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第149話:国王継承

 国王歴1014年1月。

王都は一年で最も深い静寂と、凍てつくような寒気に包まれていた。

王宮の尖塔は氷の装飾を纏い、空からは純白の雪が音もなく舞い降り続けている。


 その日、英雄エリックは国王を継承するための最終段階となる、秘密裏の儀式へと招かれた。


 「引継ぎの儀」。

それは王となる者だけが知ることを許された、この世界の真の秩序と禁忌を、現王から次代の王へと直接受け渡す、最も神聖で、そして最も重い儀式だった。


 古文書保管庫での発見から一月。

エリックの心は英雄という輝かしい仮面の下で、静かで、しかし激しい嵐のただ中にあった。


 彼が信じてきた世界の全てが巨大な嘘の上に成り立っているのではないかという疑念。

その疑念は彼の魂を根底から揺さぶり、夜ごとの眠りを浅く、そして悪夢に満ちたものへと変えていた。


 彼は国王たちの前では、これまで以上に完璧な「駒」を演じた。

その瞳には揺るぎない忠誠を宿し、その言葉には一片の疑念も滲ませなかった。

しかし、その仮面の下で彼はこれから語られるであろう「禁忌」に備え、自らの心を鋼のように硬く武装していた。


 真実を知る覚悟は、できていた。

いや、知らねばならなかった。

アルスが、そしておそらくはレオもが触れてしまったであろう、この世界の歪みの核心を。


 彼が導かれたのは、玉座の間でも、五大陸の王が集う「盟約の間」でもなかった。

王宮の最も奥深く、王族の中でも限られた者しかその存在を知らない、「始祖の間」と呼ばれる円形の小さな部屋だった。


 部屋の壁には歴代のアースガルド国王の肖像画がずらりと並べられている。

しかし、その肖像画には奇妙な断絶があった。

ある年代を境に、それまでの写実的で人間味あふれる画風が、まるで神格化されたかのような冷たく無機質な画風へと不自然に変化しているのだ。

エリックは、その変化が「空白の10年間」の始まりとほぼ同時期であることに気づき、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 部屋の中央には黒曜石で作られた一つの椅子だけが置かれ、そこにアースガルド国王がただ一人、静かに座していた。

部屋の空気は神聖であると同時に、墓所のような、どこか不気味な気配を漂わせている。


「……来たか、エリック」


 国王の声はいつもの慈愛に満ちた響きとは異なり、まるで地の底から響くように低く、そして重かった。

その瞳にはもはや何の感情も浮かんでおらず、ただ深淵の闇だけが広がっているかのようだ。


「今日この場で聞くことは、王となる者だけが知ることを許された、この世界の真の秩序。

そして、その秩序を守るために背負わねばならぬ永遠の責務である」


 国王は、エリックに目の前の床に膝まずくよう静かに促した。


「心して聞くがよい。

お主がこれまで教えられてきた歴史。魔王は悪であり、人間は正義であるという、あの輝かしい物語は……」


 国王はそこで一度言葉を切った。


「全て、我らが民を導くために創り上げた、『偽り』であるとな」


 その言葉は、雷鳴のようにエリックの脳天を直撃した。

分かっていた。心のどこかで予期していたはずの言葉だった。

しかし、国王自身の口からこれほどまでに明確に、そして冷徹に告げられると、彼の魂は激しく揺さぶられた。


 国王はエリックの動揺を意に介さず、淡々と、そして無慈悲に禁忌の告白を続けた。


「お主が古文書でその断片を垣間見たようにな。

かつてこの星には、我々とは異なる『調停者』が飛来した。

彼らは我ら未熟な人類に大いなる知恵と力を与えてくれた、いわば神にも等しい存在じゃ」


「神……?」

エリックの唇から、かすれた声が漏れた。


「うむ。

じゃが神は我らに、その恩恵に見合うだけの『代償』を求めた。

すなわち、この星の秩序を彼らの望む形で安定させることじゃ」


 国王はゆっくりと立ち上がると、エリックの周りを歩き始めた。

その足音だけが、静寂の中で不気味に響く。


「旧世界の王は、その神聖なる申し出を自らの矮小な理想のために拒絶した。

人間と魔族の共存などという愚かで実現不可能な夢に固執し、この星を大いなる混乱に陥れようとしたのじゃ。

故に我らは、真の秩序を守るため彼を『悪』として排除せざるを得なかった。

それが『空白の10年間』に起きた粛清の真実じゃ」


 それはエリックが古文書で読んだ内容と、恐ろしいほどに符合していた。

しかし、その全てが国王たちの「正義」の視点から、巧みに、そして冷徹に正当化されていた。


「民衆の記憶にあるあの時代の混乱は、その際の『浄化』の名残よ。古い価値観を捨て新たな秩序を受け入れさせるための、いわば必要な外科手術じゃった。多少の痛みは伴ったが、それによって今のこの平和と繁栄がある。全ては世界の秩序を守るための、苦渋の、そして聖なる決断だったのじゃよ」


