第133話:過去の傷跡
エルトリアの森に、夏の終わりと実りの秋の気配が漂い始めていた。
レオたちがこの地に留まってから、さらに二ヶ月が過ぎていた。
集会所での激しい議論の後、レオが差し伸べた「あなたたちの物語を聞かせてほしい」という手は、東部平原の魔族たちの間に深い波紋を広げていた。
最初の数日間は重い沈黙が続いた。
彼らはレオの真意を測りかね、誰もが口を開こうとはしなかった。
人間、それもかつての勇者に自分たちの心の奥底に刻まれた傷跡を、そう易々と見せることなどできなかったのだ。
その凍てついた沈黙を破ったのは、意外にも最も強硬に人間への憎しみを叫んだ戦士ゴウキだった。
ある晩、レオが一人集落の外れで星空を見上げていると、ゴウキがその巨体を揺らしながら彼の前に立った。
その顔に刻まれた古い傷跡が、焚火の光に照らされて生々しく浮かび上がる。
「……聞きたい、と言ったな」
ゴウキの声は低く、そして乾いていた。
「人間の貴様に我らの痛みが、果たして理解できるのか」
レオは静かにゴウキを見つめ返した。
「理解できるとは思わない。
だが、知りたい。
お前が何を背負って生きてきたのかを」
ゴウキはしばらくの間、レオの瞳の奥を探るように見つめていた。
やがて彼は諦めたように、しかし堰を切ったように、その重い口を開いた。
彼の物語は、十年前のある穏やかな春の日の記憶から始まった。
当時ゴウキはまだ子供だった。
彼が暮らしていた集落は、このエルトリアの森のもっと人間に近い場所にあったという。
そこでは人間との間にささやかながらも交易があり、互いを完全に理解してはいなくとも、共存と呼べるような関係がかろうじて成り立っていた。
しかし、ある日を境に全てが変わった。
人間たちの瞳から親愛の情が消え、代わりに理由の分からない憎悪と恐怖の色が浮かんだ。
そして国王軍の騎士団が、何の通告もなしに彼の集落を襲撃した。
「奴らはそれを『魔族討伐』と呼んだ」
ゴウキの声は遠い過去の痛みをなぞるように、震えていた。
「俺の父は集落の長として話し合いを求めようとした。
だが奴らは問答無用で、父の胸を槍で貫いた。
母は俺を庇って騎士の剣に倒れた……。
俺は姉に手を引かれて必死に森の奥へと逃げた。
この顔の傷は、その時につけられたものだ」
彼の言葉は淡々としていた。
しかしその淡々とした語り口こそが、彼の心の傷の深さを何よりも雄弁に物語っていた。
感情を殺さなければ、生きていけなかったのだ。
「俺たちはただ生きていただけだ。
人間と静かに暮らしていただけだ。
それなのに、なぜ……
なぜ俺の家族は、殺されなければならなかったんだ……?」
ゴウキの瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは十年間、彼の心の中で凍りついていた悲しみの氷解だった。
集落の誰もが寝静まった夜の森に、彼の嗚咽だけが静かに響き渡った。
レオはただ黙って、その隣に座り続けた。
どんな慰めの言葉もこの深い痛みの前では、あまりに無力で空虚に響くだろうことを彼は知っていた。
ゴウキがようやく落ち着きを取り戻した頃、レオは静かに口を開いた。
「……俺も孤児だった」
彼の声は夜の静寂に優しく溶けていった。
「家族を失う痛みがどれほどのものか……。
そしてその悲しみを誰にも理解されない孤独が、どれほど辛いものか。
俺には少しだけ分かる気がする」
彼は自身の過去を飾ることなく語った。
そして勇者として偽りの正義を信じ、魔族たちを傷つけてきた自らの罪も。
「その時お前の家族を殺した騎士団の中に俺がいたとしても、おかしくはない。
俺は何も知らなかった。
国王たちに、異星人たちに操られていただけだった。だが……」
レオはゴウキの目を真っ直ぐに見つめた。
「知らなかったでは済まされない。
俺の剣がお前たちから多くのものを奪った事実に変わりはない。
お前の怒りはもっともだ。
