第119話:砂漠の孤独、隠された真実
生命の律動に満ちた南部密林を後にしてから、半年が過ぎていた。
密林の魔族たちとの間に芽生えた確かな絆を胸に、レオとリリスは次なる目的地、西部砂漠へと足を踏み入れていた。
彼らにとって、それは未知の魔族との対話であり、大陸全土を覆う歪んだ歴史の真実を辿る旅でもあった。
しかし、彼らの前に広がったのは、生命を拒絶するかのような、あまりにも過酷な世界だった。
どこまでも続く、黄金色の砂の海。
空には一点の雲もなく、灼熱の太陽が容赦なく大地を焼き、空気を陽炎で歪ませる。
吹き抜ける乾いた風は、肌の水分を容赦なく奪い、砂の粒子を頬に叩きつけてきた。
「……冗談でしょ、これ」
リリスは、太陽光を反射して白く輝くローブのフードを深く被り、うんざりした声で呟いた。
彼女の準備がなければ、この灼熱地獄を数日と進むことはできなかっただろう。
「密林の湿気も大概だったけど、今度は全身干物になる気分だわ。
そもそも、こんな場所に生物がいること自体が間違いなのよ」
その視線の先で、リルが暑さにぐったりしないよう、レオが自身の魔力を微かに放って涼しい空間を維持している。
その優しさが、この過酷な環境ではひどく場違いなものに思えた。
「……いや、いる。
確かに、ここに彼らは生きている」
レオは、砂漠が放つ、独特の気配を感じ取っていた。
それは生命の息吹というよりは、無機質な岩石が放つような、静かで、冷たい存在感。
彼が持つ魔力は、この大地の気配と共鳴しようとするが、まるで分厚い壁に阻まれるかのように、弾き返された。
旅を始めて数日後、彼らはついにその住人たちと遭遇した。
砂漠の岩場に、まるで風景の一部のように、一人の魔族が佇んでいた。
全身が砂色の硬質な鱗で覆われ、厳しい環境に適応した爬虫類型の姿をしている。
その黄金色の瞳は、レオとリリスの姿を捉えたが、何の感情も映し出さなかった。
「こんにちは。
俺はレオ。旅の者だ。
少し、話を……」
レオが声をかける。
しかし、その魔族はレオの言葉に何の反応も示さない。
まるで、風の音や、砂の流れる音と同じように、意味のないノイズとして処理しているかのようだった。
そして、ゆっくりと岩陰へと消えていった。
「な……!
ちょっと、待ちなさいよ!」
リリスが、今度こそ我慢の限界とばかりに声を張り上げた。
「話しかけてるのが聞こえないの!?
それとも、聞こえても理解できないほど、頭の中まで砂でできてるのかしら!」
リリスの苛立ちは、単なる無視に対する怒りではなかった。
彼女は、同族である魔族が持つ、ある種の「欠落」を肌で感じ取っていた。
それは、人間とは根本的に異なる、共感という概念の希薄さだった。
彼らは、他者の感情を理解しようとしない。
いや、そもそも、理解するという発想自体が、彼らの価値観には存在しないのかもしれない。
その後も、彼らは点在する何人かの砂漠の魔族に遭遇したが、結果は同じだった。
彼らは集落を形成せず、個々が独立した個体として、互いに干渉することなく存在している。
それは、人間からの迫害による閉鎖性とはまた質の違う、より根源的な、種族としての在り方のように思えた。
「ダメね、こいつら。
共感能力が絶望的に欠如してるわ。
言葉が通じてるかすら怪しい。
これじゃ、話にならないじゃない」
リリスは、諦めたようにため息をついた。
レオもまた、深い無力感に襲われていた。
凍土の民には力を貸し、密林の民とは命への共感を通じて心を通わせることができた。
しかし、この砂漠の魔族たちには、そのどちらも通用しない。
彼らにとって、他者との関わりは「不要なもの」であり、共感は「理解不能な概念」なのだ。
旅の果てに、彼らは砂漠の奥深くで、巨大な遺跡群に辿り着いた。
そこは、かつて大きな街であったことを物語っており、広場のような空間の中央には、天を突くほど巨大な、風化した石碑が静かに佇んでいた。
そして、その石碑の根元に、一人の老いた魔族が座っていた。
彼の鱗は色褪せ、その顔には、悠久の時が刻んだ深い皺が走っている。
