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第143話:セレーネの影、募る孤独

 アースガルド大陸に夏の盛りが訪れていた。


 王都は活気に満ち、人々は「英雄エリック」がもたらした偽りの平和を謳歌していた。

王宮でのエリックの新しい生活が始まってから、三ヶ月という月日が流れた。

彼は周囲の期待を一身に背負い、「次期後継者候補」という役割を完璧に演じ続けていた。


 朝は近衛騎士団長との剣の稽古で汗を流し、その剣技は日を追うごとに鋭さを増していった。

昼は王宮賢者との終わりのない問答の中で、政治と歴史の知識を深めた。

夜は貴族たちが集う華やかな晩餐会で、完璧な笑みを浮かべそつなく立ち振る舞った。

誰もが彼を称賛した。その若さ、その強さ、そして魔王を討伐したという揺るぎない功績。

彼は人間社会にとって、まさに光り輝く希望の象徴だった。


 しかし、その輝かしい仮面の下でエリックの心は、深い闇の中を一人彷徨い続けていた。

英雄として称えられる日々の中で、彼の魂は片時もあの魔王城の玉座の間から、離れることができなかったのだ。


 夜。

広大で静まり返った私室のベッドの上で、エリックは決まって同じ悪夢にうなされた。

目の前でセレーネが崩れ落ちていく。

自らの剣が彼女の胸を貫いている。


 いや、違う。

レオが自分の剣を弾いたのだ。

その軌道が逸れて……。


『レオ……エリック……私は……信じてた……』


  彼女の最期の言葉が、耳元で何度も、何度も繰り返される。

その度にエリックは、息詰まるような苦しさで目を覚ますのだ。


「……はぁっ……はぁっ……」

彼は冷たい汗で濡れたシーツを握りしめ、荒い呼吸を繰り返した。


 窓から差し込む月明かりが、豪華な部屋の調度品をまるで墓石のように冷たく照らし出している。

民衆の歓声はここには届かない。代わりに彼の心を支配するのは、どこまでも深く、そして冷たい孤独の静寂だけだった。


(なぜだ……)

彼は震える手で顔を覆った。


(なぜ俺は、セレーネを守れなかった……?)

その問いはすぐに、燃え盛るような憎悪へと姿を変える。


(レオ……! あいつが裏切らなければ……!

あいつが魔王を庇ったりしなければ、セレーネは死なずに済んだんだ!)


 そうだ。悪いのは全てレオなのだ。

親友を、仲間を裏切り、魔族に魂を売ったあの男が。


 エリックはそう自分に言い聞かせた。

その憎しみだけが彼の心を、罪悪感という名の深淵からかろうじて引き上げてくれる唯一の鎖だった。

彼はその鎖に必死に、そして盲目的にすがりついていた。


 しかし、心の奥底でどうしても消し去ることのできない、小さな棘のような「違和感」が彼の魂をじわじわと蝕み始めていた。


(本当にそうなのか……?)


 昼間、王宮の広大な図書館で彼は一人、歴史書を読みふけっていた。

国王たちから与えられた「後継者としての教養」の一環だった。

そこに記されているのは彼が勇者育成学校で学んだ通りの完璧な物語。

すなわち「魔王は絶対的な悪であり、魔族は世界を混沌に陥れる邪悪な存在である」という単純明快な歴史。


 しかしエリックの脳裏には、あの時の瀕死の魔王の姿が焼き付いて離れなかった。

確かにその力は圧倒的だった。

だが、その瞳に宿っていたのは書物に描かれるような狂気や破壊衝動ではなかった。

むしろそれは深い悲しみと、何かを諦めたかのような静かな光だった。


(そして……レオ……)

彼は無意識のうちにペンを握る手に力がこもる。


(あの時のレオは狂気に満ちてはいなかった。

むしろ何かに必死に耐えているようだった。

俺の剣を弾いたあの瞬間……彼の瞳には憎しみではなく、悲しみと、そして何かを訴えかけるような絶望の色が浮かんでいた……)


 ドクンと心臓が大きく跳ねる。


(いや、何を考えているんだ、俺は!)

エリックは激しく頭を振って、その危険な思考を心の奥底へと無理矢理に押し込めた。


(あいつは裏切り者だ。セレーネを見殺しにした。

それだけが真実だ。

それ以外の可能性など、あってはならない……!)


 もし、レオの行動に何か別の意味があったとしたら?

もし、自分が見ていた世界が全てではなかったとしたら?

その疑念は彼が英雄として立っている、その足元そのものを崩壊させかねないあまりにも危険な問いだった。


 その問いから逃れるように、彼はレオへの憎しみを自らの心の中でさらに燃え上がらせた。

彼は訓練場へ向かうと、まるで何かに取り憑かれたかのように木の人形相手に剣を振り続けた。

突き、払い、斬り裂く。 その一つ一つの太刀筋に、レオへの殺意にも似た憎悪が込められていた。


「はぁっ!

はぁっ! はあっ!」


 彼の荒い息遣いと剣が空を切る音だけが、静かな訓練場に響き渡る。

木の人形がもはや原型を留めないほどに破壊されても、彼の剣は止まらなかった。

彼は憎むことでしか前に進めなかった。

彼は憎むことでしか、セレーネの死という耐えがたい現実から目を逸らすことができなかったのだ。


 国王たちや王宮の貴族たちは、そんな彼の姿を「英雄としての弛まぬ努力」と賞賛した。

しかし、その実態はただ壊れかけた心を憎悪という名の楔で、かろうじて繋ぎとめているだけの痛ましい姿でしかなかった。


 彼は誰にも、その心の内の苦しみを打ち明けることができなかった。

国王たちや貴族たちが聞きたいのは、英雄としての輝かしい武勇伝だけだ。

レオの裏切りをいかにして打ち破ったかという、単純な物語だけだ。

彼の心に渦巻くこの複雑な感情や、矛盾した記憶について語ることなど、許されるはずもなかった。


(俺は……一人だ……)


 夜、再び広大な私室のバルコニーに立ち、彼は王都の夜景を見下ろした。

無数の灯りがまるで星々のようにきらめいている。

その一つ一つの灯りの下で、人々は英雄エリックがもたらした平和を信じ、眠りについている。

その光景はあまりにも美しく、そして彼にとってはあまりにも孤独だった。


 彼は懐から、古びた一枚の羊皮紙を取り出した。

それは彼が無意識のうちに描いてしまった、一枚の絵だった。

勇者育成学校の、あの頃。 まだ何も知らず、ただ英雄になることを夢見ていた三人の少年少女の姿。

屈託なく笑うレオ。 少しだけはにかむように微笑むセレーネ。

そして、その二人の真ん中で誇らしげに胸を張る自分自身。


 ぽつりと、一枚の冷たい雫がその絵の上に落ちて、インクを滲ませた。

それが自分の涙であることに、エリックはしばらく気づかなかった。

彼は慌ててその絵をぐしゃりと握り潰した。

まるで自らのあってはならない弱さを、誰にも見られまいとするかのように。


 彼は顔を上げ、王都の遥か彼方、闇に沈むモルグ・アイン山脈の方角を睨みつけた。


(俺はお前を憎むことでしか、前に進めないんだ……レオ……)


(お前を完全な悪として断罪することでしか、セレーネの死に意味を与えることができないんだ……)


 その瞳には深い悲しみと、そして自らが選んだ孤独な道を進むしかないという悲痛な決意が宿っていた。

憎しみを唯一の道標とし、英雄エリックは光り輝く孤独の中を、ただ一人歩き始めた。

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