第118話:大地の声
密林の魔族たちは、リリスの言葉によって考察の沈黙を選んだものの、未だレオとリリスを完全に受け入れたわけではなかった。
彼らは、ガジュマルの木の広場に、簡素な天幕を張ることを許しただけで、それ以上の交流は求めなかった。
それでも、レオは密林の生命が持つ独特の律動に耳を傾け、彼らの生活様式を深く理解しようと努めた。
密林の魔族たちは、凍土の民が厳しい環境で体得した「耐え忍ぶ強さ」とは異なり、森の恵みを享受し、その循環の中で生きていた。
彼らは、大地から湧き出る水、木々から実る果実、そして森を駆ける獣たち、その全てを精霊の恵みとして尊んでいた。
彼らの営みは、森の息吹と一体化しており、彼ら自身が森の細胞であるかのように見えた。
レオは、彼らが森の生命と深く共鳴していることに気づいた。
彼の内に宿る魔力もまた、精霊の光を放つリルと同じように、密林の生命エネルギーと波長を合わせることができた。
レオは、自身の魔力を微かに解放し、周囲の植物に触れることで、彼らの成長を促したり、枯れかけた花を蘇らせたりした。
それは、派手な魔法ではなかった。
しかし、その行為は、密林の魔族たちの心を揺さぶった。
彼らは、レオが森の調和を乱すことなく、その一部として生命を育む姿を、静かに見つめていた。
彼の魔法は、言葉を超え、彼らが最も大切にする「生命」そのものへの、深い共感の表明だった。
「まったく、何やってるのよ。
そんなことしたって、彼らが態度を変えるわけないじゃない」
リリスは、口ではそう言いながらも、レオが弱った蔦にそっと手を触れ、緑の光を宿らせるのをじっと見ていた。
枯れかけていた蔦が、わずかに色を取り戻し、新たな芽を吹き出す。
「貴方がそんな顔してると、私まで変な気持ちになるじゃない」
リリスは、ぷいと顔をそむけたが、その瞳はレオの手元に釘付けだった。
彼女の視線の先で、リルがレオの肩から顔を出し、密林の精霊たちと同じように、小さく光を放っていた。
その日の午後、静寂に包まれた密林に、不穏な物音が響いた。
ガサガサと茂みをかき分ける音、そして、金属が擦れるような、場違いな響き。
密林の魔族たちは、瞬時に気配を察知し、身を固くした。
その表情には、警戒と、長年外界から身を隠してきた者だけが持つ、独特の緊張感が走った。
レオとリリスもまた、異変に気づき、身構えた。
茂みの中から現れたのは、数人の人間たちだった。
彼らは粗末な革鎧を身につけ、手には網や縄、そして鈍く光る剣を携えている。
その顔には、欲に塗れた光と、焦燥の色が浮かんでいた。
「いたぞ!
あそこに密林の魔族が!」
人間たちのうちの一人が、叫んだ。
その視線の先には、魔族の子供を抱きかかえた、若い魔族の親がいた。
「おい、子供を渡せ!
さっさと大人しくしていれば、命までは取らん!」
人間たちのリーダー格らしき男が、剣を抜き放ち、脅しをかけた。
密林の魔族たちは、静かに、しかし激しい怒りを瞳に宿した。
彼らは、精霊信仰を持つ穏やかな種族だが、自分たちの子供、未来を奪われることだけは許さない。
「グルオオオオオッ!」
魔族の親は、子供を背後に庇い、低い唸り声をあげて威嚇した。
その体からは、普段の穏やかさからは想像できないほどの、強い闘気が立ち上った。
人間たちの用心棒らしき男が、その魔族の親に向かって、一気に距離を詰めた。
「チッ、面倒な。
大人しくしろと言っているだろうが!」
用心棒は、剣を大きく振りかぶり、魔族の親に斬りかかった。
密林の魔族は、素早い動きでそれをかわそうとしたが、用心棒の攻撃は、彼らの野生の勘を上回る速さだった。
(まずい!)
レオは、その光景を目にし、瞬時に駆け出した。
リリスもまた、彼の背中を追うように、猛然と走り出した。
剣が、魔族の親の体を捉えようとした、その刹那――。
キンッ!
