第121話:知られざる歴史
砂漠の夜は、凍えるほどの静寂に満ちていた。
長老の「ついてまいれ」という言葉は、その静寂を破る、重い一石だった。
レオとリリスは、言葉もなく、彼の後を追った。
長老が二人を導いたのは、巨大な遺跡群の中でも、ひときわ古く、そして神聖な空気が漂う一角だった。
風化した石柱が、まるで墓標のように立ち並び、その奥に、岩をくり抜いて作られた小さな洞窟の入り口が、闇色の口を開けていた。
そこが、長老の住処だった。
洞窟の内部は、驚くほどに静かで、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
壁には、燃えさしの松明がかすかな光を投げかけ、その光が、壁一面にびっしりと刻まれた古代の壁画を揺らめかせるように照らし出していた。
「……何よ、ここ。
ただの洞穴かと思ったら、案外手が込んでるじゃない」
リリスは、壁画に描かれた奇妙な紋様や、見たこともない生物の姿に、思わず目を奪われていた。
彼女は、ツンとした態度を崩さないように努めていたが、その瞳には隠しきれない好奇心と、この場所に宿る歴史の重みへの畏敬の念が滲んでいた。
長老は、洞窟の中央に置かれた平らな石の前に二人を座らせると、自らもその向かいに腰を下ろした。
彼の動きは、悠久の時を生きる者だけが持つ、ゆっくりとした、儀式的な優雅さに満ちていた。
「お前たちに、我らの一族に伝わる、古き物語を話そう」
長老の声は、乾いた砂が風に舞うように、静かに、しかしはっきりと響いた。
「信じるか信じないかは、お前たち次第だ。
だが、これは、この砂漠の砂が一粒一粒記憶している、真実の断片だ」
リリスは、腕を組み、鼻を鳴らした。
「ふん、どうせ大昔の恨みつらみでしょう?
人間に裏切られた、可哀想な私たち、って話なら、もう聞き飽きたわよ」
レオが、その無礼を咎めるようにリリスの腕を軽く突く。
しかし、長老は気にした様子もなく、壁に描かれた一枚の絵を、皺だらけの指で静かになぞった。
その壁画には、輝く太陽の下、多種多様な姿の人間と魔族が、手を取り合い、共に笑い合っている姿が描かれていた。
「始まりの時代、この世界は調和に満ちていた」
長老の語りは、神話の一節のように、荘厳な響きで始まった。
「人間、魔族、そして万物に宿る精霊たち。
我らは、互いの違いを認め、この大地の恵みを分かち合い、生きていた。
そこに、憎しみも、争いもなかった」
レオは、その壁画に見入った。
それは、彼が魔王から見せられた旧世界の記憶、そして彼自身が心の底から望む、理想の世界そのものだった。
「しかし、その調和は、永遠ではなかった」
長老の指が、隣の壁画へと移る。
そこには、夜空が描かれ、一つの星が、異常なほどの輝きを放ちながら、地上へと落ちてくる様子が描かれていた。
「およそ、10年前のことだ。
空から『鉄の涙』が落ちてきた」
「鉄の涙……?」
レオが、思わず問い返す。
「我らの祖先は、そう呼んだ。
それは、流星ではない。
冷たい輝きを放つ、巨大な船だった」
長老の言葉に、レオとリリスは顔を見合わせた。
船?
空から落ちてくる船など、この世界の技術では考えられない。
「その船から、現れた者たちがいた」
長老の指は、さらに次の壁画を指し示した。
そこには、人の形に似ているが、どこか異質な存在が描かれていた。
彼らの体は滑らかで、継ぎ目がなく、何より、その瞳には、一切の感情が感じられなかった。
ただ、冷たい光だけが、見る者を射抜くように描かれている。
「……異星人、とでも呼ぶべきか。
彼らは、自らを『調停者』と名乗り、この星の未熟な文明を導きに来たと、人間たちに語った」
「なんですって? そんな馬鹿な話……」
リリスが、思わず声を上げた。
彼女の顔からは、いつもの強気な態度は消え失せ、純粋な驚きと混乱が浮かんでいた。
長老は、構わずに話を続ける。
「彼らは、人間に、大いなる知恵と力を与えた。
エーテル結晶を操る、我らの知らぬ技術。遠く離れた者と話す術。病を癒す奇跡。
人間たちは、彼らを神の使いだと信じ、熱狂的に受け入れた」
レオの脳裏に、勇者育成学校で学んだ、超技術の存在がよぎった。
あれは、人間が独自に開発したものではなかったのか?
