第136話:魔族の軍勢
古代の盟約の地にアースガルド大陸中の魔族たちが集結してから数日が過ぎた。
あの日の谷を揺るがした歓喜の雄叫びは、今や新たな時代の始まりを告げる、静かで、しかし力強い熱気へと変わっていた。
丘の上から眼下に広がる無数の焚火の光を見下ろしながら、レオは自らが背負うことになった責任の重さを改めて実感していた。
一つ一つの光は魔族たちの家族の灯りであり、彼らの命そのものだった。
(これが……俺が背負うもの……。
彼らの未来、彼らの命、その全てが今俺の双肩にかかっている)
その夜リリスに背中を押された彼の瞳には、もはや迷いはなかった。
魔族たちの未来を導く者として、新しい世界を創造するという燃え盛るような決意が宿っていた。
翌朝、レオは大陸中から集まった各部族の長たちを丘の上の広場へと招集した。
凍土の族長、密林の長老、砂漠の民の代表、そして東部平原のゴウキとゼノン。
彼らはレオの前に静かに並び、新たな王の言葉を待っていた。
かつてバラバラだった魔族たちは今、レオとリリスの指揮のもと新しい世界を創造するための、一つの強大な力となろうとしていた。
だが、それはまだ原石に過ぎない。
多様な文化と価値観を持つ彼らを真の意味で一つの軍勢へと変えるためには、確固たる組織と明確な戦略が必要だった。
「皆、集まってくれて感謝する」
レオの声は冬の朝の空気のように、澄み渡っていた。
「我々はついに一つになった。
だがこれは終わりではない。
我々の本当の戦いはここから始まる。
真の敵『星を喰らう者』どもとの最終決戦に備え、我々はこの力を一つの軍勢として鍛え上げなければならない」
レオは広げられたアースガルド大陸の地図を指し示した。
「我々の目的は復讐ではない。
異星人の手からアースガルド大陸を取り戻し、人間と魔族が偽りの歴史に縛られることなく手を取り合える世界を創ることだ」
その言葉に、集まった長たちは静かに、しかし力強く頷いた。
レオはこの数日間、リリスと共に練り上げてきた新たな軍の構想を語り始めた。
それは画一的な命令系統ではなく、それぞれの部族が持つ独自の強みを最大限に活かすための柔軟な組織体系だった。
「まず、北部凍土の民」 レオは凍土の族長へと視線を向けた。
「あなたたちにはその比類なき忍耐力と過酷な環境を生き抜く知恵を活かし、軍の『先遣隊』として敵地の偵察と進軍路の確保を任せたい」
族長は多くを語らず、しかしその瞳の奥に強い誇りを宿し深く頷いた。
「南部密林の民にはその隠密行動能力と精霊との共鳴能力を活かしてもらう。
あなたたちは我々の『影』となり、敵陣への潜入、情報収集、そして要人の暗殺といった特殊任務を担ってほしい」
密林の長老は静かに目を閉じ、森の精霊たちの声に耳を傾けるかのようにその任を受け入れた。
「西部砂漠の民は、その卓越した個の戦闘能力と独立独歩の精神を奇襲部隊として活かしてくれ。
少数精鋭で敵の後方を撹乱し補給路を断つ。
あなたたちの神出鬼没な動きが戦局を大きく左右するだろう」
砂漠の民の代表は、その挑戦的な任務に不敵な笑みを浮かべた。
「そして東部平原の民。
あなたたちは誰よりも人間社会の近くで、その狡猾さと組織力を目の当たりにしてきた。
ゴウキ、お前には各部族から選抜された者たちで構成される本軍の『歩兵部隊』の訓練と指揮を任せる。
そしてゼノン、あなたには軍全体の兵站と戦略の立案を担ってもらいたい」
ゴウキはその顔の傷跡を誇るかのように力強く胸を叩いた。
ゼノンは商人らしい計算高い瞳で静かに頭を下げた。
レオの言葉はそれぞれの部族の誇りと特性を的確に捉えていた。
それは彼がこれまでの旅で彼らの生活に触れ、その痛みに深く共感してきたからこそ可能な采配だった。
「まったく、なんで私がこんな雑多な連中の取りまとめ役なんてしなきゃいけないのよ!」
軍議の後、リリスは山のように積まれた各部族からの要求書や兵站の報告書を前に、盛大なため息をついた。
彼女はレオの構想を実現するための実質的な最高司令官として、各部族間の調整役を一手に引き受けていた。
「貴方は玉座に座って格好いいことを言っていればいいんだから、楽でいいわよね!
