第135話:全魔族の結束、新たなる力
エルトリアの森に、冬の訪れを告げる最初の木枯らしが吹き抜けていた。
東部平原の魔族たちがレオを新たな王として戴いてから、一ヶ月というあまりにも短く、しかしあまりにも濃密な時間が過ぎ去った。
あの結束の誓いが交わされた日の翌朝、エルトリアの森はこれまでにない熱気に包まれていた。
戦士ゴウキ、商人ゼノン、そしてレオの言葉に心を動かされた十数名の若い魔族たちが使者として、大陸の各地へと旅立っていった。
彼らが携えていったのは武力による脅しでも、甘言による誘いでもない。
ただ一つの物語。
人間でありながら魔族の痛みを理解しようとする新たな王の物語。
旧世界の王の血を引き、人間と魔族の架け橋となることを宿命づけられた気高き姫の物語。
そしてその二人の間に生まれた、新しい時代の希望を象徴する幼子の物語。
レオは彼らが森から去っていく姿を、リリスと共に丘の上から静かに見守っていた。
(届くだろうか……。
俺たちの声が、彼らの心に……)
彼の心には希望と、そして拭いきれない不安が交錯していた。
凍土、密林、砂漠。それぞれがあまりにも深く、そして異なる傷を抱えている。
東部平原で起きた奇跡が、そう易々と大陸全土に広がるとは思えなかった。
「心配なの?」
リリスがレオの心中を見透かしたように、静かに問いかけた。
彼女の腕の中ではリオが健やかな寝息を立てている。
「当たり前だ。
彼らは俺がこれまで出会ってきた、どの魔族とも違う。
俺の共感が、本当に……」
「ふん。
今更弱気になってどうするのよ」
リリスはレオの言葉を遮った。
「貴方が信じないでどうするの。
貴方を信じて彼らは旅立ったんでしょうが。
それに……」
彼女は少しだけ言葉を濁した。
「貴方一人で行かせるよりは、よっぽどマシよ。
貴方はどうせ、真正面からぶつかることしかできない不器用な男なんだから」
その言葉はいつものように棘があったが、その裏にあるレオへの深い信頼と、そして使者として旅立った同胞たちへの気遣いが、レオの心に温かく響いた。
使者たちが旅立ってから数週間、エルトリアの森は大陸中から集まる情報を待つ巨大な拠点となっていた。
レオはゴウキやゼノンが築き上げた組織を元に、来るべき戦いに備え集落の防衛体制を強化し、若い魔族たちの訓練に明け暮れた。
そして最初の報せは、北の凍土から届いた。
使者として向かった魔族が、凍土の民の代表数名を連れて帰還したのだ。
族長はレオの前に進み出ると、多くを語らずただ深くその場に膝をついた。
「……導き手よ。
我らは、貴方の呼び声を待っていた」
彼らにとってレオは、かつて共に試練を乗り越え閉ざされた道を切り開いた恩人であり、信頼できる唯一の人間だった。
使者が語るまでもなく彼らは、レオの旗の下に集うことをすでに決めていたのだ。
次に報せが届いたのは、南の密林からだった。
密林の民は使者たちを最初は森に入れようともしなかったという。
しかし使者たちがリリスの名と、彼女が旧世界の王の娘であることを告げると森の空気が一変した。
数日後、密林の長老自らが数人の精霊を伴ってエルトリアの森に姿を現した。
長老はリリスの前に進み出ると、古の言葉で静かに語りかけた。
「森が告げておる。
姫よ、そして生命を慈しむ王よ。
新たな調和の時が来たと。
我らもまたその調べに身を委ねよう」
彼らはリリスの血筋に古き良き時代の記憶を見出し、そしてレオの内に宿る生命と共鳴する力に、森の未来を託したのだ。
最後に最も困難かと思われた西の砂漠から、使者が帰還した。
彼らは砂漠の民の長老からの、一枚の羊皮紙を携えていた。 そこに書かれていたのは、たった一言。
『孤独の終わりを、見届けよう』
砂嵐の中から子供を救い出し彼らの孤独を尊重したレオの行動は、砂漠の民の心に決して消えることのない温かい記憶として刻まれていたのだ。
アースガルド大陸の中央、モルグ・アイン山脈の麓に広がる古代の盟約の地と呼ばれる谷に、大陸中の魔族たちがその姿を現した。