「だが、彼らの真の目的は、別のところにあった」
長老の声が、わずかに低くなった。
「彼らが本当に欲していたのは、この星の生命そのもの、魂の源……『エーテル』だったのだ」
壁画は、異星人たちが、巨大なエーテル結晶の鉱脈に触れ、その力を吸い上げているかのような光景を描いていた。
そして、物語は、決定的な転換点を迎える。
「ある日を境に、全てが変わった。
穏やかだった人間たちが、まるで何かに取り憑かれたかのように、我々魔族に、牙を剥き始めたのだ」
長老の瞳に、初めて、深い悲しみの色が宿った。
「昨日まで友であった者が、一夜にして敵となった。
交わしたはずの約束は、まるで初めから存在しなかったかのように、彼らの記憶から消え去っていた。
我々への感謝は、理由のない憎悪へと変わっていた」
レオは、息を呑んだ。
その話は、あまりにも常軌を逸していたが、彼が経験してきた世界の歪みと、奇妙に一致していた。
「彼らは……
人間の『記憶』を喰らったのだ」
長老は、断定するように言った。
彼の指が、最もおぞましい壁画を指し示す。
そこには、異星人が、ひざまずく人間の頭に手を置き、その頭から、光のようなものが吸い出されている様子が描かれていた。
光を吸い取られた人間は、瞳から輝きを失い、まるで抜け殻のようになっていた。
「記憶改変計画……」
レオの口から、無意識にその言葉が漏れた。
魔王が、最後に遺した言葉の断片。
その意味が、今、この瞬間に、恐ろしいほどの現実味を帯びて、彼の全身を貫いた。
「そんな……馬鹿げてるわ!
人間の記憶を、丸ごと書き換えるなんて……!
そんなこと、できるはずが……!」
リリスは、激しく首を横に振った。
しかし、彼女の顔は蒼白だった。
彼女の父、旧世界の王が、なぜ人間たちに裏切られ、追放されなければならなかったのか。
なぜ、あれほどまでに深い憎しみを向けられたのか。
その長年の疑問が、今、一つの、信じがたい答えに繋がりかけていた。
「彼らは、我々の心をも喰らおうとした。
だが、我ら魔族には、それが通用しなかった」
長老は、自身の胸を指さした。
「我らは、人間ほどに、『共感』という力を持たぬ。
我々の心は、個として、孤独として、成り立っている。
他者の感情に流されにくい、その性質が、皮肉にも、我らを記憶の汚染から守ったのだ」
レオは、愕然とした。
魔族の共感力の低さが、異星人の精神操作を防いだというのか。
そして、人間は、その共感力の高さゆえに、集団で、容易く記憶を操作されてしまった……。
全てのピースが、音を立ててはまっていく感覚。
勇者育成学校で教えられた、都合の良すぎる歴史。
魔王を絶対悪とし、人間を正義とする、単純化された世界。
アルスが追い求めていた「空白の10年間」の謎。
そして、セレーネを死に追いやり、エリックを憎しみに染めた、あの悲劇……。
その全てが、この「異星人」という、想像を絶する存在によって、意図的に仕組まれたものだったとしたら?
「……なぜ……
なぜ、そんなことを……」
レオの声は、震えていた。
長老は、静かに首を横に振った。
「我らには、計り知れぬ。
ただ、一つだけ言えることがある。
彼らが持ち込んだ『憎悪』という毒は、今もこの星を蝕み続けている。
そして、その毒は、最も力の強い人間の王たちの心に、最も深く、巣食っているのかもしれぬな……」
長老の最後の言葉は、レオの心に、決定的な疑念を突き立てた。
人間を支配する、五大陸の国王たち。
彼らこそが、偽りの歴史を語り、勇者たちを戦いへと駆り立ててきた張本人だ。
もし、その彼らが、異星人に操られているとしたら……?
レオは、言葉を失った。
リリスもまた、蒼白な顔で、ただ唇を噛み締めていた。
この世界の戦いは、その裏で、異星人による静かなる侵略という、あまりにも巨大な陰謀が進行していたのだ。
レオたちの旅は、もはや、人間と魔族の共存という目的だけでは収まらない、この星の存亡をかけた戦いへと、その意味を大きく変えようとしていた。
洞窟の外では、砂漠の風が、まるで世界の真実を嘆くかのように、悲しげな音を立てて吹き荒れていた。