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第146話:心の奥の葛藤

 王都に厳しい冬が訪れていた。

凍てついた空気が街を支配し、王宮の庭園の木々は枯れ枝に雪の華を咲かせている。


 英雄エリックが次期後継者候補としての日々を始めてから、一年半以上の歳月が流れていた。

彼の日常はもはや完全に、一つの完璧な様式美となっていた。


 彼の剣は近衛騎士団の誰よりも鋭く、彼の知識は王宮のどの賢者よりも深い。

彼は国王たちの期待に応え、民衆が望む「英雄」であり続けた。

その仮面はもはや彼の第二の皮膚となり、その内側にある本当の顔を、彼自身でさえも忘れかけていた。


 しかし、夜の静寂だけは容赦なくその仮面を剥がしにかかる。


 貴族たちの、中身のない会話に嫌悪感を覚えたあの夏の夜会以来、エリックの孤独はさらにその深さを増していた。

彼は自らが守るべき世界の、その中心にいるはずの人間たちの浅薄さと無自覚な残酷さに、静かな絶望を感じていたのだ。


 そして、その絶望が彼の心の奥底に封印していた、最も見たくない記憶の扉をこじ開けようとしていた。


 時折、彼は夢を見る。

それはもはや、あの魔王城での血と裏切りの悪夢ではなかった。

むしろ、その逆。

あまりにも温かく、そしてあまりにも痛ましい、かつての親友の幻影。


 その夜も、エリックは深い眠りの底で過去の記憶を彷徨っていた。

夢の中の彼はまだ、勇者育成学校を卒業したばかりの希望に満ちた若者だった。


 魔王討伐の旅のまだ序盤。

彼らは東部平原を抜け、中央山脈へと続く険しい森の中を進んでいた。


 季節は秋の終わり。

冷たい雨が、何日も、何日も降り続いていた。

彼らの体力は容赦なく奪われ、食料も底をつきかけていた。


 その夜、彼らがようやく見つけた岩陰の小さな洞窟は雨漏りがひどく、焚火の炎もか細く揺れるばかりだった。


「……寒い」


 セレーネが小さな声で呟いた。

彼女は薄い毛布にくるまり、膝を抱えてぶるぶると震えている。

彼女の魔法も、この湿気と寒さの中ではその輝きを失っていた。


 アルスもまた疲労の色を隠せず、黙って炎を見つめている。

エリックは最後の食料である、手のひらほどの大きさの固い黒パンをじっと見つめていた。

四人で分けるにはあまりにも小さい。

自らの腹も空腹を訴え、ぐぅ、と情けない音を立てる。


(どうする……。これを分けても、気休めにしかならない……)


 その時だった。

洞窟の入り口から、ずぶ濡れになったレオが静かに姿を現した。

彼は仲間たちが眠っている間の見張りの役目を買って出ていたのだ。


「レオ……! 大丈夫か、ずぶ濡れじゃないか!」


 エリックが思わず声をかける。

レオは雨水を滴らせながら、いつものように屈託なく笑った。


「おう、平気平気。それより、ほら、これ食えよ」


 彼は懐から、大きな葉に包まれた何かを差し出した。

包みを開けると、中にはまだ温かい湯気を立てる焼かれた木の実と、数種類の食べられる根菜が入っていた。


「レオ、お前、これをどこで……?」

アルスが驚きの声を上げた。この雨の中、火をおこし食料を調達するなど至難の業だ。


「ああ、ちょっとそこの森でな。見張りついでに見つけてきたんだ」


 レオはそう言って、木の実をまず震えるセレーネの手にそっと握らせた。

「さあ、食えよセレーネ。体が温まるぞ」


 そして残りを、エリックとアルスの前に置いた。

「俺はもう腹一杯食ってきたから、お前たちで分けろよ」


 その言葉に、エリックははっとした。

嘘だ。

レオの顔は雨水だけではない、疲労とそして空腹で青白かった。

彼の唇は紫色に震えている。


 彼はこの冷たい雨と闇の中をたった一人で彷徨い、仲間たちのために必死に食料を探し回っていたのだ。

そして、見つけたわずかな食料の全てを、自分は一口も食べずに仲間たちに差し出している。


(……お前は、いつもそうだ)


