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第140話:密偵の影、攫われた希望

 古代の盟約の地で魔族連合軍が一時解散を決定してから、八年という長い歳月が流れていた。


 世界は表面的には静かだった。

異星人たちの本格的な侵攻はなく、人間たちの王国は相変わらず「魔王は討伐された」という偽りの平和を謳歌し、その矛先を散り散りになったはずの魔族の残党へと向けていた。

しかし水面下では、レオが下した決断の通り、静かでしかし着実な戦いの準備が大陸全土で進められていた。


 魔族たちはそれぞれの故郷へと戻り、レオの指揮のもと来るべき最終決戦に備えていた。

それはもはや単なる軍事訓練ではなかった。


 凍土の民はモルグ・アイン山脈の厳しい環境を利用し、異星人たちの拠点を探るための特殊な斥候部隊を育成した。


 密林の民は精霊の力を借りて、異星人たちの技術を無効化するための古代の呪術を復活させようと試みていた。


 砂漠の民はゲリラ戦に特化した少数精鋭の部隊を組織し、いつでも敵の背後を突けるよう牙を研いでいた。


 そして東部平原のゴウキやゼノンは、大陸中に張り巡らせた独自の連絡網を駆使し、人間社会の動向と異星人たちの不穏な兆候を常に監視し続けていた。


 彼らはレオとリリスという王と姫、そしてリオという未来の象徴の下、一つの目的のためにその力を蓄え続けていたのだ。


 レオとリリスもまたこの八年間、決して穏やかなだけの日々を過ごしていたわけではなかった。

彼らはエルトリアの森のさらに奥深く、幾重にも魔法の結界を張った誰にも知られぬ隠れ里を拠点とし、大陸全土の魔族たちを遠隔で指揮していた。


 レオは竜王の元で体得した星のエーテルと共鳴する力をさらに高め、その力はもはや一個人の魔力を遥かに超越した、神の領域に近づきつつあった。

そして、彼らの傍らには次代の希望……息子リオの姿があった。


 八歳となったリオは、レオとリリスの双方の優れた才能を色濃く受け継いでいた。

その瞳にはレオと同じ、他者の心の痛みを理解する深い共感力が宿り、その身にはリリスと同じ、旧世界の王の気高さと強大な魔力が流れていた。


 昼間はレオから直接剣術の指導を受ける。

子供とは思えぬ鋭い剣筋は、父であるレオをも驚かせるほどだった。


 夜はリリスから魔族の古い歴史と、魔法の深淵について学ぶ。彼の知的好奇心は尽きることなく、その知識の吸収力は母であるリリスを喜ばせた。


「まったく、剣の才能は父親譲りで、頭の良さは母親譲り。

完璧じゃないの、この子は」


 リリスはリオの頭を撫でながら、レオに向かって得意げに鼻を鳴らした。

「貴方と違って、将来が楽しみだわ」


「ははは、そうだな」

 レオはそんな二人の姿を、心からの愛情を込めて見つめた。


 この八年間は彼にとって、魔王としてではなく一人の父親としてかけがえのない幸せな時間だった。

リルもまたリオの最高の遊び相手であり、そして誰よりも信頼できる守護者として常に彼の傍らに寄り添っていた。


 この平和が永遠に続けばいい。

だが、レオもリリスも、そして聡明なリオ自身も薄々気づいていた。

この静かな日々は嵐の前の、束の間の凪でしかないということを。


 その予感は、最悪の形で現実のものとなる。


 アースガルド大陸、中央王国。

玉座に座る国王の前に、影のようなローブを纏った一人の人間が静かに膝をついていた。


 国王の瞳は虚ろだった。

その魂は十年前に異星人によって完全に支配され、もはや彼自身の意志はどこにも存在しなかった。


『……時は満ちた』


 国王の口から人間のものではない、冷たく無機質な声が響いた。

それは彼の体を依り代とした、異星人の司令官の声だった。


『我らの準備は最終段階に入った。

じゃが、その前に一つ邪魔な『光』を消しておく必要がある』


「御意のままに、我が主よ」

 影の男……

国王が最も信頼する密偵は、感情のない声で答えた。


『新魔王レオ。奴の動きは我らの想定よりも遥かに厄介じゃった。

奴が大陸中の魔族どもを再び結束させようとしておる。

百年前の過ちを繰り返すわけにはいかん』


 異星人たちはレオの動きを、完全に察知していたのだ。


『奴の最大の弱点は分かっておるな?』


「はっ。魔王の息子……リオ、にございます」


『うむ。その『希望』とやらを我らの元へ連れてまいれ。

光は深い絶望の闇に沈んだ時、最も脆くなるものよ』


「御意」

