第126話:記憶改変計画
竜王の住処がある山の頂にも、ようやく短い夏が訪れていた。
半年前まで世界を覆っていた雪は解け、岩肌からは生命力あふれる緑の苔や、可憐な高山植物が顔を覗かせている。
この半年間、レオとリリスは竜王の元で、ただ時を過ごしていたわけではなかった。
レオは、竜王から直接、この星のエーテルの流れを読み解き、自身の覚醒した力を完全に制御するための修練を積んでいた。
彼の魔法はもはや、かつてのように形をイメージして放つものではなく、世界の呼吸そのものと一体化し、自然の摂理を操るかのような領域に達しつつあった。
リリスもまた、竜王が持つ膨大な記憶のアーカイブに触れ、父である旧世界の王ですら知り得なかった、この星のさらに深い歴史の闇を探求していた。
「べ、別に貴方が心配だから、強くなるために知識を蓄えてるわけじゃないんだからね!
これは私自身の問題よ!
父様の無念を晴らすのは、娘である私の役目なんだから!」
そう言って書物に没頭する彼女の横顔は、もはや単なる魔王の娘ではなく、一人の歴史家、そしてレオと共に未来を切り開くパートナーとしての覚悟に満ちていた。
夏の柔らかな日差しが差し込む洞窟の入り口で、三人は再び炎を囲んでいた。
レオの心には、半年前の竜王の言葉が、今も重く突き刺さっている。
「竜王よ……」
レオは、静かに口を開いた。
「教えてほしい。
『記憶改変計画』の……その全てを。
奴らはどうやって、人間の『愛情』を『憎悪』へと書き換えたんだ?」
竜王は、遠い空を見つめていた深い瞳をレオに向け、重々しく語り始めた。
その声は、夏の陽気とは裏腹に、冬の凍土のように冷たく、そして重かった。
「100年以上前の共闘……
あれは、奴ら『星を喰らう者』にとって、屈辱的な敗北じゃった。
奴らは学んだのじゃ。
この星の生命、特に人間と魔族の絆を、力でねじ伏せることはできぬ、と」
竜王は、石の玉座の肘掛けを、その巨大な爪でなぞった。
「じゃから奴らは、次の一手で、最も狡猾で、最も残虐な策を選んだ。
人間と魔族の絆の源……
すなわち、人間の『共感力』そのものを、内側から破壊する策をな」
リリスが、息を呑んだ。
「まさか……」
「うむ」
竜王は頷いた。
「奴らは、10年前、再びこの星に現れた。
じゃが、今度は鉄の船を空に浮かべるような、愚かな真似はしなかった。
奴らは、自らの超技術を使い、この星そのものを、巨大な精神操作装置へと変えたのじゃ」
「星を……装置に?」
レオには、その言葉の意味がすぐには理解できなかった。
「奴らの技術は、エーテル結晶を媒介とすることで、その真価を発揮する」
竜王は、洞窟の壁に埋め込まれたエーテル結晶を指さした。
「奴らは、アースガルド大陸の中央山脈に眠る巨大なエーテル鉱脈に干渉し、そこから、人間だけが感知できる特殊なエーテルの波を、大陸全土に放った。
それは、魂に直接作用する、見えざる毒の霧のようなものじゃった」
その計画は、二段階に分かれていたという。
「第一に、奴らは人間の記憶から、『真実』を消し去った。
100年以上前に、人間と魔族が手を取り合って共に戦ったという、輝かしい共闘の記憶。
そして、魔族が必ずしも悪ではないという、当たり前の事実。
それらを、まるで初めから存在しなかったかのように、綺麗さっぱり消し去ったのじゃ」
そして、その空白となった記憶の領域に、奴らは、新たな『偽り』を植え付けた。
「第二に、奴らは、消し去った記憶の代わりに、新たな物語を書き込んだ。
『魔王は世界の敵であり、魔族は人間を脅かす邪悪な存在である』という、単純で、しかし、抗いがたいほど強力な物語をな」
「そんな……馬鹿げてるわ!