この苦労知らずの魔王様!」
彼女はそう言ってレオを睨みつけるが、その手は驚くべき速さと正確さで複雑な問題を次々と差配していく。
彼女が持つ旧世界の王としての知識と魔族の姫としてのカリスマは、この生まれたばかりの軍勢にとって不可欠な頭脳となっていた。
その日から、盟約の谷は巨大な軍事教練の場と化した。
これまで決して交わることのなかった魔族たちが、互いの技術を学び教え合う光景が谷の至る所で見られた。
凍土の戦士が砂漠の民に雪中での追跡術を教え、砂漠の民は凍土の戦士に一撃離脱の戦術を伝授する。
密林の射手が東部平原の兵士に風を読んで矢を放つ極意を語り、東部平原の兵士は密林の射手に人間たちの城壁を攻略するための知識を共有する。
それは単なる軍事訓練ではなかった。
それは数百年ぶりに、魔族という一つの種族がその多様な文化と知識を融合させ、新たな力へと昇華させていく歴史的な瞬間だった。
ゴウキはかつて憎悪の対象でしかなかった他の部族の者たちを、今や「我が兵」と呼び、その成長を厳しくも温かい目で見守っていた。
彼の心にあった憎悪は今や、この新しい同胞たちを守り導くという熱い責任感へと変わっていた。
レオはその光景を深い感慨と共に、丘の上から見つめていた。
眼下には数万にも及ぶ圧倒的な魔族の軍勢が、一つの目的に向かってその力を結集させている。
その夜、レオは一人静かに修練に励んでいた。
昼間は魔王として軍の指揮と各部族の長たちとの対話に追われる。
彼がただ一人のレオとして自らの内面と向き合えるのは、この夜のわずかな時間だけだった。
彼は腕の中で眠るリオの穏やかな寝顔を見つめた。
この小さな命、この温かい平和を守るために、自分は今これほどまでに強大な力をその手に握っている。
(これだけの力があれば……)
彼の心にかつての勇者だった頃には考えもしなかった、黒い感情が一瞬よぎった。
(人間たちの王国を滅ぼすことさえ可能かもしれない。
ゴウキたちが味わった痛みを、セレーネやアルスを死に追いやった国王たちにそのまま返してやることも……)
それは力を持つ者が誰もが一度は囚われる、甘美で危険な誘惑だった。
(……だがそれでは俺も国王たちや異星人と同じだ。
憎しみが新たな憎しみを生むだけだ……)
レオは強く首を横に振った。
彼はリオの小さな手をそっと握りしめた。
その温かさが彼の心に巣食おうとした闇を浄化していく。
彼は改めて誓った。
この強大な力は復讐のためにではない。
異星人の支配からアースガルド大陸を取り戻し、そして人間と魔族が偽りの歴史ではなく真実の理解の上で、手を取り合える世界を創るために。
この子リオが、人間も魔族もその出自によって差別されることのない世界で、笑って生きていける未来を創るために。
その時、レオの心に一つの重大な疑問が浮かび上がった。
(そうだ……。
この軍勢は形になってきた。
だが彼らは本当に知っているのだろうか?
我々がこれから戦おうとしている本当の敵の姿を……)
これまで異星人の存在というあまりにも衝撃的な真実は、レオとリリス、そして各部族の長たちというごく一部の者たちしか共有していなかった。
多くの兵士たちはただ、新たな魔王の下、人間たちの圧政に立ち向かうと信じている。
(それではダメだ……)
レオは直感した。
この戦いはこれまでの人間との小競り合いとは訳が違う。
星の存亡をかけた総力戦だ。
兵士一人一人が我々が何のために、そして「誰と」戦うのかを魂で理解していなければ、この強大な軍勢は真の力を発揮することはできない。
レオは立ち上がった。
その瞳には新たな決意の光が宿っていた。
彼はリリスと、そして各部族の長たちが待つ作戦会議の天幕へと迷いなく歩き出した。
「皆、聞いてくれ」
レオの声が、天幕の中の緊張した空気を震わせた。
「我々の軍は形になってきた。
だがまだ最も重要なことが残っている」
「それは兵士一人一人が我々が戦うべき真の敵の正体を知ることだ」
「今こそ全ての同胞に、この星の真実を話す時だ」
その言葉に、集まった長たちは息を呑んだ。
それはもはや後戻りのできない、世界そのものを変えるための最終的な覚悟を、全ての魔族に問うということだった。
彼らの本当の結束が今、試されようとしていた。