第122話:深まる疑念
洞窟の外では、砂漠の風が、まるで世界の真実を嘆くかのように、悲しげな音を立てて吹き荒れていた。
長老が語り終えた後、洞窟の中は、燃えさしの松明が爆ぜる音だけが響く、重い沈黙に支配されていた。
異星人。
記憶改変計画。
あまりにも突飛で、荒唐無稽な言葉の断片が、レオの頭の中で渦を巻き、彼の信じてきた世界のすべてを、根底から揺さぶっていた。
勇者育成学校で教え込まれた、絶対的な正義。
魔王を悪とし、それを討ち滅ぼすことこそが、世界を救う唯一の道であるという、揺るぎない信念。
そのために仲間と共に血を流し、アルスを失い、セレーネを死なせ、エリックと袂を分かった。
その全てが、遥か遠い星から来た侵略者の、掌の上で繰り広げられた、滑稽な人形劇だったというのか。
「……嘘よ。
そんなこと……あるはずない…」
沈黙を破ったのは、リリスのかすれた声だった。
彼女は蒼白な顔で、唇を噛み締めていた。
いつもの強気な態度は影を潜め、その瞳には、これまで見せたことのないほどの深い混乱と、そして恐怖の色が浮かんでいた。
「ただの古い言い伝えよ!
砂漠の暑さで、このジジイの頭がおかしくなっただけじゃないの!?」
彼女は、自分に言い聞かせるように、あるいは、この悪夢のような現実を否定するかのように、声を荒らげた。
しかし、その声は虚しく震えていた。
彼女の父、旧世界の王がなぜ人間たちに裏切られ、追放されなければならなかったのか。
なぜ、あれほどまでに深い憎しみを向けられたのか。
その長年の疑問が、今、この信じがたい物語によって、一つの悍ましい答えに結びつこうとしていた。
レオは、何も言えなかった。
彼の心は、怒りでも、悲しみでもない、もっと深く、冷たい虚無感に包まれていた。
もし長老の話が真実なら、彼が歩んできた道は、一体何だったのか。
彼が「正義」の名の下に剣を振るい、倒してきた魔族たちは、ただ操られた人間たちの被害者だったのではないか。
セレーネの死は?
彼女が最期まで信じた「世界を救う」という願いは、異星人の筋書き通りの、無価値な死だったというのか。
そして、エリック。
親友の死に絶望し、憎しみに染まった彼は、今も偽りの英雄として、操られた国王たちの下で、一体何を信じているのだろう。
「……っぐ…」
激しい頭痛と吐き気が、レオを襲った。
それは、かつて魔王城の牢獄で真実の片鱗に触れた時と同じ、偽りの記憶と真実がせめぎ合う苦痛だった。
「レオ!
しっかりしなさい!」
リリスが、はっとしたようにレオの体を支える。
彼女の華奢な腕が、震えるレオの背中を力強く支えていた。
「こんなところで、貴方が潰れてどうするのよ!
まだ、何も終わってないじゃない!」
彼女の言葉は、レオを現実に引き戻した。
そうだ、まだ何も終わっていない。
むしろ、本当の戦いは、今、始まったばかりなのかもしれない。
レオとリリスは、長老に一礼すると、重い足取りで洞窟を後にした。
半年を過ごした、砂漠の仮の住処に戻っても、二人の間に言葉はなかった。
ただ、夜空に輝く無数の星々が、今は不気味な監視者の目のように感じられ、レオの心を苛んだ。
数日が過ぎた。
レオは、心を整理するために、これまで以上に剣の修練に打ち込んだ。
砂を切り裂く剣の風切り音だけが、彼の混乱した思考を一時的に忘れさせてくれた。
リリスは、そんなレオの姿を、何も言わずに見守っていた。
彼女もまた、古代文字が刻まれた石碑の前に座り、深く思索に耽っていた。
彼女は、長老の話を、父が遺した旧世界の歴史と照らし合わせ、その信憑性を確かめようとしていたのだ。
そして、ある夜。
月明かりが遺跡を青白く照らす中、リリスがレオの隣に、静かに腰を下ろした。
「……ねえ、レオ」
彼女の声は、夜の静寂に溶け込むように、穏やかだった。
「もし……
もし、あのジジイの話が本当だとしたら……
貴方は、どうするつもり?」
レオは、剣を振るうのをやめ、リリスの方を向いた。
彼の瞳には、深い苦悩の色が浮かんでいた。
「わからない……。
俺が信じてきたもの、俺が戦ってきた意味、その全てが、分からなくなった。
俺は、ただの道化だったのかもしれない」
その弱々しい言葉に、リリスは眉をひそめた。
「馬鹿なこと言わないで!」
彼女の声には、いつもの棘があった。
しかし、それはレオを奮い立たせるための、彼女なりの優しさだった。
「貴方が道化ですって?
ふざけないで!
貴方は、私の父の遺志を継いだ、新しい魔王でしょうが!
