第130話:隠された準備
竜王の山を覆っていた長く厳しい冬が終わりを告げ、生命の息吹が雪解け水と共に大地を潤す季節が訪れた。あの日、旧世界の王が託した壮大な遺言を聞かされてから、さらに二月が過ぎていた。
レオとリリス、そして彼らの子リオの周りには、穏やかな時間が流れていた。
レオは、父親としての自覚と共に、その覚醒した力をより深く、そして優しく制御する術を身につけつつあった。
彼の放つ魔力は、もはや単なる破壊の力ではなく、山の木々を芽吹かせ、雪解けの小川の流れを清めるような、生命を育む性質を帯び始めていた。
リリスは、母となり、その表情には以前にも増して深い愛情と、強さが宿っていた。
「まったく、貴方に似て食い意地が張ってるんだから。
将来が思いやられるわ」
彼女は、腕の中で乳を求めるリオに、ツンとした言葉をかけながらも、その眼差しは、この世の何よりも愛おしいものを見つめる、慈愛に満ちたものだった。
リルもまた、小さな家族の一員として、リオの傍らを片時も離れなかった。
リオが眠っている時は、その枕元で小さな光を灯して番をし、目を覚ませば、見たこともない輝く石や、柔らかな苔をどこからか見つけてきては、彼の小さな手のひらにそっと乗せるのだった。
この穏やかな日々が、永遠に続けばいい。
レオは、そう何度も願った。
しかし、竜王が最後に残した「闇は着々と、その牙を研いでおる」という言葉が彼の心の片隅で常に警鐘を鳴らし続けていた。
(この平和が、いつまで続く……?
竜王のあの言葉……
俺たちは、本当にこのままでいいのか……?)
そのレオの焦燥を見透かしたかのように、ある晴れた日の午後、竜王が二人を洞窟へと呼び出した。
彼の表情は、これまでになく険しく、その瞳には、星々の運行を憂うかのような、深い影が差していた。
「レオよ、リリス姫よ。
もはや、猶予はない」
竜王は、静かに、しかし有無を言わさぬ力強さで切り出した。
「どういうことよ!
何かあったの!?」
リリスは、眠るリオを抱きしめながら、鋭い声で問い詰めた。
彼女の母としての本能が、迫りくる危険を敏感に感じ取っていた。
竜王は、重々しく頷いた。
「ワシが、この星のエーテルの流れを通じて感じ取っていた、微かな『歪み』……その正体が、ようやく掴めた。
奴ら『星を喰らう者』どもは、我らが思うよりも、遥かに狡猾に、そして着々と、その計画を進めておる」
竜王は、洞窟の壁に、自らの魔力で巨大なアースガルド大陸の地図を描き出した。
「奴らは、表立った侵攻はしておらぬ。
じゃが、水面下では、この星を完全に支配するための、恐るべき準備を整えつつあるのじゃ」
竜王によれば、異星人たちは、人間社会の目から逃れた辺境の地や、モルグ・アイン山脈の地下深くに、秘密裏に拠点を築いているのだという。
「それらの拠点は、地中に張り巡らされたエーテルの鉱脈……
いわば、この星の血管を通じて、全てが繋がっておる。
奴らは、そこに自らの技術を持ち込み、巨大なエネルギー集積装置を建設しておるのじゃ。
来るべき最終決戦の日に、この星のエーテルを根こそぎ奪い去り、我らを無力化するためのな」
その言葉は、レオとリリスに、想像を絶する脅威の現実を突きつけた。
彼らが、この山で力を蓄え、未来への希望を育んでいる間にも、敵は、この星の心臓部に、静かに、しかし確実に、その毒牙を突き立てていたのだ。
「準備を進めているだと……?」
レオの声が、怒りと焦りに震えた。
「俺たちがここで力を蓄えている間に、奴らは……!