おそらく、この砂漠に生きる者たちの、部族長と呼ばれる存在だろう。
レオは、静かに彼の前に立った。
リリスも、緊張した面持ちでその隣に控える。
「俺は、レオ。
かつて人間と魔族の橋渡し役を担った、古の『魔王』の名を継ぐ者だ」
レオは、はっきりとそう名乗った。
この言葉が、彼らにとって意味を持つのかは分からなかったが、自分の立場を偽ることはできなかった。
長い沈黙の後、長老はゆっくりと顔を上げた。
その虚ろな瞳が、初めてレオの姿を捉える。
「……古の、魔王だと?」
長老の声は、乾いた砂が擦れるようにかすれていた。
その瞳に浮かんだのは、懐かしさでも、驚きでもない。
ただ、深い、深い虚無の色だった。
「そんなものは、とうの昔に滅びた。
人間どもの裏切りと共にな」
長老は、再び視線を地平線の彼方に戻すと、感情を一切排した、淡々とした口調で語り始めた。
それは、悲劇を嘆く物語ではなく、過去に起きた「事象」を報告するような、無機質な響きを持っていた。
「かつて、我々はこの地で人間と『取引』をしていた。
我らは鉱石を、彼らは水を。
互いの利害が一致し、生存のための協力関係にあった。それだけだ」
長老は、石碑に刻まれた紋様を、皺だらけの指でなぞった。
「だが人間は、それを『友情』や『信頼』と呼んだ。
我々には理解できぬ概念だった。
彼らは我々に『心を通わせよう』と言ったが、我々はそれを『より効率的な取引のための交渉』だと解釈した。
その齟齬が、命取りになった」
長老の言葉は、レオの胸に重く突き刺さった。
これは、単なる裏切りの物語ではない。
人間と魔族という、根本的に異なる価値観を持つ種族が、互いを理解できぬままに関わった結果生じた、必然の悲劇だった。
「ある時、人間たちは言った。『もっと深く、心で繋がるための儀式をしよう』と。
そして、我々からエーテル結晶の採掘場所を聞き出した。
それが、彼らの言う『信頼の証』だと。
我々は、その言葉の意味を理解せぬまま、情報を渡した。
それが、我々の一族にとって最大の利益になると判断したからだ」
長老は、一度言葉を切り、乾いた空気を吸い込んだ。
「次の日、この街は炎に包まれた。
人間たちは、我々が眠っている間に、仲間を、子を、全てを殺した。
彼らは、我々が信じたから裏切られたのだと言った。
だが、違う。
我々は信じてなどいない。
ただ、利害が一致していると『判断』しただけだ。
彼らは、我々が持ち得ぬ『共感』というものを、我々に求め、そしてそれが得られないと知るや、我々を不要なものとして排除したのだ」
その淡々とした語り口は、どんな悲痛な叫びよりも、彼らが受けた傷の深さと、絶望の根源を雄弁に物語っていた。
彼らは、心を裏切られたのではない。
存在そのものを、その価値観そのものを、否定されたのだ。
「それ以来、我々は学んだ。
他者と関わることは、リスクでしかない。
干渉せぬこと、理解しようとせぬこと。
孤独であることこそが、我々が生きるための唯一の『正解』なのだ。
お前が古の魔王の名を継ぐというのなら、我々に何を求める?
我々に、再びあの理解不能な『共感』という枷をはめようというのか」
長老の言葉は、鋭い刃となってレオに突き立てられた。
彼の信じる「共感の力」。
それは、人間と魔族の架け橋になると信じてきた、彼の根幹を成す力だ。
だが、目の前の魔族にとって、それは忌むべきものであり、かつて自分たちを滅ぼした、呪いの言葉ですらあった。
「……っ」
レオは、言葉に詰まった。
リリスもまた、唇を噛み締め、何も言えずにいた。
彼女自身、共感というものを完全に理解しているわけではない。
だが、目の前の長老が語る絶望は、彼女の心をも強く揺さぶっていた。
灼熱の太陽がゆっくりと砂の海に沈み、空を燃えるような茜色に染め上げる。
レオは、魔王として、そして人間として、これまでで最も高く、そして分厚い壁に直面していた。
自分の信じる正義が、ここでは通用しない。
自分の力が、ここでは意味をなさない。
この深い孤独と絶望に染まった砂漠で、自分に何ができるのか。
答えの見えない問いが、レオの心に重くのしかかっていた。