それは歴史上、誰も見たことのない壮大な光景だった。
雪原を駆ける毛皮をまとった凍土の戦士たち。
森の精霊と共に静かに姿を現した密林の射手たち。
灼熱の砂を乗り越えてきた誇り高き砂漠の民。
そして人間社会の矛盾を知る東部平原の知恵者たち。
姿も文化も価値観も全てが異なる魔族たちが、数百年ぶりに一つの旗の下に集結したのだ。
彼らの視線の先には、小高い丘の上に立つレオとリリス、そしてその腕に抱かれたリオの姿があった。
「まったく……。
なんで私がこんな野蛮人たちの世話をしなきゃいけないのよ……」
リリスは眼下に広がる無数の魔族たちの姿に、呆れたように呟いた。
「食べ物の好みも違うし、寝床の文句はうるさいし……。
本当に手のかかる連中なんだから!」
彼女はそう言いながらも、その瞳は誇りと、そして自らの民が一つになったことへの深い感動に爛々と輝いていた。
レオはリリスの手を固く握りしめ、一歩前に出た。
大陸中の魔族の長たちが、静かに彼を見つめている。
レオは彼ら一人一人の顔を見つめながら静かに語り始めた。
彼の声は覚醒した魔力によって増幅され、谷の隅々にまではっきりと響き渡った。
彼は力による支配を語らなかった。
彼は復讐の正当性を語らなかった。
彼はただ、彼らがこれまで経験してきたそれぞれの痛みを語った。
凍土の民が耐え忍んできた極寒の孤独を。
密林の民が守り続けてきた聖なる森の調和を。
砂漠の民が受けた癒えることのない裏切りの傷を。
そして、東部平原の民が抱える憎しみと希望の矛盾を。
彼の共感力はもはや個人に語りかけるレベルを超えていた。
それは種族全体の魂に語りかける巨大な共感の波だった。
「俺たちはあまりにも長くバラバラにされ、互いを理解しようとしてこなかった。
その弱さを真の敵は利用した。
だがそれも今日で終わりだ!」
レオはリリスの隣に立ち、彼女の腕に抱かれたリオを高く掲げた。
「見ろ!
この子こそが我らの未来の証だ!
人間と魔族が手を取り合えば、これほどまでに輝かしい未来を創ることができるのだと!」
その瞬間、谷全体が地響きのような雄叫びに包まれた。
これまで個としてしか生きられなかった魔族たちが、レオの共感力とリリスとリオという生ける象徴を通して、初めて「結束」という新たな力の意味を魂で理解した瞬間だった。
凍土の族長が、密林の長老が、砂漠の民の代表が、そしてゴウキが次々とレオの前に進み出て、その場に膝をつき忠誠を誓った。
アースガルド大陸の全ての魔族が、今、完全に一つとなった。
その日の夜、レオは一人丘の上から眼下に広がる無数の焚火の光を見つめていた。
それはかつてバラバラだった魔族たちの魂が、今一つの力となって燃え盛っている証だった。
(これが……俺が背負うもの……)
レオはその光景に深い感動と共に、これまで感じたことのないほどの重い責任を感じていた。
(彼らの未来、彼らの命、その全てが今俺の双肩にかかっている。
俺はもうただのレオじゃない。
全ての魔族の未来を導く魔王なんだ……。
その重さに俺は……耐えられるのだろうか?)
その時、そっと彼の背中に温かい毛布がかけられた。
リリスだった。
「何よ、今更怖じ気づいたの?
情けない顔しちゃって」
彼女の声はいつものようにツンとしていた。
「貴方がやると決めたんでしょ。
なら、最後までやり遂げ なさいよ」
彼女はレオの隣に立つと、彼の肩にそっと頭を寄せた。
「私が……
私たちが見てるんだから」
その言葉はどんな激励よりも、レオの心に強く、そして温かく響いた。
そうだ、自分は一人ではない。
リリスがいる。
リオがいる。そして自分を信じてくれた全ての同胞たちがいる。
レオはリリスの肩を強く抱き寄せ、再び眼下の光を見つめた。
彼の瞳から迷いは消えていた。
そこには魔族たちの未来を背負う者としての揺るぎない覚悟と、新しい世界を創造するという燃え盛るような決意が宿っていた。
かつてバラバラだった魔族たちは今、レオとリリスの指揮のもと強大な力となった。
彼らの本当の戦いは、ここから始まる。