その憎しみも悲しみも、俺は真正面から受け止める」
彼の言葉は謝罪ではなかった。
それはゴウキの痛みを自分自身の痛みとして引き受けるという、真摯な「共感」の表明だった。
ゴウキはレオの言葉に、ただ黙って聞き入っていた。
彼の瞳の奥で長年燃え続けていた憎悪の炎が、かすかに揺らいでいるのをレオは感じた。
ゴウキの告白はまるでダムの決壊のように、他の魔族たちの固く閉ざされた心の扉を次々と開いていった。
それからの二ヶ月間、レオは夜ごと彼らの話に耳を傾け続けた。
ある老婆は、人間との間に生まれた子供を人間たちから「穢れた子」として迫害され、失った過去を涙ながらに語った。
穏健派の商人ゼノンは、かつて行き倒れていた自分を助けてくれた人間の商人の話を語った。
その人間は後に「魔族と通じた裏切り者」として同胞に殺されたという。
ある若い魔族は人間に捕えられ、見世物として屈辱的な日々を送った記憶を、怒りに震えながら語った。
一人一人の物語はどれも、血と涙に濡れた痛ましい傷跡だった。
レオはその全てをただ受け止めた。
彼の心は彼らの痛みで張り裂けそうだった。
しかし彼は決して目を逸らさなかった。
それが彼にできる唯一の償いだと信じていたからだ。
リリスはそんなレオの姿を、最初はもどかしげに見守っていた。
「いつまでそんな湿っぽい話を聞いてるつもりよ!
さっさと本題に入りなさいよ!
異星人との戦いは待ってくれないのよ!」
彼女はそう言ってレオを急かそうとした。
しかし彼女の瞳の奥には、同胞たちが抱える深い悲しみへの隠しきれない痛みが滲んでいた。
そして、彼女自身もまたこの集落が抱える痛みの当事者の一人だった。
ある日、強硬派の魔族たちがリリスに詰め寄った。
「姫様、あなたは半分人間の血を引いている。
あなたに我々の本当の苦しみが分かるとは思えない!」
その言葉に、リリスの表情からいつもの強気な色がすっと消えた。
「……分かるわけ、ないでしょ」
彼女は吐き捨てるように言った。
「私がどれだけその血に苦しめられてきたか。
貴方たちに分かるはずがないわ」
リリスは自らの物語を語り始めた。
人間からも、そして一部の魔族からも「穢れたハーフ」として化け物のように扱われてきた、孤独な少女時代。
父である旧世界の王が、人間でありながら誰よりも魔族の未来を案じ、しかし誰にも理解されずに孤独の中で死んでいった無念の記憶。
「父様はたった一人で貴方たちをまとめようとした!
この偽りの世界に立ち向かうとしたのよ! でも貴方たちはどうだった?
『人間だから信用できない』と彼を拒絶した!
貴方たちのその頑なな心が、父様を孤独のまま死なせたのよ!」
彼女の叫びは彼女自身の、そして父の痛みの叫びだった。
その悲痛な言葉は魔族たちの胸に深く、そして重く突き刺さった。
彼らは初めて、リリスという存在がただの「魔王の娘」ではなく、自分たちと同じ、あるいはそれ以上に深い傷を抱えた同胞なのだということを理解した。
レオの「共感」とリリスの「告白」。
その二つはエルトリアの森の魔族たちの凍てついた心を、ゆっくりと、しかし確実に溶かし始めていた。
彼らの心の奥底に眠っていた個々の痛みが呼び起こされる。
しかし、それはただ痛みを再燃させるだけではなかった。
レオとリリスという、自分たちの痛みを理解し共有してくれる存在によって、その痛みは初めて「癒し」の光を帯び始めたのだ。
集落の雰囲気は明らかに変わりつつあった。
強硬派の憎悪は深い悲しみへと変わり、穏健派の希望は確信へと変わり始めていた。
そして彼らの心の中にこれまで決して生まれなかった新たな感情が、静かに芽生え始めていた。
それは自分たちはただの孤独な個人の集まりではない、同じ痛みを分かち合う「一つの民」なのだという、微かな、しかし確かな「結束」への兆しだった。
レオとリリスが灯した小さな光は共感の波となって、この引き裂かれた魔族たちの間に広がり始めていた。