凍土の民を救ったのも、密林の民の心を開いたのも、この砂漠の石頭たちの信頼を得たのも、全部、貴方の力じゃない!」
リリスは、立ち上がると、レオの胸を指で突いた。
「異星人が何よ!
記憶改変が何ですって!
そんなもの、貴方が壊して、本当の世界を取り戻せばいいだけの話じゃない!
そのために、貴方は覚醒したんでしょう!?」
彼女の瞳は、怒りと、そしてレオへの揺るぎない信頼の光で、爛々と輝いていた。
「……リリス」
彼女の言葉は、レオの心に深く突き刺さった。
そうだ、自分はもう、かつての勇者レオではない。
魔王として、この世界の真実と向き合い、戦う覚悟を決めたはずだ。
「俺は……」
レオは、ゆっくりと立ち上がった。
彼の心の中で、霧が晴れていくように、進むべき道が見え始めていた。
「俺は、確かめなければならない。
長老の話の真偽を。
そして、もしそれが真実なら……
俺は、戦う。この星を蝕む、本当の敵と」
その言葉に、リリスは満足そうに頷いた。
「ふん、それでこそ私の選んだ男よ。
で、具体的にどうするの?
あのジジイの話だけじゃ、雲を掴むようなものじゃない」
レオは、思考を巡らせた。
長老の言葉の断片を、これまでの経験と繋ぎ合わせる。
「勇者育成学校……。
あの学校が設立されたのは、ちょうど『空白の10年間』と呼ばれる時期だ。
そこで教えられる歴史は、魔族への憎しみを植え付けるためのものだった。あまりにも、都合が良すぎる」
「国王たちね……」
リリスが、忌々しげに呟いた。
「父様を裏切り、追放した、あの連中。
彼らが、異星人とやらの手先だとしたら……
全ての辻褄が合うわ」
レオの脳裏に、アルスの顔が浮かんだ。
「空白の10年間」の真実を追い求め、そして非業の死を遂げた友。
彼の死は、魔族の仕業ではなかった。
真実に近づきすぎたために、国王たちによって、口を封じられたのだ。
「国王たちが、この世界の偽りの支配者だ。
彼らが語る『正義』こそが、人間と魔族を縛り、異星人の侵略を助長している、最大の呪いだ」
レオは、拳を強く握りしめた。
「この呪いを解かなければならない。
そのためには、もっと情報が必要だ。異星人の目的、規模、そして……
奴らに対抗する術を」
「でも、どうやって?
あのジジイも、古い伝承を知っているだけだったわ。
これ以上の情報は、この砂漠にはないでしょう」
レオは、再び長老の元を訪ねることを決意した。
翌日、レオとリリスは、再び長老の洞窟を訪れた。
長老は、彼らが来ることを予期していたかのように、静かに二人を迎えた。
「長老。
俺たちは、あなたの話を信じる。
そして、戦うことを決めた。
だが、情報が足りなすぎる。この大陸のどこかに、異星人について、もっと詳しく知る者はいないだろうか」
レオの真剣な問いに、長老は、しばらく目を閉じていた。
やがて、彼はゆっくりと目を開き、洞窟の壁に描かれた、一枚の世界地図のような壁画を指さした。
「このカルディア砂漠は、アースガルド大陸の西の果て。
だが、世界は、この大陸だけではない」
長老の指は、海の向こう、壁画にかすかに描かれた、別の大陸を指していた。
「我らと同じように、人間たちの迫害から逃れ、古からの記憶を留める魔族たちが、世界のどこかにいるやもしれぬ。
特に、海を隔てた先の大陸には、我らよりもさらに古く、強大な力を持つ『魔王』がいると、伝承は語っている」
「別の大陸の……魔王……」
レオの瞳に、新たな光が宿った。
「その魔王なら、何かを知っているかもしれない。
異星人のこと、そして、彼らと戦う術を」
リリスもまた、その可能性に目を見開いた。
「まさか、大陸を渡るっていうの……?
無茶よ、そんなの!」
「無茶でも、行かなければならない」
レオの決意は、固かった。
「俺たちの旅の目的は、変わった。
ただ魔族をまとめるだけじゃない。
この星の未来をかけた、本当の戦いのために」
この日、レオとリリスは、半年間滞在したカルディア砂漠を離れることを決意した。
砂漠の魔族たちは、彼らの旅立ちを、もはや止めようとはしなかった。
長老は、レオの肩に、皺だらけの手を置いた。
「行け、若き魔王よ。
我らは、お前たちの帰りを待つ。
この砂漠は、いついかなる時も、お前たちの砦となろう」
その言葉は、砂漠の民がレオに捧げた、最大限の信頼の証だった。
レオとリリスは、砂漠の民たちに見送られ、新たな目的地へと向かって、再び歩き始めた。
彼らの背負う使命は、もはや人間と魔族の共存という理想だけではない。
この星の運命そのものを、その両肩に担っていた。
偽りの世界に、真実の光を灯すための、壮大な旅が、今、再び始まろうとしていた。