第129話:希望の光
竜王の山を統べる厳冬が、再び世界を白銀に閉ざしていた。
旧世界の王の、孤独で悲しい物語が語られてから、さらに半年。
レオとリリス、そしてリルがこの新大陸に滞在してから、早くも二年半の歳月が流れようとしていた。
その歳月は、決して停滞ではなかった。
それは、来るべき決戦に向けた、密やかで、しかし確かな飛躍の時であった。
レオは竜王の指導のもと、自身の覚醒した力を完全に掌握するための修練に明け暮れていた。
それは、もはや単なる魔力の向上ではなかった。
竜王は彼に、この星を流れるエーテルの呼吸を感じ、その流れに自らの意思を乗せることで、自然の理そのものを動かす術を教え込んだ。
それは、かつて彼が振るった勇者の剣とは、全く次元の異なる力だった。
リリスもまた、竜王が持つ古の記憶のアーカイブを読み解き、その知性を飛躍的に高めていた。
しかし、この半年間の彼女の変化は、それだけではなかった。
穏やかな気候が続いていた季節、リリスの体には、新たな生命の兆しが訪れた。
最初、彼女は自身の体調の変化に戸惑い、レオにさえそれを隠そうとしていた。
「な、何でもないわよ!
ちょっと食べ過ぎただけ!
貴方が変な木の実ばかり持ってくるからよ!」
そう言ってレオを突き放しながらも、彼女の顔は不安と、そして隠しきれない喜びに染まっていた。
レオは、そんな彼女の変化にいち早く気づき、その日から、彼は修練の傍ら、リリスの体を気遣い、彼女のために山の穏やかな場所を探しては、共に静かな時間を過ごすようになった。
リルも、リリスの変化を敏感に感じ取っていた。
彼女は、レオのポケットから飛び出すと、リリスのお腹のあたりを不思議そうに飛び回り、時折、その小さな体から温かい光を放って、リリスを優しく包み込んだ。
そして、冬が訪れる少し前、竜王の洞窟の奥深くで、彼らの子は産声を上げた。
人間と魔族、そして旧世界の王と聖騎士長の血を引く、新しい時代の象徴。
レオとリリスは、その小さな命に、リオと名付けた。
「ふん……。
泣き声だけは、貴方に似てうるさいのね……」
リリスは、腕の中ですやすやと眠る我が子を見つめながら、これ以上ないほど優しい声でそう呟いた。
その目には、レオがこれまで見たこともない、母としての深い愛情が溢れていた。
レオは、そんな二人を、胸が締め付けられるような愛おしさで見つめた。
この温かい光景を守るためならば、どんな困難にも立ち向かえる。
彼の決意は、今や、父親としての覚悟によって、さらに強固なものとなっていた。
雪が深く降り積もり、世界が静寂に包まれたある夜。
レオとリリスは、眠るリオを抱き、二人で竜王の前に座していた。
旧世界の王の物語を聞いて以来、竜王は世界の真実について、どこか核心を避けるように、断片的にしか語らなくなっていた。
その沈黙の意図を、今こそ問いただす時だと、二人は感じていた。
「竜王」
リリスが、静かに、しかし強い意志を込めて口火を切った。
「もう、全てを話してくれる時じゃないかしら。
この子の……
リオのためにも」
その問いに、竜王は、これまで見せたことのない、深い安堵の表情を浮かべた。
彼の視線は、レオとリリスを通り越し、リリスの腕の中で眠る、小さな赤ん坊へと注がれていた。
「……うむ。この時を、待っておった」
竜王の声には、長年の重責から解放されたかのような、穏やかな響きがあった。
「お主たちが、真の絆の証……
その子を、この世に生み出すのをな」
「この子を……待っていた?」
レオが、驚きの声を上げた。我が子を慈しむように見つめながら、その言葉の意味を問う。
竜王は、重々しく頷いた。
そして、レオとリリスの心をさらに深く揺さぶる、驚くべき真実を語り始めた。
「ワシは、お主の父、旧世界の王から、一つの『遺言』を託されておったのじゃ」
「父様から……遺言を?」
リリスの瞳が、大きく見開かれる。
「うむ。
あやつが、人間社会から追われ、魔族をまとめるために大陸を奔走し、そして自らの限界を悟った、最期の頃じゃった。