人間の記憶を、丸ごと書き換えるなんて……!」
リリスが、蒼白な顔で叫んだ。
「じゃが、奴らはそれをやってのけた。
そして、その計画の最も恐ろしい点は、そこではない」
竜王の声が、さらに低くなった。
「奴らは、ただ憎しみを植え付けたのではない。
人間の最も美しい感情……
『愛情』や『信頼』、そういった絆の力を根こそぎ吸い上げ、それを燃料として、純粋な『憎悪』へと転じさせたのじゃ」
その言葉は、レオの心臓を、冷たい手で鷲掴みにするような衝撃を与えた。
「愛情を……憎悪に?」
「そうじゃ」
竜王は、悲痛な表情で続けた。
「家族を愛する心は、『魔族がその家族を脅かす』という偽りの記憶によって、魔族への憎悪に変わる。
友を信じる心は、『魔族を信じる者は裏切り者だ』という偽りの正義によって、友への不信に変わる。
愛が深ければ深いほど、絆が強ければ強いほど、転化される憎悪もまた、深く、そして強くなる。
これ以上に、残酷な精神操作があるか?」
レオは、言葉を失った。
全身の血が、逆流するような感覚。
彼の脳裏に、二人の親友の顔が、鮮明に浮かび上がっていた。
セレーネ……。
そして、エリック……。
(まさか……)
竜王は、レオの葛藤を見透かすように、静かに続けた。
「その計画を最も効率的に進めるため、奴らはまず、人間社会の頂点に立つ者たちを操った。
すなわち、五大陸の国王たちじゃ。
彼らの記憶を書き換え、手駒とすることで、国というシステムそのものを、憎悪を増幅させるための装置として利用した。
勇者育成学校の設立も、その一環じゃろうな」
全てが、繋がった。
勇者育成学校の歪んだ歴史教育。
国王たちの、魔族に対する異常なまでの敵意。そして、アルスの死……。
その全ての根源が、今、明らかになった。
そして、レオの心に、最も深い痛みを伴う真実が、鋭い刃となって突き刺さった。
(セレーネ……)
彼女の、魔法至上主義。魔法が使えないレオへの、執拗ないじめ。
それは、彼女自身の劣等感もあっただろう。
しかし、その根底には、異星人によって植え付けられた、「魔族(魔力に繋がる力を持たない者)は劣等である」という、歪んだ価値観があったのかもしれない。
そして、彼女の最期。
「レオ……エリック……私は……信じてた……、
あなたたちを……そして、この世界を……」
彼女は、偽りの世界を救うために、偽りの正義を信じて、命を落としたのだ。
彼女の純粋な願いも、仲間への愛情も、全てが、異星人の掌の上で弄ばれた結果だった。
「……っ!」
レオは、胸を締め付けられるような激しい痛みに、思わず呻いた。
(そして……エリック……!)
親友の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
エリックの、あの深い共感力。
孤児だった自分を、誰よりも理解し、支えてくれた、彼の優しさ。
彼が自分に向けてくれた友情。
セレーネに抱いていた、秘めたる愛情。
それら全てが、あの魔王城で、セレーネの死をきっかけに、自分への、燃え盛るような憎悪へと転化させられたのだ。
(お前の憎しみは、お前自身のものじゃなかったのか……?
俺たちの友情が、セレーネへの想いが……奴らに利用されて、憎しみに変えられただけだったというのか……?
そんな……そんなことが……許されて、いいはずがない!)
「う……あああああああああああっ!」
レオは、たまらず絶叫した。
それは、彼の魂からの叫びだった。
親友を失い、親友に裏切られた悲しみではない。
親友の、その美しい心そのものを、汚され、利用されたことへの、どうしようもない怒りと、絶望。
彼の目から、熱い涙が止めどなく溢れ落ちた。
「レオ……!」
リリスが、彼の隣に駆け寄り、その震える体を強く抱きしめた。
「……最低よ。
人間の心を弄んで……そんなやり方、絶対に許せないわ!
貴方がしっかりしないなら、私が先に奴らを叩き潰してやるんだから!」
彼女の声は震えていたが、その瞳には、レオを支えようとする、強い意志の光が宿っていた。
彼女の温もりが、レオの凍てついた心を、わずかに溶かしていく。
レオは、リリスの腕の中で、嗚咽を漏らし続けた。
しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻したレオの顔に、新たな疑問が浮かんだ。
その疑問は、隣にいるリリスもまた、同時に抱いていたものだった。
「でも、おかしいじゃない!」
リリスが、竜王に向かって鋭い視線を向けた。
「なんで、人間だけなのよ?
私たち魔族には、その記憶改変とやらは効かなかったっていうの?
私の父様は人間だったから操られた……?
じゃあ、純粋な魔族は、なぜ……?」
その問いこそが、この悲劇の、もう一つの側面を解き明かす鍵だった。
竜王は、二人の問いに、深く、そしてどこか悲しげな表情で、静かに頷いた。
「その問いこそが、この悲劇の根源であり……
そして、魔族という種の、どうしようもない性でもあるのじゃよ……」