第145話:王宮での日々
アースガルド大陸に、生命力に満ちた夏が再び訪れた。
王都は国王候補である英雄エリックの存在によって、かつてないほどの安定と繁栄を謳歌しているかのように見えた。
エリックが王宮での生活を始めてから、一年以上の歳月が流れていた。
彼の日常はもはや完全に、磨き上げられた「英雄」としての軌道に乗っていた。
朝、夜明けと共に始まる近衛騎士団長との訓練では、彼の剣筋は神速の域に達し、歴戦の騎士団長でさえも舌を巻くほどだった。
昼、王宮賢者との書斎での議論は国の未来を左右する政策提言にまで及び、その的確な洞察力は、老賢をして「陛下にはまこと得がたい後継者を見つけられた」と言わしめるほどだった。
彼はその全てを完璧にこなした。
周囲からの賞賛と期待に応えること。
それが、彼が自らに課した唯一の存在理由であるかのようだった。
しかし、その磨き上げられた輝きの裏側で、彼の魂の孤独は日増しにその影を深くしていた。
国王が語る、単純明快な「正義」。
自らの記憶に刻まれた、矛盾に満ちた「真実」。
その二つの間で、彼の心は静かに引き裂かれ続けていた。
その夜、王宮ではアースガルド国王の生誕を祝う盛大な夜会が催されていた。
大広間は無数の水晶のシャンデリアに照らされ、まるで昼間のような輝きに満ちている。
壁には色鮮やかなタペストリーが飾られ、楽団が奏でる優雅な音楽が集まった貴族たちの談笑と混じり合っていた。
エリックは国王から賜った豪奢な礼服に身を包み、その輪の中にいた。
彼は完璧な笑みを浮かべ、次々と挨拶に訪れる貴族たちに優雅な仕草で応じていた。
「おお、エリック様!
今宵もなんと凛々しいお姿か!」
「貴方様がこの国におられる限り、我らの平和は永遠に安泰ですな!」
聞こえてくるのは、耳障りの良い追従と賞賛の言葉ばかり。
一年という歳月は、貧しい孤児だった彼をこの華やかな世界の住人へと完全に変えたかに見えた。
しかし彼の内面では、このきらびやかな光景とは全く別の感情が渦巻いていた。
(……空っぽだ)
豪華な食事も美酒も、彼の舌にはまるで砂を噛むように、何一つ味を感じさせなかった。
貴族たちの、中身のない会話。
その一つ一つが、彼の心をうんざりとさせていた。
ここは、彼が命を懸けて守ろうとした世界の中心。
しかしその中心は、驚くほどに空虚で、そして冷たかった。
彼は人々の輪からそっと離れると、テラスへと続く大きな窓のそばに立った。
夜風が、火照った彼の頬を優しく撫でる。
その時、彼の耳に、すぐ近くで交わされる若い貴族たちの会話が飛び込んできた。
「聞いたか?
先日、西部の森林地帯で第三騎士団が魔族の巣を掃討したそうだ」
一人の派手な装飾を身につけた貴族が、楽しげに言った。
「我が従兄もその討伐隊に参加しておったが、実に見事な『狩り』だったと手紙に書いてあったぞ」
「狩り、ですと?
買い被りすぎですな」
もう一人の痩せた貴族が、軽蔑するように鼻を鳴らした。
「あれはもはや狩りなどという高尚なものではない。
ただの害虫駆除です。
汚らわしい獣を根絶やしにするだけの単純な作業ですな」
「全くですな」
三人目の肥えた貴族が、下卑た笑みを浮かべながらその言葉に同調した。
「そもそも情けをかけること自体が間違いなのですよ。
子供であろうと女であろうと、魔族は魔族。森ごと焼き払ってしまえばよろしいのです。
奴ら獣には、それがお似合いですわ」
その会話を聞いた瞬間、エリックの全身を冷たい、しかし激しい「嫌悪感」が貫いた。
(獣……? 害虫……?)
彼の脳裏に、あの魔王城で対峙した魔族たちの姿が鮮明に蘇った。
(彼らは……お前たちは、知らないのだ……)
王を守るため、その命を盾にした誇り高き親衛隊の姿を。
その瞳に人間と変わらない知性と、そして忠誠の光を宿していた、あの戦士たちの顔を。
(お前たちは、ただこの安全な王宮の中で聞きかじった話で、命を弄んでいるだけだ……!)
エリックは自分の中から、これまで感じたことのないほど冷たく深い怒りが湧き上がってくるのを感じた。
自分は彼らと同じ人間だ。
自分もまた、魔族を憎んでいる。
しかし、この貴族たちが口にする軽薄で無自覚で、そして残酷な憎悪は、彼が抱く悲しみと痛みを伴った憎悪とは全く異質のものだった。
それは、自分自身の足で戦場に立ち、敵の顔を見て仲間の死を看取った者と、安全な場所からただ石を投げるだけの者との、決定的な断絶だった。
「おお、これはエリック様!」
その時、若い貴族の一人がエリックの存在に気づき、媚びるような笑みを浮かべて近づいてきた。
「英雄である貴方様こそ、我々の意見に最も賛同してくださるでしょうな!
良い魔族とは、すなわち死んだ魔族のこと。違いありませんな?」
その言葉に、エリックは一瞬表情を凍りつかせた。
彼の心の中では、激しい嫌悪感の嵐が吹き荒れていた。
しかし、彼の顔には完璧な、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「……魔族の脅威は常に我々の傍らにあります。
平和を守るため、我々はいかなる時も警戒を怠ってはなりませんな」
それは完璧な、そして心のこもっていない、後継者候補としての模範解答だった。
貴族たちはその言葉に満足そうに頷くと、再び下卑た笑い声を上げながら、自分たちの空虚な会話へと戻っていった。
エリックは彼らに一礼すると、静かにその場を離れた。
夜会はまだ続いている。
しかし彼の心は、もはやこの場所に一瞬たりとも留まることはできなかった。
自室へと戻る、長い、長い廊下。
窓の外からは貴族たちの楽しげな音楽と笑い声が、微かに聞こえてくる。
その一つ一つが、彼の心を苛立たせた。
(これが……俺が守るべき、世界なのか……?)
彼は自問した。
(この、上辺だけの美しさで塗り固められた、欺瞞と無自覚な悪意に満ちた世界が……)
(セレーネ……お前は本当に、こんな世界を望んでいたのか……?)
その問いに答えはなかった。
あるのはただ、彼の心の中で日に日に大きく膨らんでいく孤独感と、そして満たされることのない深い渇望だけだった。
彼は自分の感覚が、この貴族社会と致命的にずれていることを痛感していた。
そして、そのずれこそが国王たちが語る単純な「正義」への、最初の、そして最も根源的な反逆の狼煙だったのかもしれない。
英雄は、その輝かしい仮面の下で静かに、そして確実に、自らが立つべき本当の場所を見失い始めていた。
彼の内面で渦巻く満たされない感情。
それはやがて、かつての親友の幻影を呼び覚まし、彼の心をさらなる葛藤の闇へと引きずり込んでいくことになる。