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第141話:英雄の帰還

 時は遡る。


 レオの息子リオが異星人の密偵によって攫われる、あの悲劇の日から遥か十五年も前のこと。 アースガルド大陸は一つの大きな熱狂に包まれていた。


「魔王は討伐された!」


 その一報は瞬く間に大陸全土を駆け巡り、長年にわたる魔族の脅威に怯えていた人間たちを歓喜の渦に巻き込んだ。

その熱狂の中心にいたのは、一人の若者だった。

彼の名はエリック。

魔王城からただ一人、生還した勇者。


 モルグ・アイン山脈の麓、人間たちの王国の国境検問所にその姿を現した時の彼は、もはや英雄のそれとはかけ離れていた。

身にまとった鎧は至る所が砕け散り、その隙間からは乾いた血と泥が覗いている。

顔は疲労と絶望によって深くやつれ、その瞳にはもはや何の光も宿ってはいなかった。


 彼はただよろめく足で、凍てついた大地を踏みしめていた。

その脳裏には地獄のような光景が、何度も、何度も繰り返し再生されていた。

玉座の間。 瀕死の魔王。

そして……親友の、裏切り。


(なぜだ、レオ……)

彼の心は、その問いだけで埋め尽くされていた。


(なぜ俺たちを裏切った? なぜ魔王を庇った?

セレーネは……お前のせいで死んだんだ……!)


 憎しみと悲しみ、そしてどうしても消し去ることのできない深い困惑。

その感情の嵐が、彼の魂を内側から引き裂いていた。


 彼を発見した国王軍の騎士たちは最初、その姿があの勇者エリックであるとは信じられなかった。

しかし彼が持つ光を失った聖剣と、その虚ろな瞳の奥に宿る紛れもない勇者の気配に、彼らは息を呑んだ。


「エリック様! ご無事でしたか!」


「魔王は……魔王はどうなったのです!?」


 騎士たちの問いかけに、エリックはかろうじて顔を上げた。

そしてその乾いた唇から、この世界の歴史を決定づける最初の「偽り」が紡ぎ出された。


「……魔王は……俺が倒した」

彼の声はかすれていた。


「セレーネは……仲間を守るために命を落とした。

そして……レオは……」

エリックはそこで一度言葉を切った。


レオの名を口にするだけで、彼の心に燃え盛るような憎悪の炎が再び燃え上がった。


「レオは我々を裏切った。

あいつは……魔族に寝返ったんだ」


 その言葉は彼の悲しみと憎しみが、そして異星人によって巧みに仕組まれた偽りの記憶が見せた、一つの「真実」だった。

エリック自身その言葉を心の底から信じていた。

そうでなければ彼の心は、セレーネを失いレオに裏切られたという耐えがたい現実に、押し潰されてしまっていただろう。


 エリックの報告はすぐに、五大陸の国王たちの元へと届けられた。

彼が中央王国の王都へと帰還した時、そこには国王たち自らが出迎えるという異例の歓迎が用意されていた。


「おお、エリック!

よくぞ生きて戻った!」


「よくぞ魔王を討ち滅ぼしてくれた!

お主こそ、この大陸を救った真の英雄じゃ!」


 国王たちは代わる代わるエリックの手を取り、その功績を大仰な言葉で称えた。

その顔には慈愛に満ちた笑みが浮かんでいる。

しかしその瞳の奥には、彼らの計画が完璧に成功したことへの冷たい満足の色が浮かんでいた。

もちろん、憎しみと悲しみに心を支配されたエリックには、そのことに気づく術はなかった。


 国王たちはエリックが語るレオの「裏切り」の物語に、芝居がかった驚きと怒りの表情を見せた。


「なんということじゃ……。

あのレオが魔族に魂を売るとは!」


「許せん! レオはもはや人間ではない!

