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第132話:東部平原の魔族、複雑な感情

 エルトリアの森に、夏の深い緑が満ちていた。


 レオたちがこの東部平原の魔族たちと接触してから、二ヶ月という月日が流れようとしていた。

その時間は、彼らがこれまで経験してきたどの魔族の集落とも異なる、緊張と複雑な感情が渦巻く、長く濃密な時間だった。


 最初の対峙は、鋭い刃の上を歩くような緊張感に満ちていた。

リーダー格の魔族が放った「なぜ魔王の姫君が人間と共にいる……?」という問いは、彼らが抱く人間への根深い不信感そのものだった。


 その凍てついた空気を切り裂いたのは、リリスの気高く有無を言わさぬ声だった。


「黙りなさい!

この方は私の……

私たちの新しい王よ!

その瞳に宿る力が見えないのなら、貴方たちの目は節穴かしら!」


  彼女は腕に抱くリオを庇うように一歩前に出た。

その姿は魔王の娘としての威厳と母としての強さに満ちており、魔族の戦士たちをわずかに後退させるほどの気迫を放っていた。


「べ、別に貴方を庇ってるわけじゃないんだからね!

私とこの子の未来のために、貴方が魔王として役に立つかどうか見定めてるだけよ!」


 レオの耳元で彼女はそう囁いた。

その声は震えていたが、それは恐怖からではなく、怒りとレオへの信頼からくるものだと彼には分かった。


 リーダー格の魔族はリリスの気迫に押されながらも、冷静さを失ってはいなかった。

彼はレオとリリス、そして眠る赤ん坊を値踏みするように見つめると、やがて重い口を開いた。


「魔王の姫君がそう仰せならば、我らの長に会っていただく。

だが妙な真似はするな。

この森では人間の命など木の葉よりも軽い」


 彼らに案内されてたどり着いた集落は、レオの予想通り矛盾に満ちた場所だった。


 集落は人間たちの襲撃を警戒するかのように、巧妙な罠と見張りの櫓で固められている。

しかしその一方で、魔族たちが使う道具の中には明らかに人間社会から持ち込まれたであろう鉄製の農具や色鮮やかな布地が散見された。


 彼らが人間を憎み警戒しながらも、その文化や技術と完全に無縁ではいられないという事実がそこにはあった。


 集落の魔族たちの視線は、これまで出会ったどの魔族たちよりも複雑な色をしていた。

ある者はレオの姿を見るや、剥き出しの憎悪を瞳に宿し低く唸り声を上げた。

またある者は遠巻きに、ただ好奇心と、そして長年の抑圧に疲弊しきった諦めのような眼差しを向けていた。


 そしてごく少数ではあるが、リリスの隣に立つレオの姿と彼女が抱く赤ん坊の姿に、何かを期待するかのような微かな光を瞳に宿す者もいた。


 集落の最も大きな住居で、レオたちはこの部族の長である老魔族と対面した。

彼の顔には深い皺が刻まれ、その瞳は長年にわたる苦悩と、そして分裂する同胞をまとめることの困難さを物語っているかのように、深くどこか疲れた色をしていた。


 レオは竜王の元で過ごした二年半の歳月で得た威厳と、そして彼本来の真摯さをもって自らの目的を語った。


「俺はレオ。

新たな魔王としてこの星の全ての魔族を一つにまとめに来た。我々の真の敵は人間ではない。

この星を遠い宇宙から狙う、『星を喰らう者』どもだ」


 彼の言葉は、集落の長老たちや有力な戦士たちが集まるその場に重い沈黙をもたらした。


 異星人。

偽りの歴史。

人間と魔族の共存。

それは彼らにとって、あまりにも突飛で現実離れした物語だった。


 最初に沈黙を破ったのは、鋭い傷跡を顔に持つ屈強な戦士だった。


「馬鹿馬鹿しい!」

彼は床を拳で叩きつけ、怒りを露わにした。


「人間が敵ではないだと!?

姫様、あなたもその人間の魔王とやらに誑かされたのですか!

俺の家族は誰に殺された!?

この傷は誰につけられた!?

全て人間どもの仕業ではないか!」


 彼の叫びは集落が抱える痛みの代弁だった。 その言葉に同調するように、何人かの戦士たちがレオに敵意のこもった視線を向ける。


 彼らは人間との戦いで家族や仲間を失った者たちだ。

彼らにとって人間とは、問答無用の憎むべき敵でしかなかった。


「待て、ゴウキ」

その戦士を制したのは、商人風の身なりをした少し年のいった魔族だった。


「憎しみだけでは何も生まれん。

わしは知っておる。

人間の中にも話の通じる者はいる。

わしは街に出て彼らと取引をしてきた。

全ての人間が我らを殺そうとしているわけではない」


「甘いことを言うなゼノン!