 夢の中のエリックは、胸が締め付けられるような温かい、そして少しだけ悔しいような気持ちに包まれていた。


(お前はいつも、自分のことよりも俺たちのことを先に考える。見返りも求めず、ただ当たり前のようにその身を差し出す。それが、お前の……俺の、親友の……)


 夢の中のレオが、こちらを向いて笑う。

その笑顔はどこまでも優しく、そしてどこまでも真っ直ぐだった。


その瞬間、温かい洞窟の光景が、ぐにゃりと歪んだ。


 気づけばエリックは再び、あの魔王城の血に濡れた玉座の間に立っていた。

目の前にはセレーネの亡骸。

そして、その向こうに立つレオ。


 彼の顔は、あの洞窟で見た優しい親友の顔のままだった。

しかし、その瞳からは血の涙が止めどなく溢れ落ちていた。


『エリック……なぜ……?』


 レオの幻影が、悲痛な声で問いかける。

それは憎しみや怒りの声ではなかった。

ただ、どうしようもなく悲しい、困惑に満ちた魂の問いかけだった。


「……うわあああああああああっ!」


 エリックは絶叫と共に、ベッドから跳ね起きた。

全身は冷たい汗でびっしょりと濡れている。

心臓が警鐘のように激しく脈打っていた。


 窓の外はまだ、夜の闇に包まれていた。


「……はぁ……はぁ……また、あの夢か……」


 彼は震える手で額の汗を拭った。


 憎しみの楔で、無理矢理に心を繋ぎとめてきた。

レオは裏切り者だ。セレーネを殺した、許されざる敵だ。

そう、何度も、何度も自分に言い聞かせてきた。


 しかし、夢の中のレオの幻影は、その固い決意をいとも容易く揺さぶるのだ。


(あいつは裏切り者だ……! あの優しさも全て、俺たちを騙すための演技だったんだ……!)


 彼はそう心の中で叫んだ。

だが、あの冷たい雨の夜の記憶。

自らの空腹を顧みず、仲間たちのためにずぶ濡れになって食料を探し回っていた親友の姿。

あのどこまでも真っ直ぐだった瞳。


 あれが演技だったと、本当に言い切れるのか?


(何かが、違う……)


 国王たちが語る、単純な物語。

レオが魔族の力に魅入られ、仲間を裏切ったという分かりやすい筋書き。


(なぜ……なぜあんな男が、俺たちを裏切る? 力が欲しかった? 魔王に魅入られた?

そんな単純な理由で……あんな顔をするのか?

あの、全てを諦めたような悲しい顔を……)


 その問いが、彼の心の奥底で亡霊のように囁き続ける。


(一体、あの玉座の間で何があったんだ……?

俺の知らない、何かが……)


 彼は無意識のうちに、レオの行動のその「真意」について考え始めていた。

それは彼が英雄として、そしてセレー「ネの仇を討つ者として、決して足を踏み入れてはならない禁断の領域だった。


 もし、レオが裏切り者ではなかったとしたら?

その思考は、彼の存在そのものを根底から覆しかねない、あまりにも危険な劇薬だった。


 エリックはその問いから逃れるように、ベッドから這い出すと訓練用の剣を手に取った。

そして、月明かりだけが差し込む冷たい私室の中で、一人無心に剣を振り始めた。

風を切る鋭い音だけが、彼の乱れた心をかろうじて繋ぎとめていた。


 しかし、彼が振るう剣の軌道はもはや、憎しみだけではなかった。

その剣筋の奥に、かつての親友と共に切磋琢磨した日々の記憶が、幻影のように揺らめいていた。


 英雄の心に落とされた孤独の影。

その影は親友の幻影によってさらにその濃さを増し、彼を世界の真実へと続く新たな葛藤の闇へと、深く、深く引きずり込んでいく。


 彼の本当の戦いは、まだ始まったばかりだった。

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