第148話:古文書の探索
王都に再び冬の帳が下りていた。
国王歴1013年の12月。
凍てついた空気が王宮の尖塔を白く飾り、街を行き交う人々の息もまた白い軌跡を描いては虚空へと消えていく。
エリックが王宮に迎え入れられてから、二年近くの歳月が過ぎようとしていた。
あの夏の日、国王たちの冷酷な本音を耳にしてから半年。
エリックの世界は、静かに、しかし決定的にその色合いを変えていた。
国王たちの前では、彼は依然として完璧な「次期後継者候補」を演じ続けている。
その忠誠心に一片の曇りもなく、その瞳には魔族への揺るぎない憎悪が燃え盛っているかのように。
彼の剣技はさらに磨かれ、その知識は深淵を覗くかのように深まった。
国王たちも貴族たちも、そして民衆も、誰も彼の仮面の下にある深い亀裂に気づく者はいなかった。
しかし、一人きりになった夜、その亀裂は彼の魂を苛む底なしの闇となる。
あの日に聞いた言葉が、呪いのように彼の耳から離れない。
『実に素直で扱いやすい駒よ』
『レオが、あのような形で『役に立って』くれるとは』
『英雄は、一人で十分じゃ』
国王たちの言葉は、彼がこれまで必死に信じようとしてきた世界の全てを嘲笑っていた。
セレーネの死。レオの裏切り。
その二つの悲劇によって成り立っているはずの彼の「正義」。
その土台そのものが、国王たちの言う「計画」という名の巨大な嘘の上に築かれた砂上の楼閣だったとしたら?
その疑念は、彼の心を蝕む猛毒だった。
そしてその毒は、彼が唯一の支えとしてきたレオへの憎しみという感情さえも、複雑で得体のしれないものへと変質させていた。
(レオ……お前は、本当に……)
憎い。憎いはずだ。
しかし、国王たちへの燃え盛るような不信感は、その憎しみの純粋さを奪い、代わりにどうしようもない混乱と、そして裏切られたはずの親友への、あってはならない共感のような感情さえも芽生えさせていた。
(お前もまた……あの男たちの「駒」だったというのか……?)
その思考は、あまりにも危険な劇薬だった。
エリックはその問いから逃れるように、日々の過酷な訓練と膨大な書物の中にその身を埋めるようにして没頭した。
そんな日々の中で、彼の記憶の底からふと一つの名前が亡霊のように蘇った。
(……アルス)
誰よりも聡明で、誰よりも真実を追い求めていた、あの賢者の姿。
王宮の書斎で老賢者との議論を終えた後の、静かな午後。
エリックは窓の外に広がる雪景色を眺めながら、無意識のうちにかつての親友の面影を追っていた。
アルスはいつも静かだった。
しかしその静けさは、無関心からくるものではない。
常に深く思考し、世界の理を、歴史の真実を、その探求心に満ちた瞳で見つめていた。
そして、エリックは思い出した。
アルスが魔王討伐の旅の道中、何度も、何度も口にしていたあの言葉を。
『空白の10年間』
当時のエリックは、そんな過去の歴史の謎よりも目の前の魔獣を倒し、一日でも早く魔王城へたどり着くことしか考えていなかった。
アルスが古文書の解読に没頭する横で、剣の手入れをしながら退屈そうにその話を聞き流していた記憶がある。
『エリック、おかしいとは思わないか?』
焚火の炎に照らされたアルスの横顔が、鮮明に蘇る。
『この10年間だけ、まるで歴史に巨大な穴が空いたように公式な記録がほとんど存在しないんだ。
人々は魔王との戦乱のせいだと言うが、それにしても不自然すぎる。
まるで、誰かが意図的に何かを隠しているようだ』
あの時の自分は、その言葉の意味を深く理解しようとはしなかった。
しかし、今。
国王たちへの決定的な疑念を抱いた今の彼にとって、その言葉はまるで天啓のように重く、そして鋭く響いた。
(アルス……お前は、気づいていたのか……?