 密偵は静かに頭を下げると、音もなくその場から姿を消した。


 彼の影が消えた玉座の間には、異星人の冷たい満足げな笑い声だけが、不気味に響き渡っていた。


 数日後、エルトリアの森の隠れ里に、その影は静かに忍び寄っていた。

密偵は魔族たちが築いた幾重にも重なる警戒網を、まるで存在しないかのようにすり抜けていた。

彼の隠密能力はもはや人間の域を超えていた。


 その日、リオは一人で隠れ里の近くにある小さな泉へと向かっていた。

そこは彼のお気に入りの場所で、レオからもリリスからも決して遠くへは行かないという約束のもと、一人で訪れることを許されていた場所だった。


 リルの小さな光が、彼の後を楽しげに追いかけていた。

リオが泉のほとりで水面に映る自分の顔を眺めていると、ふと背後の茂みがかすかに揺れた。


「……誰?」

 リオはレオから教わった通り警戒しながら、小さな木の枝を剣のように構えた。


 茂みから現れたのは、傷ついた一匹の小鹿だった。

その足からは血が流れ、苦しげな息をしている。


「……大丈夫かい?」

 リオは警戒しながらも、その小鹿に優しく声をかけた。

彼の共感力は動物の痛みさえも感じ取ることができた。


 小鹿は怯えたような瞳でリオを見つめていた。

リルがリオの肩にとまり、心配そうに小鹿を見つめている。


 リオはゆっくりと小鹿に近づき、その傷ついた足にそっと手を伸ばした。


 それが油断だった。


 小鹿の姿が陽炎のように歪んだかと思うと、次の瞬間それは黒いローブを纏った一人の男の姿へと変わっていた。


「しまっ……!」

 リオが叫ぶよりも早く、密偵の手が彼の口を塞いだ。


 リルが危険を察知し鋭い光を放って密偵に抵抗しようとするが、密偵が懐から取り出した黒いエーテル結晶がその光をいとも容易く吸収してしまう。


「……っ!」

 リルは力を吸い取られ、小さな光の粒子となってその場にはかなく消えた。


「リル!」

 リオの悲痛な叫びは密偵の手によって、声になることはなかった。


 密偵は抵抗するリオの首筋に手刀を打ち込むと、ぐったりとしたその体を音もなく担ぎ上げた。


「任務、完了」


 密偵はそう呟くと、再び影の中へと溶けるようにその場から完全に姿を消した。


 泉のほとりにはリオが落とした、小さな木の枝だけが静かに残されていた。


 レオとリリスがリオの異変に気づいたのは、それからわずか数分後のことだった。

いつもならすぐに帰ってくるはずの息子が、戻ってこない。

胸騒ぎを覚えた二人が泉へと駆けつけると、そこには信じがたい光景が広がっていた。


 消えかかったリルの光の粒子。


 リオが落とした木の枝。


 そして地面に残された、見たこともない人間のものと思わしき一つの足跡。


「……リオ……?」

 リリスの声が震えた。


「リオオオオオオオオオッッ!!」

 レオの絶叫が、エルトリアの森全体を揺るがした。


 それは王としての、あるいは英雄としての叫びではなかった。

ただ、愛する我が子を奪われた一人の父親の、魂からの慟哭だった。

彼の絶叫に呼応するように、彼の全身からこれまで抑え込んできた覚醒した魔力が、制御不能な奔流となって溢れ出した。


 周囲の木々がなぎ倒され、大地が裂け、空には暗雲が渦を巻く。


「人間……!」

 リリスの瞳から、涙が血のように流れ落ちた。


「やはり信じるのではなかった!

あいつら全員……皆殺しにしてやるッ!!!!」


 彼女の母としての愛情は、今この星の全てを焼き尽くすほどの凄まじい憎悪へと転化していた。


 レオとリリスの絶望と怒りの波動は、大陸中に張り巡らせた魔族の連絡網を通じて瞬く間に全ての同胞たちへと伝わった。

凍土で、密林で、砂漠で、そして東部平原で、静かに力を蓄えていた魔族たちが一斉に怒りの咆哮を上げた。


 八年という歳月をかけてレオとリリスが辛うじて築き上げてきた、人間へのかすかな信頼。

それはこの日この瞬間、異星人たちのあまりにも卑劣で残虐な策略によって、完全に、そして決定的に打ち砕かれた。


 もはや対話の余地はない。

 もはや共存の道は閉ざされた。

 レオの瞳からかつての優しさは完全に消え失せていた。

そこにあるのは我が子を奪った全ての敵を、この世から消し去るという冷たく、そして絶対的な破壊の意志だけだった。

 

 アースガルド大陸は今、真の絶望の淵へと突き落とされようとしていた。

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