アルスを殺し、その死を「必要な犠牲」と嘯いたお前たちが、どの口で『秩序』や『平和』を語るのか。お前たちのその玉座は、友の血で汚れているのだぞ……!)


 彼は国王たちの言葉の一つ一つが、耐えがたいほどの偽善に満ちた刃となって、自らの魂に突き刺さるのを感じていた。


 彼らが語る世界の未来。

彼らが描く人類の繁栄。

その全てが、アルスという一人の善良で聡明な人間の尊い命を踏み台にして成り立っている。


 そして自分は、その悍ましい欺瞞を補強するための最も重要な道具として、ここにいる。

自身の「英雄」としての役割。

それは民衆を欺き、国王たちの偽りの権威を維持するための、ただの飾り物に過ぎなかった。


 その事実は彼の誇りを、そしてこれまでの人生で培ってきた全ての価値観を、深く、そして無慈悲にえぐった。


 国王たちはそんなエリックの内なる嵐に気づくはずもなく、さらに言葉を続ける。

彼らはエリックがもはや「仲間」であると信じ込み、その警戒を完全に解いていた。


「それにしても、あの賢者アルスとかいう男。実に厄介な存在じゃったな」

別の大陸の王の一人が、まるで昔話でもするかのように退屈そうに言った。


「うむ。

知的好奇心も度を過ぎれば毒となる。

あのような不穏分子は、早めに摘み取っておいて正解じゃったわ」

アースガルド国王が、それにさも当然のように同調する。


 彼らの会話には、アルスを殺したことへの罪悪感のかけらも、人間としての良心の呵責も微塵も感じられなかった。

彼らにとってアルスの死はただの「処理」であり、歴史の些細な修正作業に過ぎなかったのだ。

エリックは彼らのその人間性の欠如に、悍ましいほどの恐怖と底知れぬ嫌悪感を覚えていた。


 謁見が終わり、エリックは重い足取りで自室へと戻った。

彼の心は国王たちへの深い恨みで黒く塗りつぶされそうだった。

今すぐにでも、この手で彼らを断罪したい。

アルスの無念を晴らしたい。


 しかし、その燃え盛る復讐心を、悪魔の囁きのように甘く、そして冷たく縛り付ける一つの呪いが存在した。


『セレーネ……。

我らの力をもってすれば、それすらも覆せるやもしれんぞ?』


 国王が、あの「引継ぎの儀」の最後に囁いた甘美な約束。

セレーネの、復活。

その言葉はエリックにとって、希望という名の抗いがたい毒だった。

彼の復讐心を縛り付け、国王たちへの反逆を躊躇させる最も強力な呪いの鎖。


(セレーネ……)


 夜、広大な私室で彼は一人、セレーネの幻影を見た。

彼女はあの魔王城で息絶える寸前の、血に濡れた姿で悲しげに微笑んでいた。


『エリック……信じてる……』


 彼女の唇が、声なくそう動く。


(もし俺が国王たちを殺せば……セレーネにもう一度会える唯一の道も、永遠に閉ざされてしまう……)


 その思考は、彼の心を激しく揺さぶった。

アルスの仇を討つという正義の怒りと、愛する女性を蘇らせたいという個人的な欲望。

その二つの間で、彼の魂は激しく引き裂かれていた。


「俺は……どうすればいいんだ……」


 彼は誰に言うでもなく、そう呟いた。

答えのない問いが、彼の孤独な心をさらに深く苛む。


 復讐か、それとも復活の可能性か。

どちらを選んでも、彼は何かを失う。

どちらを選んでも、彼の魂は救われない。


 そんな葛藤の日々の中で、エリックの心に新たな、そしてより狡猾な「疑念」が芽生え始めていた。

それは王宮の書斎で、国王から新たな「任務」について説明を受けている時のことだった。

国王はエリックの忠誠心を試すかのように、再びセレーネの復活について甘言を弄した。


「エリックよ、お主の働き次第でセレーネの魂を呼び戻す日は早まるやもしれんぞ。

そのためにも、世界の秩序を乱す不穏分子は、我らの計画の障害となる者は、徹底的に排除せねばならん。アルスのように、な」


 その言葉を聞いた瞬間、エリックの心に一つの冷たい疑問が浮かんだ。


(……なぜ、セレーネだけなんだ……?)


 国王は常にセレーネのことだけを口にする。

アルスのことも蘇らせることができるとは、決して言わない。


(なぜだ……?

『調停者』とやらの力をもってすれば、魂を呼び戻すことが可能だというのなら、アルスだって蘇らせることができるはずじゃないのか……?)


 その思考は彼の脳裏を、稲妻のように駆け巡った。


(まさか……)


 一つの、悍ましい可能性。


(アルスは『知ってはならぬこと』を知ったから殺された。

ならば蘇らせることは、国王たちにとってあまりにも都合が悪いのではないか……?)


 そうだ。

アルスが生き返れば、彼は再び世界の真実を探求し始めるだろう。

国王たちの欺瞞を、異星人たちの計画を暴こうとするに違いない。

それは国王たちにとって、絶対に避けなければならない事態だ。


(つまり……)


エリックは愕然とした。


(セレーネの復活という話自体が、俺を操るためのただの『餌』に過ぎないのではないか……?)


 彼らが本当にセレーネを蘇らせる気があるのかどうかすら、怪しい。

ただ、その可能性をちらつかせることで、自分を忠実な駒として縛り付けておこうとしているだけなのではないか。


 その疑念は、国王たちが提示した唯一の希望の光にさえも、さらなる欺瞞と悪意が隠されている可能性を示唆していた。

エリックの国王たちへの不信感はもはや、取り返しのつかないほど深く、そして決定的なものとなった。


 彼は国王の前では、これまでと変わらぬ完璧な忠誠を演じ続けた。

しかし、その仮面の下で彼は新たな決意を固めていた。


(奴らは俺を騙している……。

セレーネの復活さえも、俺を縛るための嘘なのかもしれない。

だが、もし万が一にもその可能性が真実だとしたら……。

俺は、その奇跡を手に入れるためならばなんだってしてやる)


 彼の思考は、もはや正義も悪も超えていた。


(奴らの駒として振る舞い、奴らの信頼を勝ち取る。

そしてその力の根源……『調停者』とやらの秘密を、この手で暴き出す。

セレーネを、そしてアルスをも蘇らせる術を、俺自身が手に入れるんだ)


 それは復讐とも忠誠とも異なる、第三の道。

孤独な英雄が自らの手で運命を切り開くための、あまりにも危険で壮絶な戦いの始まりだった。


 エリックは国王たちの偽りの世界の中で、彼らさえも欺き利用し尽くすことを決意した。

彼の心は国王たちへの底知れぬ恨みと、セレーネ復活という捨てきれない一縷の希望の間で、完全に引き裂かれていた。


 彼は、復讐者にも忠実な駒にもなりきれない。

ただ、出口のない葛藤の迷宮を独り彷徨うしかない。

王宮の窓から偽りの平和を享受する、罪なき民衆の姿を見下ろしながら。

この平和が、友の犠牲の上に成り立っているという耐えがたい矛盾を胸に抱きながら。

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