あやつは、密かにワシの元を訪れ、こう言った」
竜王は、遠い過去を追憶するように、目を閉じた。
その脳裏には、孤独な友の、悲痛な覚悟の表情が浮かんでいるのだろう。
『竜王よ、我が友よ。
私は、もう長くはないだろう。
だが、希望の種は蒔いた。
いつか、聖騎士長の息子……
レオという名の若者が、我が娘リリスと共に、お主の元を訪れるやもしれん』
その言葉に、レオとリリスは息を呑んだ。
旧世界の王は、レオの存在を知り、そして、二人が出会うことまで予見していたというのか。
「あやつは続けた。
『もし、その二人が共に現れたなら、それは、星が新たな時代を望んでおる証。
その時こそ、お主が知る世界の真実の全てを、彼らに伝えてほしい』と」
「……」
「じゃが、それだけではなかった。
あやつは、ワシに、さらに二つのことを頼んだ。
一つは、『レオとリリスの間に、子が生まれるまで、二人を見守ってほしい』。
そしてもう一つは、『その子が生まれるまでの間、レオに、この星と共鳴するための修練をつけてやってほしい』と」
竜王の言葉は、この二年半の、彼の行動の全てを説明していた。
彼が、真実を小出しにし、レオに過酷な修練を課してきたのは、全て、旧世界の王との約束を果たすためだったのだ。
「父様は……
なぜ、そこまで……?」
リリスの声は、涙で震えていた。
「あやつは、見抜いておったのじゃ」
竜王は、静かに目を開いた。
「自らが果たせなかった、人間と魔族の結束。
それを成し遂げるには、レオの『共感力』と、お主の『血筋』だけでは足りぬと。
二人の愛の結晶……
その子の存在こそが、全ての魔族の心を一つにする、最後の鍵であると」
竜王は、断言した。
「そして、あやつは、最後にこう言った。
『その子は、我らの最後の希望じゃ。
だからこそ、奴ら『星を喰らう者』に、決してその存在を悟られてはならぬ。
頼む、竜王よ。
あの子を、未来を、匿ってほしい。
私が、心から信頼できるのは、もはやお主をおいて他にいないのだ』と……」
あまりにも壮大な、そして悲痛な、旧世界の王の最後の願い。
彼は、自らの死を悟りながらも、未来への希望を、レオとリリス、そして生まれてくる孫へと、託していたのだ。
レオは、腕の中で眠る我が子を見つめた。
小さな寝息を立てる、か弱く、しかし、この星の未来そのものをその身に宿した存在。
(旧世界の王は、全てを分かっていたのか……。
俺とリリスが出会い、愛し合い、そしてこの子が生まれることまで……。
俺たちの旅は、ただ魔族をまとめるだけじゃない。この子が生きていく、新しい世界を……
彼の託した未来そのものを、創るための戦いなんだ)
レオは、自分たちの旅が持つ、その意味の大きさを、今、改めて認識していた。
それは、彼の肩に、さらに重い責任を乗せるものであったが、同時に、彼の心に、これ以上ないほどの強い希望の光を灯した。
「ふん、当たり前じゃない!」
リリスが、レオの思いを見透かしたように、顔を真っ赤にしながら言い放った。
「貴方一人じゃ何もできないんだから、私がついててあげなきゃしょうがないでしょ!
この子のためにもね! 感謝しなさいよね!」
彼女はそう言って、レオの手を強く握りしめた。
その瞳は、母としての強さと、レオへの揺るぎない愛情で、誇らしげに輝いていた。
レオは、そんな彼女の姿に、心からの笑みを浮かべた。
彼は、リリスの手を握り返し、そして、我が子リオを、もう一度、その腕に強く抱きしめた。
彼らの絆こそが、この偽りの世界を打ち破る、最強の武器となる。
竜王は、その光景を、満足そうに見守っていた。
「希望の光は、灯った……」
竜王は、静かに呟いた。
しかし、その表情は、すぐに厳しいものへと変わった。
「じゃが、油断はならぬ。
お主らがこうして絆を育んでおる、この瞬間にも、闇は着々と、その牙を研いでおるからのう……」
その言葉は、新たな戦いの始まりを告げる、不吉な予兆でもあった。
レオとリリスの旅は、今、リオという確かな希望を胸に、次なる過酷な運命へと、その歩みを進めようとしていた。