第142話:次期後継者候補
数ヶ月にわたって大陸全土を熱狂の渦に巻き込んだ壮大な凱旋式が、ついにその幕を閉じた。
英雄エリックの名はもはやアースガルド大陸の辺境の村々に至るまで、知らぬ者はいないほどの伝説となっていた。
最後の凱旋式が終わり、民衆の歓声が遠ざかった王宮の夜。
エリックは国王の側近に導かれ、冷たく、そして静まり返った王宮の奥深くへとその歩みを進めていた。
大理石の床に響く自らの足音だけが、やけに大きく聞こえる。
その一歩一歩が、彼をもはや後戻りのできない新たな運命へと引きずり込んでいくかのようだった。
彼が通されたのは玉座の間ではなかった。
そこはより私的で、しかし玉座の間以上に重厚な空気が支配する「五大陸の盟約」の間と呼ばれる特別な謁見室だった。
部屋の中央には巨大な円卓が置かれ、その周りには五つの豪奢な椅子が並べられている。
そのうちの一つ、最も荘厳な意匠が施された椅子にはアースガルド大陸を統べる国王が静かに腰を下ろしていた。
そして残りの四つの椅子にもまた、それぞれ異なる文化圏の衣装をまとった威厳に満ちた王たちが座していた。
彼らこそがこの星の人間社会を束ねる、四つの大陸の王たち。
アースガルド大陸で魔王討伐という歴史的な偉業が成し遂げられたことを受け、彼らはこの重要な日のために遥々海を越えて集結していたのだ。
その五人の王の視線が、一斉に部屋に入ってきたエリックへと注がれる。
それは英雄を称える温かい眼差しであると同時に、一つの駒の価値を冷徹に見定めるかのような鋭い光を宿していた。
「……英雄エリック、ただいま参上いたしました」
エリックは円卓の中央に進み出ると、深くその場に膝をついた。
「面を上げよ、エリック」
アースガルドの国王が、穏やかでしかし有無を言わさぬ響きを持つ声で言った。
「お主の功績はもはや言葉で称えるにはあまりにも大きい。
お主の武勇は、このアースガルド大陸のみならず我ら五大陸の全ての人間の未来を暗黒から救ったのだ」
他の四人の王たちも次々と称賛の言葉を口にする。
「まさに歴史に名を残す偉業じゃ」
「お主のような若者が我らの時代に現れたことを、神に感謝せねばなるまい」
彼らの言葉はエリックの胸に、重く、そしてどこか空虚に響いた。
(栄光……。これが俺が手に入れたものか……)
彼の脳裏に、セレーネの血に濡れた最後の微笑みが鮮明に蘇る。
(セレーネ……もしお前が生きていたら……。
この栄光をお前と共に、分かち合えただろうか……)
その痛みをかき消すかのように、今度はレオのあの裏切りの瞬間の顔が彼の心を焼く。
(レオ……お前は全てを裏切り魔族に堕ちた。
だが俺は違う。
俺はセレーネの遺志を継ぎ、人間を守る英雄としてこの道を歩む。
お前が決して届かぬ高みへ……!)
憎しみ。
それだけが今の彼を支える唯一の感情だった。
「エリックよ」
アースガルドの国王が再び口を開いた。
その声には先ほどまでとは異なる、厳粛な響きが込められていた。
「我ら五大陸の王は常に、我らの跡を継ぎ人間社会を導く次代の後継者を探し求めておる。
それはこの世界の平和と秩序を永続させるための、我らに課せられた最も重要な責務じゃ」
国王はゆっくりと立ち上がると、エリックの前に歩み寄った。
「そして我ら五名は全会一致で決定した。
お主、英雄エリックを我ら五大陸の王の『次期後継者候補』の一人として指名する、と」
「……っ!?」
エリックはその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
次期後継者候補。
それは貧しい孤児であった彼が、夢にさえ見ることのなかったあまりにも途方もない地位だった。
「お主には本日よりこの王宮に住まい、我らが後継者に相応しい最高の教育を受けてもらう。
剣術、戦術はもとより、政治、歴史、経済、そして王族としての気品と作法。
その全てをお主には学んでもらうことになる」
それは単なる厚遇ではなかった。
彼を英雄という象徴から未来の支配者へと作り変えようという、国王たちの明確な意志の表れだった。
エリックは激しく動揺した。
しかし彼の心の中で、一つの強い思いがその動揺を打ち消した。
(これが……俺がセレーネのために、できること……)
彼女が命を懸けて守ろうとしたこの世界。
その世界を今度は自分が王として導き、守っていく。
それこそが彼女の死に意味を与える唯一の道ではないのか。
そしてそれは魔族に堕ちた裏切り者レオへの、何よりの復讐となるだろう。
エリックは顔を上げた。その瞳にはもはや迷いはなかった。
悲しみと憎しみを強固な決意へと変えて、彼は国王たちの前に再び深く頭を垂れた。
「……謹んでお受けいたします。
このエリック、身命を賭して国王陛下がたのご期待に応える所存です」
その言葉に、五人の王たちは満足そうに深く頷いた。
彼らの計画の最も重要な駒が、今完全にその手中に収まったのだ。
その日からエリックの人生は一変した。
彼には王宮の中に広大で豪華な私室が与えられた。
窓からは彼がかつて手を振った、王都の美しい街並みが一望できた。
しかし彼にその景色をゆっくりと眺める時間は与えられなかった。
朝は近衛騎士団の団長との一対一の剣術の稽古。
昼は王宮筆頭の賢者による、歴史と政治学の難解な講義。
午後は宮廷作法や外交儀礼に関する、息の詰まるような訓練。
夜は貴族たちが集う、華やかでしかし腹の探り合いに満ちた晩餐会への出席。
それは英雄を育てるための教育ではなかった。
それは国王たちの意のままに動く完璧な「人形」を創り上げるための、緻密な洗脳の過程だった。
エリックはその全てを驚くべき速さで吸収していった。
彼の心にあるセレーネへの悲しみとレオへの憎しみ。その二つの激しい感情が、彼を超人的な努力へと駆り立てていた。
彼は誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで剣を振り、書物を読みふけった。
貴族たちとの会話では完璧な笑みを浮かべ、その心の内を決して誰にも見せることはなかった。
周囲の者たちはそんな彼を賞賛した。
「さすがは英雄エリック様だ」
「あれほどの功績をあげながら少しも驕ることなく、あれほどまでに努力をされるとは」
「彼こそが我らの未来を託すに相応しい」
エリックはその賞賛の言葉を、まるで遠い世界の出来事のように聞いていた。
彼はただ与えられた役割を全うしようと決意していた。
悲しみを、憎しみを忘れるために。
そして英雄という輝かしい仮面の下に、自らの空っぽの心を隠すために。
数週間が過ぎ、彼が王宮での生活にようやく慣れ始めた頃。
ある夜エリックは、広大な自室のバルコニーに立ち、一人静かに月を見上げていた。
眼下には宝石を散りばめたような、王都の夜景が広がっている。
民衆の歓声はもはや聞こえない。
代わりに彼の心を支配するのは、どこまでも深く、そして冷たい静寂だけだった。
(これが俺が手に入れたものか……)
彼はそっと自らの胸に手を当てた。 そこにあるのは栄光でも満足感でもない。
ただ、ぽっかりと大きな穴が空いたような途方もない空虚感だけだった。
(セレーネ……お前のいない世界で、俺は一人この栄光という名の孤独を生きていく……)
英雄という光り輝く頂で、彼の魂は凍てついていた。その孤独な闇の深さを知る者は、彼自身をおいて他に誰もいない。