 国王の言葉に、一つの矛盾も淀みもなかった。

それは彼が心の底から信じている、絶対的な「真実」なのだ。

エリックは衝撃に打ちのめされながらも、その言葉の裏にある悍ましいほどの欺瞞と自己陶酔を、冷静に感じ取ろうとしていた。


 国王はエリックの前に再び立つと、その肩に重々しく手を置いた。

その手は氷のように冷たかった。


「エリックよ。

お主はこの世界の真の姿を知った。

そしてその上で、お主には選択の時が来た」


 国王の瞳が初めて、人間のような、しかし業火のごとき熱を帯びた。


「お主は、我らと共にこの世界の新たな『神』となるのじゃ」


「……神、ですと?」


「そうじゃ。

我らは、あの『調停者』たちと深き契約を結んだ。

彼らが持つ超技術をもってすれば、我らはもはや定命の人間ではない。

不老不死に近い存在となり、永遠にこの愚かな民を導き、この世界を支配することができる。

お主もまた、その神々の一員となる資格を得たのじゃよ」


 その言葉はエリックの想像を絶する、あまりにも甘美で、そして冒涜的な誘惑だった。

単なる王ではない。

人間を超えた、世界の真の支配者。

英雄としての栄光の果てにある、究極の孤独を埋めるに足る絶対的な力。


 国王は、エリックの心の揺らぎを見透かすように、さらに抗いがたい言葉を続けた。


「セレーネ……。

あの娘の死は実に悲劇じゃった。

じゃが、我らの力をもってすれば、それすらも覆せるやもしれんぞ?」


「なっ……!?」


「不可能ではない。

我らは魂の存在についても『調停者』から教えを受けた。

いつの日か彼女の魂をこの世に呼び戻し、新たな肉体を与え、再びその声を聞くことさえ……。

我らの仲間となれば、その奇跡さえも夢物語ではなくなるのじゃ」


 セレーネの、復活。

その言葉は、エリックの心の最も柔らかく、そして最も痛む部分を鋭い爪で抉った。


 彼女に、もう一度会える。

彼女に、謝罪し、そして……。

エリックの呼吸が激しく乱れた。


「そしてレオ……。

あの裏切り者は、いずれ我らの力によって必ずや裁きを受けることになる。

お主のその深い憎しみは必ずや晴らされるであろう。

我らは、お主の痛みも怒りも全てを理解し、そして肯定する」


 国王の言葉は、巧みだった。

セレーネへの愛。

レオへの憎しみ。

英雄としての孤独。

そして、人間を超えたいという根源的な欲望。

その全てを肯定し満たすと約束することで、エリックを自分たちの側へと引き込もうとしていた。


 エリックは激しく葛藤した。

目の前に広がるのは、世界の真実という名の絶望的な欺瞞。

そして、その絶望を忘れさせてくれる、抗いがたいほど魅力的な誘惑。


(セレーネが……生き返る……?)


(レオを……この手で……)


(俺は……神に……)


 彼の心は光と闇の間で、激しく引き裂かれていた。

国王はそんなエリックの葛藤を、まるで面白い芝居でも見るかのように冷たい瞳で見つめていた。

そして、彼の心が最も揺らいだその瞬間を狙い、最後の、そして最も冷徹な「引継ぎ事項」を、静かに、しかし絶対的な命令として告げた。


「無論、神となる者にはその資格を証明する最後の義務がある。

それは我らが築いたこの完璧な秩序を、いかなる脅威からも守り抜くことじゃ」


 国王の声は、もはや何の感情も含まない無機質な響きへと変わっていた。


「それは、この禁忌に、我らの計画に近づこうとする全ての不穏分子を、いかなる手段をもってしても、お主自身の手で完全に排除することを意味する」


国王はエリックの耳元に顔を寄せ、悪魔のようにその最後の言葉を囁いた。


「例えば、かつていたであろう、あの愚かで詮索好きな賢者……アルスのように。

もし今後、『空白の10年間』の秘密を探ろうとする者が現れたならば……」


「お主が、その手で殺すのじゃ」


 その言葉を聞いた瞬間。

エリックの脳裏に、背中に毒矢を受け、苦悶の表情で何かを訴えかけようとしていた親友アルスの最後の顔が、鮮烈に、そして無慈悲にフラッシュバックした。


(……ああ……そうか……)


(やはり……お前たちだったのか……)


彼の心の中で何かが、音を立てて砕け散った。

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