この世界の、巨大な嘘に……)
その瞬間、エリックの心に一つの強い衝動が突き上げた。
知らなければならない。
アルスが何を追い求め、そしてなぜ死ななければならなかったのか。
その答えはきっと、あの『空白の10年間』の闇の中に隠されている。
その日の午後、エリックは後継者候補としての特権を初めて自らの意志のために行使した。
彼は王宮の最も奥深く、限られた者しか立ち入りを許されない禁断の領域……王立大図書館の「古文書保管庫」へとその足を踏み入れた。
表向きは「王としての教養を深めるため古代の法典を研究したい」という、誰もが感心するような理由を掲げて。
ひんやりとした空気が彼の肌を撫でる。
数百年分の知識の重みが埃の匂いと共に、空間そのものを支配していた。
天井まで続く書架には、羊皮紙やパピルスでできた古の書物がびっしりと並んでいる。
その一つ一つが、この国の、そしてこの世界の歴史を刻んできた声なき証人たちだ。
エリックは震える指で、一冊、また一冊と書物を手に取っていった。
公式の歴史書、各代の王の年代記、貴族たちの家系図……。
しかし、どこを探してもアルスが指摘した通り、『空白の10年間』にあたる国王歴990年から1000年にかけての記述は、恐ろしいほどに希薄だった。
あるのはただ、「魔族の侵攻激化」「王都防衛戦」「英雄の台頭」といった、大まかで感情のない見出しだけ。
その具体的な内容を示す記録は、まるで外科手術でくり抜かれたかのように存在しなかった。
(やはり……意図的に消されている……)
確信が、彼の背筋を凍らせる。
彼はさらに奥へ、より古く忘れ去られた書物が眠る区画へと進んだ。
松明の光だけが頼りの薄暗い通路。
その一番奥の書架の、埃を被った片隅で、彼は偶然一冊の古びた書物を見つけた。
それは公式な年代記ではない。
革の表紙はひび割れ、題名さえもかすれて読めない。
おそらくは名もなき一人の宮廷書記官が、誰にも知られず書き綴った個人的な日誌のようなものだろう。
エリックは震える手でそのページをめくった。
インクは色褪せ、文字はかろうじて判読できる程度だった。
そのほとんどは、日々の天候や宮廷での些細な出来事を記した他愛もない記録だった。
しかし、あるページでエリックの手がぴたりと止まった。
『国王歴990年、春。
天より、大いなる『災厄』が降り注ぐ。
王都はかつてない混乱に陥る。
王の記録官として、私はこの目で見た真実を記さねばならない。
しかし、畏れ多くも陛下より、この時代に関する一切の記録を禁じられた。
歴史が、我々の目の前で殺されようとしている……』
エリックの心臓が、警鐘のように激しく鳴り響いた。
彼は唾を飲み込み、次のページをめくる。
『……人々は何かを忘れさせられているかのようだ。
昨日まで友であったはずの魔の山の民(魔族)を、誰もが理由のない憎悪の目で見るようになった。
あの穏やかだった民たちが、なぜ一夜にして……。
この変化はあまりに突然で、不自然だ。
まるで悪夢を見ているかのようだ……』
そして、最後の一文がエリックの魂を根底から揺さぶった。
『……旧き王の血筋は、途絶えた。
新たに玉座に就かれた王の瞳には、人の温かみが感じられぬ。
まるで、何者かにその魂を乗っ取られてしまったかのようだ……』
そこで日誌の記述は、唐突に途絶えていた。
その書記官の身に何が起きたのか、知る術はない。
エリックは古文書を固く握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。
全身から血の気が引いていく。
断片的で曖昧な記述。
しかし、それはあの日に聞いた国王たちの会話と恐ろしいほどに符合していた。
「計画」「捨て駒」という言葉。
レオの裏切りを歓迎するかのような口ぶり。
そしてこの日誌が語る、王の交代、人々の感情の急変、そして記録の抹消。
(アルス……お前は、これに気づいていたのか……)
だからこそ彼は国王たちに危険視され、消されたのだ。
魔族との戦闘の混乱に乗じて、口を封じられた。
その悍ましい真実が、エリックの頭の中で一つの否定しようのない結論として形を結びつつあった。
彼の心の中で、点と点がゆっくりと、しかし確実に一本の線で結ばれ始めていた。
まだ、その線が描く全体像は見えない。
ただ、自分が立っているこの世界が巨大な嘘で塗り固められた偽りの舞台であるという確信だけが、彼の魂に深く、深く刻み込まれていった。
アルスの探求心は今や、エリック自身のものとなった。
(真実を、知らなければならない)
それがセレーネとアルス、そして裏切ったはずの親友レオ……
彼ら全員に対する、自分にできる唯一の償いではないのか。
彼は密かに、この世界の巨大な謎を自らの手で解き明かすことを固く決意した。
エリックは古文書を元の場所へと細心の注意を払って戻した。
そして何食わぬ顔で古文書保管庫を後にする。
しかし、彼の心には静かで、しかし決して消えることのない探求の炎が灯っていた。
英雄としての輝かしい仮面の下で、彼は反逆者にも等しい、真実へと続く孤独な道を今、歩み始めたのだ。
年が明け、国王歴1014年が始まろうとしていた。
国王たちが彼を後継者として認めるための最終段階の儀式が、間近に迫っている。
その時、自分に何が語られるのか。
そして、その時、自分はどう振る舞うべきなのか。