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第144話:国王たちの教えと矛盾

 アースガルド大陸に新たな年が訪れた。

王都は冬の澄み切った空気の中、新年を祝う静かな活気に満ちていた。


 英雄エリックが王宮に迎え入れられてから、早くも一年近くが過ぎようとしていた。

彼の生活は、完璧なまでに計算された輝かしい軌道の上にあった。


 朝靄の中、剣を振るう音は近衛騎士団の者たちさえも畏敬の念で見つめるほど、鋭さと力強さを増していた。

王宮賢者との議論では、古代の歴史から現代の政治情勢に至るまで驚異的な速さで知識を吸収し、老賢者を唸らせた。

貴族たちが集う夜会では、その礼儀正しい立ち振る舞いと英雄としての威厳で、誰もが彼に敬意を払った。


 彼は誰もが認める、完璧な「次期後継者候補」だった。

しかし、その完璧な仮面の下で彼の魂は、静かに、そして確実に蝕まれ続けていた。


 セレーネの影と、レオへの憎しみ。

そして、その憎しみの奥底に潜む、名状しがたい「違和感」。

それらが彼の孤独を、より一層深いものにしていた。


 その日、エリックはアースガルド大陸の国王に、再び「盟約の間」へと呼び出されていた。

他の大陸の王たちの姿はなく、そこにはアースガルド国王がただ一人、静かに座していた。

それは後継者候補であるエリックに対し定期的に行われる、「王としての教育」の一環だった。


「エリックよ、よく来たな」

国王の声は、慈愛に満ちた父親のようだった。


「お主の成長ぶりは実に目覚ましい。

その努力と忠誠心、我は心から誇りに思うぞ」


「もったいなきお言葉です、陛下」

エリックは深くその場に膝をついた。


「面を上げよ」


 国王はエリックに席を勧めると、ゆっくりと、そして重々しくその教えを説き始めた。

それはこれまで、何度も、何度も繰り返し語られてきた言葉だった。


「エリックよ、決して忘れるでない。

我ら人間社会の永続的な繁栄を脅かす、唯一にして絶対の脅威。それは魔族の存在じゃ」

国王の瞳には、揺るぎない確信の光が宿っていた。


「魔族とは、混沌と破壊を望む邪悪な種族。

彼らの心に、我らが持つような慈悲や理性は一片たりとも存在せぬ。

あるのはただ、我ら人間社会への飽くなき憎悪と嫉妬のみじゃ」

国王は壁にかけられた、アースガルド大陸の地図を指し示した。


「今、お主が魔王を討ったことで奴らは一時的にその力を弱めておる。

じゃが奴らは必ずや再び力をつけ、我らの平和を脅かしにくる。

故に我らは決して油断してはならん。

辺境で続く魔族の残党狩りは、我らの平和を守るための聖なる戦いなのじゃ」


 国王の言葉は単純で明快で、そして力強かった。

それは勇者育成学校で幼い頃から、彼の骨の髄まで叩き込まれてきた「正義」の教えそのものだった。


 エリックは静かにその言葉を聞いていた。

彼の頭は、国王の教えを完全に理解していた。


 そうだ、その通りだ。

魔族は悪なのだ。セレーネを殺し、レオを狂わせた邪悪な存在なのだ。


(そうだ……そのはずだ……)


 彼はそう自分に言い聞かせた。

しかしその時、彼の脳裏にあの魔王城での忌まわしい記憶が鮮明に蘇った。


(……獣……?)


 国王は魔族を、理性なき獣と呼んだ。

だが、エリックがあの玉座の間で対峙した魔王の親衛隊たちは、決して獣などではなかった。


 彼らの動きは統率が取れ、その瞳には明確な知性と、そして王を守るという強い忠誠心が宿っていた。

それは恐怖に駆られた獣のそれではない。

誇り高き王国の騎士が持つべき、気高い光だった。


(……憎悪……?)


 国王は、魔王が人間への憎悪の化身であったと語る。

だが、エリックが最後に見たあの瀕死の魔王の瞳。

そこに宿っていたのは、本当に憎しみだけだっただろうか。


 違う。

あれは、憎しみではない。

もっと深い、何か……。


 長い戦いに疲れ果てた王の、悲しみと諦観。

エリックには、そうとしか思えなかったのだ。


(そして……レオ……)


 国王はレオを、「魔族の悪意に染まった、哀れな裏切り者」と断じた。

その言葉は、エリックの心の中の憎悪の炎を再び燃え上がらせるはずだった。


(そうだ、あいつは裏切った。

あいつのせいで、セレーネは……)


 しかし、彼の思考はそこで行き詰まる。

脳裏に蘇るのは憎むべき裏切り者の顔ではない。

自分に剣を向けられ、絶望的な表情で何かを訴えかけようとしていた、かつての親友の悲痛な顔だった。


(あの瞳は、本当に悪に染まった者の瞳だったのか……?)


「……エリック? どうかしたのか?」


 国王の訝しげな声が、エリックを危険な思考の淵から現実に引き戻した。


「……いえ、何も。

陛下のありがたいお言葉を、改めて胸に刻んでおりました」


 エリックは慌てて平静を装った。

しかし彼の心の中には、これまで感じたことのない明確な「矛盾」の感覚が芽生え始めていた。


 国王が語る、単純明快な光と闇の世界。

魔族は絶対的な悪であり、人間は絶対的な善であるという物語。


 しかし、彼が自らの目で見て肌で感じてきた魔王城での現実は、それほどまでに単純なものではなかった。

そこには知性があり、誇りがあり、そして悲しみさえも宿した魔族たちの姿があった。


 この小さな、しかし決して無視することのできない「違和感」。

それは、国王たちの教えと自らの記憶との間に生じた、小さな亀裂だった。


 エリックはその亀裂から目を逸らした。

彼はその亀裂を自らの憎悪で必死に埋めようとした。

彼は国王たちが語る単純な物語を信じなければならなかった。


 そうでなければセレーネの死も、レオへの憎しみも、そして英雄としての自分自身も、全てが意味を失ってしまうからだ。


「よく理解してくれたようじゃな」

国王はエリックの返答に満足そうに頷いた。


「お主こそが我らの希望。

これからも、その純粋な正義の心を忘れるでないぞ」


 純粋な正義。

その言葉が、今のエリックにはどこか空虚に響いた。


 謁見が終わり、エリックは再び王宮の長い廊下を一人歩いていた。

彼の頭の中では、国王の言葉と自らの記憶がせめぎ合い、混乱の渦を巻いていた。


 彼はその混乱から逃れるように、足早に自らの私室へと戻った。

そして書斎の机に向かうと、一枚の白紙の羊皮紙をその前に広げた。


 ペンを握りしめ、何かを書くことでこの心の乱れを鎮めようとした。

しかし、彼のペンは宙を彷徨うばかりで、一つの言葉も紡ぎ出すことができない。


 彼の心は、もはや国王たちが与えた単純な物語の中には収まりきらなくなっていたのだ。


(何かが、違う……)


 その小さな違和感。

それは静かに、しかし確実に、彼の心の中で膨らんでいく。


 それは彼がこれまで必死に築き上げてきた、英雄という名の輝かしい仮面を、内側から突き破ろうとする真実の芽生えだったのかもしれない。


 エリックはペンを置くと、力なく椅子にもたれかかった。

窓の外では、冬の陽が静かに傾き始めている。


 その光景はあまりにも穏やかで、そして彼の心はあまりにも混沌としていた。

英雄の孤独は今、新たな葛藤の始まりによって、さらにその深さを増そうとしていた。

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