鋭い金属音が響き渡り、用心棒の剣は、レオの剣によって弾き飛ばされた。
「なっ!?」
用心棒が驚きに目を見開く。
その隙に、リリスが素早く魔族の親と子供の間に割って入り、自身の魔力を放って、用心棒を後退させた。
「まったく、何してるのよ!
余計な手間かけさせないで!」
リリスは、子供を抱きしめる魔族の親を庇うように立ち、人間たちを睨みつけた。
その瞳には、侮蔑と、そして激しい怒りが宿っていた。
「貴様ら、何者だ!」
用心棒が、警戒しながら叫んだ。
レオは、剣を構え、人間たちに語りかけた。
「止めてくれ。
この子たちに、手を出すな」
彼の言葉は、冷静だが、その内に秘められた怒りが、周囲の空気を震わせた。
人間たちは、レオとリリスの突然の介入に戸惑いながらも、その圧倒的な力に気圧されていた。
「なぜだ!
なぜ邪魔をする!
こいつらの体液は、俺たちの子供の病を治すんだ!
俺たちは、ただ……病気の子供を救いたいだけなんだ!」
人間のリーダー格の男が、半狂乱になりながら叫んだ。
その顔には、切羽詰まった親の悲痛な叫びが刻まれていた。
レオは、その言葉に耳を傾けた。
魔族の子供の体液で、人間の子供の病気が治る?
そんな話は、これまで聞いたことがなかった。
「詳しく話せ」
レオは、剣を下げ、男に歩み寄った。
用心棒は警戒したが、リーダー格の男は、藁にもすがる思いで、その事情を話し始めた。
「俺たちの村では、原因不明の奇病が流行っている。
子供たちが次々と高熱を出し、命を落としているんだ。
あらゆる薬を試したが、効果がない……。
そんな時、密林の奥に、子供の体液がどんな病も治すという魔族がいると聞いたんだ!
俺たちには……
もう、これしか道がなかったんだ!」
男の目からは、涙が溢れ落ちていた。
その声は、絶望と、そして子供を思う親の切なる願いに満ちていた。
レオは、その言葉に、胸を締め付けられる思いだった。
人間も魔族も、大切な命を守りたいという願いは同じだ。
彼は、密林の魔族の親に振り向いた。
リリスが、人間の言葉を魔族の言葉に翻訳して伝えた。
魔族の親は、人間の話を聞き、その瞳に複雑な感情を浮かべた。
彼らは、長年人間から迫害されてきた。
しかし、目の前の人間の親の悲痛な叫びは、彼らの心にも届いたようだった。
レオは、魔族の親に向かって、ゆっくりと、しかし真剣な声で語りかけた。
「彼らの子供の命がかかっている。
この子から、ほんの少しだけでいい。
血を分けてやってくれないか」
リリスが、その言葉を翻訳した。
魔族の親は、しばらく沈黙した後、ゆっくりと頷いた。
その目には、森の生命が持つ、深い慈悲の光が宿っていた。
「……グルゥ」
魔族の親は、自らの指先から、ほんのわずかな血を絞り出した。
その血は、密林の生命が凝縮されたかのように、神秘的な光を放っていた。
人間たちは、その光景に驚きと、そして希望の光を見た。
彼らは、レオとリリス、そして密林の魔族の親に、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます……!
ありがとうございます……!」
男たちの目には、安堵の涙が溢れていた。
この出来事は、密林の魔族たちにとって、大きな転換点となった。
レオとリリスの絆、そしてレオの人間と魔族双方への深い共感力は、彼らが長年抱えてきた「外界への隔絶」という意識に、大きな揺さぶりをかけた。
彼らは、個々が森と一体化して生きてきたが、「人間という異物」と「魔族という同胞」が力を合わせ、困難を乗り越える姿を見て、バラバラだった彼らの中に、「結束の必要性」を初めて感じ始めたのだ。
密林の精霊たちは、静かに、そして温かく、その光景を見守っていた。
森の生命は、新たな調和の兆しを、静かに歌い始めていた。
レオとリリスの旅は、ここ密林で、再び新たな段階へと進む。
彼らは、この地で得た学びを胸に、次の地へと向かうことになるだろう。