全人類の裏切り者じゃ!」


こうして「英雄エリック」の誕生と「裏切り者レオ」の物語は、国王たちの権威によって公式の歴史として大陸全土へと布告された。


 それからの日々はエリックにとって、まるで夢の中にいるかのようだった。

彼の帰還を祝う壮大な凱旋式が、大陸中の主要な都市で次々と開催されたのだ。


 黄金の装飾が施された壮麗な馬車の上。

民衆からの熱狂的な歓声と、降り注ぐ色とりどりの花びら。

誰もが彼の名を呼び、涙を流してその功績を称えた。


「英雄エリック!」


「我らの救世主!」


「ありがとう、エリック様!」


 エリックはその歓声の渦の中で、ただ虚ろな笑みを浮かべて手を振り続けた。


(歓声が……遠い……)


 彼の耳には民衆の声は、まるで分厚い壁の向こう側から聞こえてくるようにぼんやりとしか届いていなかった。


(彼らは俺を英雄と呼ぶ。だが俺は何も守れなかった。

セレーネも、レオとの友情さえも……。

俺は英雄などではない。ただの……敗北者だ)


 英雄という輝かしい仮面の下で、彼の心は深い孤独と罪悪感に苛まれていた。


 セレーネの最期の言葉が、何度も脳裏に蘇る。


『信じてた……、あなたたちを……そして、この世界を……』

彼女は何を信じていたというのか。

自分は彼女の信頼に応えることができたのか。


 そして、レオ。

憎い。心の底から憎い。


 しかしなぜだろう。

憎めば憎むほど彼の脳裏に蘇るのは、かつて共に笑い合った親友としてのレオの姿ばかりだった。

あの時、玉座の間で彼が自分に向けた悲痛な表情。

それは本当に、裏切り者の顔だったのだろうか。


(いや、違う!)

エリックは頭を振って、その疑念をかき消した。


(あいつは裏切ったんだ。

あいつがセレーネを殺したんだ。

そうでなければ、俺は……俺はどうすればいいんだ……)


 彼はレオへの憎しみに必死に縋りついた。

その憎しみだけが彼の心を正気の淵で、かろうじて繋ぎとめている唯一の楔だった。


 彼は民衆が求める「英雄」を完璧に演じなければならなかった。

国王たちが期待する「救世主」として振る舞わなければならなかった。

それがセレーネの死を無駄にしないための唯一の道だと、彼は信じていた。


 夜、豪華な王宮の一室で彼は一人、悪夢にうなされた。

セレーネが何度も、何度も自分の目の前で死んでいく。

そしてレオが血の涙を流しながら、自分に何かを訴えかけてくる。

その度に彼は憎しみを自らの心に、深く、深く刻み込むのだった。


 凱旋式は数ヶ月にわたって続いた。

エリックの名は大陸の隅々にまで知れ渡り、吟遊詩人たちは彼の武勇伝を歌い、子供たちは英雄エリックの人形を手に遊ぶようになった。

彼は誰もが認める、国民的な英雄となったのだ。


 そして最後の凱旋式が中央王国の王都で盛大に執り行われた、その日の夜。

エリックは王宮のバルコニーに立ち、眼下でいつまでも鳴りやまない民衆の歓声を見下ろしていた。

その光景はあまりにも華やかで、そして彼の心はあまりにも孤独だった。


 その時、背後から静かな声がかけられた。


「エリック様」

振り返るとそこにいたのは、国王の側近である一人の侍従だった。


「国王陛下があなた様にお会いしたいと。

今後の……あなた様の処遇について、重要なお話があるとのことにございます」


 エリックは無言で頷いた。

英雄としての役割は終わった。

ここからは、その「英雄」に与えられる新たな役割が始まるのだ。


 彼は民衆の歓声に背を向け、冷たく、そして静まり返った王宮の奥深くへとその歩みを進めた。

彼を待ち受けるのが栄光なのか、それともさらなる孤独と欺瞞なのか。


 その時の彼にはまだ、知る由もなかった。

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