奴らは我々を利用するだけだ!

価値がなくなればいつでも裏切る!

砂漠の同胞たちがどうなったか忘れたのか!」


「だからと言って、このまま森に閉じこもって人間を憎み続けるだけで、我らに未来があるとでも言うのか!?」


 議論は瞬く間に白熱した。

人間を絶対的な悪と断じ、徹底抗戦を主張する「強硬派」。

人間との対話の可能性を信じ、共存の道を模索すべきだと主張する「穏健派」。

そして、どちらの意見にも与せず、ただこれ以上傷つきたくないと現状維持を望む「中立派」。


 東部平原の魔族たちは一枚岩ではなかった。

人間社会に最も近い場所でその光と闇の両方に晒され続けてきたからこそ、彼らの心は複雑に、そして深く引き裂かれていたのだ。


 レオはその激しい議論を、ただ静かに聞いていた。

彼はどちらの意見も、否定することができなかった。


(これが……東部平原の魔族……)


 レオは、この地を訪れる前に抱いていた甘い見通しを恥じた。

凍土の民には、共に試練に挑むことでその力を示した。

密林の民には、リリスの血筋と生命への共感が届いた。

砂漠の民には、彼らの孤独を尊重し寄り添うことで心を開かせた。


(だが、ここは違う。

力だけでも、血筋だけでも、ただ寄り添うだけでもダメだ……)


 彼らはそれぞれが、自分自身の経験に基づいた譲れない「真実」を持っている。

ある者にとっては人間は家族を奪った不倶戴天の敵であり、ある者にとっては未来を切り開くための交渉相手でもあるのだ。


(これを……一つにまとめる……?

なんて、難しいことなんだ……)


  レオは旧世界の王が直面したであろう、絶望的なまでの困難さを今、肌で感じていた。

彼の挫折は必然だったのかもしれない。

これほどまでに複雑に絡み合った感情の糸を、どうすれば解きほぐすことができるというのか。


「静かになさい!

見苦しいわよ!」


 リリスの凛とした声が響き渡り、白熱していた議論が水を打ったように静まり返った。

彼女はリオを優しく抱きしめながら、鋭い瞳で集まった魔族たちを睥睨した。


「いつまでそんな子供の喧嘩みたいなことを続けているつもり?

敵はすぐそこまで来ているというのに!」


 彼女はレオの方を向いた。


「ほらレオ!

あんたが魔王なんでしょ!?

何とか言いなさいよ!

このままじゃ日が暮れるどころか夜が明けてしまうわ!」


 彼女の言葉はレオを叱咤すると同時に、この場の全ての魔族たちに、レオこそがこの議論を収めるべき指導者なのだと暗に示していた。


 レオはリリスの視線を受け止めると、ゆっくりと立ち上がった。

彼の心には、すでに為すべきことの覚悟が定まっていた。

彼は集まった魔族たち一人一人の顔を見つめながら、静かに、しかし力強い声で語り始めた。


「どちらの意見も、間違ってはいないと思う」


 その言葉に、魔族たちは意外そうな顔でレオを見つめた。


「あなたたちが人間を憎むのは当然だ。

あなたたちは計り知れないほどのものを人間によって奪われてきた。

その痛みを、怒りを、俺は否定しない」


 彼は強硬派の戦士ゴウキの目を、真っ直ぐに見つめた。


  「そして人間との共存を望む気持ちも、生きるための切実な願いだろう。

憎しみだけでは未来がないというあなたの言葉もまた、真実だ」


 彼は穏健派の商人ゼノンへと、視線を移した。


「俺は、どちらか一方の意見をもう一方に押し付けに来たわけじゃない」


 レオは深く息を吸い込んだ。


 「俺はまず、あなたたちのことを知りたい。

この東部平原という土地で、あなたたちがこれまで何を経験し、何を感じ、そして何を失ってきたのかを。

あなたたちのその心に刻まれた、一人一人の物語を聞かせてほしい」


 彼の言葉は力による支配でも、理想論の押し付けでもなかった。


 それは彼が持つ最大の武器。

相手の痛みを自分の痛みとして受け止めようとする、真摯な「共感」の申し出だった。


 集会所は再び深い沈黙に包まれた。


 しかし、それは先ほどまでの対立に満ちた沈黙ではなかった。

魔族たちはレオのあまりにも意外な言葉に、ただ戸惑い、そしてその真意を測りかねているかのようだった。


 強硬派のゴウキは依然として疑念の眼差しを向けていたが、その瞳の奥の憎悪の炎はわずかに揺らいでいた。

穏健派のゼノンは、驚きとそしてかすかな希望の光をその瞳に宿していた。


 レオの最も困難な対話が、今、始まろうとしていた。


 彼が差し伸べた「共感」という手は、この引き裂かれた魔族たちの心を掴むことができるのだろうか。

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