なぜ、もっと早く……!」
「ワシにも、奴らの正確な位置までは掴めなんだ。
奴らの技術は、エーテルの流れに自らを同化させ、その存在を巧妙に隠蔽しておる。
じゃが、ここ数日、その動きが看過できぬほどに活発化した。
おそらく、奴らの準備は、最終段階に入りつつあるのじゃろう」
竜王は、悔しげに拳を握りしめた。
「そして、奴らがこれほどまで大胆に動けるのには、理由がある。
今のアースガルド大陸の状況が、奴らにとって、あまりにも都合が良すぎるからじゃ」
「人間と魔族が、分断されている……」
レオが、唇を噛み締めながら言った。
「その通りじゃ」
竜王は、厳しい表情で頷いた。
「人間は、操られた国王たちの下、『魔族は悪』という偽りの記憶に縛られ、今もなお、各地で魔族狩りを続けておる。
魔族は、生き残るために人間を拒絶し、心を閉ざす。
互いが互いを敵とみなし、憎しみ合っておる限り、誰一人として、空から見下ろす、真の敵の存在には気づかぬ。
この分断こそが、奴らにとって、最高の隠れ蓑なのじゃよ」
レオは、拳を強く握りしめた。
残された時間は、少ない。
自分たちが、この山でリオという希望の光を灯した今、その光を消さんと、闇はすぐそこまで迫っている。
「俺たちは一刻も早く、アースガルド大陸に戻らなければならない!」
レオの叫びに、リリスもまた、強い決意の表情で頷いた。
「ふざけた真似をしてくれるわね!
私たちの……
この子のいる星を、好き勝手にしようだなんて!
レオ、あんたがぐずぐずしてるなら、私とリオで先に行くわよ!」
彼女の言葉は、いつものように棘があったが、その瞳は我が子を守る母としての燃え盛るような怒りに満ちていた。
しかし、竜王はその二人の焦りを静かに、しかし力強く制した。
「待て、若き魔王よ。
気持ちは分かる。
じゃが、今、お主たちだけで大陸に戻ったところで、旧き友の二の舞になるだけじゃ」
竜王の言葉は、冷静だった。
「奴らの準備は巧妙じゃ。
今、下手に動けば、返り討ちにあうだけじゃろう。
奴らを出し抜き、この星を救う道は、一つしかない」
竜王は、地図に描かれたアースガルド大陸を、その巨大な指でなぞった。
「まず、大陸の魔族たちを、完全に一つにまとめること。
お主たちの旗の下に、一大勢力を築き上げることじゃ。
それなくして、奴らとの決戦も、人間たちとの対話も、始まりはせぬ」
その言葉は、レオの焦る心を、現実に引き戻した。
そうだ、一人で、あるいは二人だけで戻っても、旧世界の王と同じく、孤独な戦いを強いられるだけだ。
魔族たちの信頼と結束を得て初めて、自分たちは、この星の未来をかけた戦いのスタートラインに立つことができる。
レオは、深く息を吸い込み、決意の瞳で竜王を見据えた。
「竜王よ、あなたの言う通りだ。
まず、魔族を一つにまとめる。
凍土の民、密林の民、砂漠の民……
そして、まだ俺たちが会っていない、最も人間社会に近い、東部平原の魔族たち。
彼らの協力がなければ、この戦いには勝てない」
レオは、竜王の前に深く頭を下げた。
「だから、お願いがある。
俺たちの戦いに、あなたの力を貸してほしい。
この大陸の魔族たちを、俺と共に導いてほしい」
その真摯な願いに、竜王は、満足そうに、そして力強く頷いた。
「うむ。
旧き友との約束、そしてこの星の未来のためじゃ。
ワシの力、そしてこの大陸の魔族たちも、お主の旗の下に集おう。
もはや、一刻の猶予もないからの」
その言葉は、レオと竜王の間に、正式な同盟が結ばれた瞬間だった。
レオは、顔を上げ、リリスと、その腕の中で眠るリオを見つめた。
穏やかで、平和な時間は終わった。
ここからは、時間との戦いだ。
彼の心には、焦りがあった。
しかし、それはもはや、無力感からくるものではない。
愛する家族と、守るべき未来のために、一刻も早く行動を起こさねばならないという、強い使命感に裏打ちされた、熱い焦りだった。
レオは、アースガルド大陸の地図を睨みつけ、次の目的地を、その心に強く刻み込んだ。
偽りの平和の裏で進む、異星人の野望。
残された時間は、あまりにも少ない。
レオとリリス、そしてリオ。
最後の希望を乗せた彼らの旅は、今、新たな決意と共に、最終局面へと向かって、大きく舵を切ろうとしていた。